東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸人形「裃雛」(尾張屋春吉翁 作)

2011-03-01 23:54:12 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010125 最後の生粋の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。これらは、明治の終わりに今戸人形の需要が低下したため、人形作りをやめ、箱庭細工師となられた後、関東大震災の後に掘り出した型を使って人形製作を再開されてからの作です。

しかし、今戸焼の代表的なお雛様である裃雛の配色についても、群青を主とした配色や砂子(真鍮粉)をふりかける装飾など、天保年間以来のやり方を墨朱されていることがわかります。

明治出来の裃雛の赤部分にはスカーレット染料が使われているのに対し、春吉翁がお使いになっている朱色はむしろ天保年間の発色に近いものではないかと想像していますがどうでしょうか?(男雛の顔を肌色に塗っている点については不明ですが、、。)

また、春吉翁は色違いの手の込んだ彩色も遺されています。裃部分に松竹梅の模様を描き込んだり、女雛のうち掛けに桜の模様を描き込むなど骨の折れる描彩です。こうした裃雛の絵付けは春吉翁の工夫によるものなのか、あるいはこうしたものも作られていたのかはわかりませんが、模様のパターン自体はそれ以前の今戸人形に部分的に散見できるものです。

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今戸人形「裃雛」(明治時代)

2011-03-01 23:29:32 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010124 今戸焼の土人形のお雛様の中で、最もポピュラーであったと思われる裃雛。画像の人形のような群青色をふんだんに使った配色のものは、天保年間から登場しているのではないかと思いますが、天保年間には赤部分に鉛丹や朱色を塗っていたのではないかと思います。画像一枚目の人形たちの赤はスカーレット染料で塗られているので、明治に入ってから、或いはスカーレット染料は幕末には使われていた、という意見も耳にしたことがあるので、維新より少し前には導入されていたかと考えることもできるかもしれません。

いずれにしてもスカーレット染料の歴史を調べた上で改めて判断すべきかもしれません。画像にはありませんが、スカーレット染料の赤以外にも洋紅顔料を使っているものもみられます。2枚目の画像の一対は裃やうち掛け部分はバイオレットの染料、着物部分は洋紅顔料で塗られています。

江戸後期の裃雛に比べると、型も崩れてきていますし、彫りも甘くなっています。しかしどちらかというと、このような人形こそいかにも大量生産されていた今戸人形という感じがしませんでしょうか?

群青の上には砂子(真鍮粉)が撒かれています。墨で襟の線を描いたものと、群青を胡粉で薄めた水色を置いたものと襟元の表現が二通りみられます。

それぞれの人形の面描きを比べてみると、さまざまな筆致の違いがわかります。今戸の土人形生産では全工程をひとりの人間が行う場合もあったかもしれませんが、成形、素焼きまでを行う「木地屋」と問屋を介して、手内職で絵付けを行う人達との分業体制もあったようですから(落語「骨の賽」(今戸の狐)にもその様子が出てきます。)面描きの癖の違いがあっても当然のようです。

裃雛には大小いろいろな大きさも見られますし、女雛の髪型の異なるもの(中央に見られるような)もあり、またバリエーションとして団扇を持っているものなども出土品には見られます。

また動物を擬人化した座り姿の人形類などは、これらの裃雛をもとに頭を作り替えてできた原型も少なくないのではないかと想像しているのですがどうでしょうか?

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今戸人形「裃雛」(江戸時代後期)

2011-03-01 22:09:52 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010121 今日から3月。上巳の節句、雛祭り目前です。

今戸焼の土人形の中にもお雛様は色々な種類が作られていたと思われます。一文雛、古今風の雛、浅草雛、そしてそれに付随する三人官女や五人囃子、随臣もあったようです。しかし、今戸焼のお雛様で最もポピュラーであったと考えられるのが、この裃雛です。

都内の近世遺跡からの出土の量、伝世品の数を見ても膨大で、今戸焼で作られた人形の種類の中でも、稲荷の狐、恵比寿大黒と並んでベストスリーに並ぶものではないかとさえ考えられます。

裃雛は下総地方へ大量に鬻がれたことから別名「下総雛」とも土製の裃という意味で「ドガミシモ」とも呼ばれていたようです。人形の一大産地である埼玉県鴻巣では着付けの裃雛が大量に生産されていたのに対して、土の裃で「ドガミシモ」でしょうか?女雛は「今戸のあねさま」とも呼ばれていたようです。

伝世の裃雛としてよく知られているのは、群青色と洋紅またはスカーレット染料の2色で塗り分けられた配色のもので、天保年間以降明治中頃まで作られていたものが多いですが、画像のように植物のキハダと蘇芳(すおう)を煮出した汁によって塗られたものも存在します。

群青色(プルシャンブルー)が土人形に使用されるようになったのは、浅草橋にある老舗の人形問屋「吉徳」さんに遺されている天保年間の人形・玩具の配色見本の中に見出せるので、天保頃からかと考えられますが、画像のように植物の煮出し汁を使った彩色は、それより古いやり方ではないかと考えられます。しかし、新しい顔料が渡ってきたとしても、或る日一斉に全ての絵付け師たちが同じように彩色を一新するとは考えられないので、過渡期には植物染料で絵付けする人と新しい顔料を使う人とが共存する時期もあったことでしょう。

画像のお雛様はサイズが揃っていないので、本来の一対ではありませんが、植物染料の使い方、配色など時代としては同じくらいのものでしょう。キハダ汁の使い方を見ると、汁を塗って黄色く発色させたままの部分とその上から砂子(真鍮粉)を散らして変化をつけている部分と区別しています。

2体とも面描きの筆の穂先や、額の生え際のタッチが鋭く、丁寧です。また、顔の地肌を研ぎ出し(膠を多目に混ぜた胡粉地を乾いた紅絹布などでつややかに磨き出す)てあるなど、かなり手の込んだものなので、今戸焼の土人形の中でも、高級志向の仕上げのものと、普及品とのランクがあったのではないかと思いますがどうでしょうか?

港区三田の牧野家墓所から出土したという裃雛がありますが、その手の込んだ面描きに画像の人形も似ているような感じがします。

裃雛の女雛がその昔「今戸のあねさま」としていかにポピュラーだったかを示す「地口ゑ手本」があります。お時間ありましたら、どうぞ。

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