東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸焼(45)「都鳥型の香合」(白井幸太郎 作)

2011-03-05 15:55:45 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010006 嘗ては今戸には今戸焼の元締め的な存在であった白井家は戦前まで3軒あったといいます。

本家の白井善次郎家(東京大空襲により戦後、葛飾区宝町へ移住。)と善次郎家から7代前に分家したという白井半七家(関東大震災により小林一三ら関西の茶人に招かれ兵庫県へ移住。)そして、江戸後期(弘化4年頃?)に善次郎家から分家し、現在も今戸で操業されている白井孝一家です。

これまで「今戸焼」のカテゴリーでは上記の善次郎家と半七家で作られた製品をいくつかとりあげてきましたが、今回はじめて現在の今戸の白井さんのご先祖様の製品をとりあげることができて嬉しいです。

できれば今戸に複数の窯元があった時代に作られたものを知りたいと思っていますが、現在白井さん作られている製品には「今戸焼」という陶印が押されて作られていますが不自然だと思います。昔(少なくても戦前以前の)今戸焼の製品に「今戸焼」という陶印で売られていたという例を見たことがないので、できれば「今戸焼」という陶印が使われる以前の自然体の時代の白井さんの製品を知りたいと思っていたからです。(「今戸焼」という刻印が新京極とかで修学旅行土産に売られているチープな「本物 西陣織」とか「手作り 西陣織」とかいうラベルの感覚に近いような気がしてもったいないと思います。)

 善次郎家の製品にも半七家の製品にも「今戸焼」という陶印が押されたものを見たことがなく、半七家が「壽ミ田川 半七」(七代目まで)という陶印を使っていたくらいしか知りません。「善次郎家」では「善入」という陶印です。

現在の今戸の白井さんが昭和40年頃使っていたらしい「今戸 白孝」という陶印の押された器物はどこかで観たことがあります。「今戸焼」という陶印が使われる以前のものでしょう「今戸の白井孝一家」という意味ですっきりとしています。しかし案外と「今戸焼」という以前の陶印のついた器物にお目にかかることがありませんでした。

画像の香合の底には陶印があり「白幸」(白井幸太郎)の作であるか、あるいは屋号としての「白井幸太郎」窯であることがわかります。

「民芸手帳 昭和51年9月号」に露木昶という方が書かれた「今戸人形」という記事があります。当時は白井孝一さん(明治43年生まれ)がご当主だった時代で、私がママチャリではじめて今戸を訪れた時期に近いようです。記事の中で「孝一さんは、有名な白井家の別れで、4代目。初代清次郎(ママ)、2代幸太郎(安政5年生まれ)、3代鉄太郎の続きである。」と書かれています。

ついでに明治12年(1879)12月印行「東京名工鑑」(東京府勧業課 発行)をひもといてみると初代・白井清二郎(ママ)について記されています。

「今戸焼工 浅草区今戸町三番地 白井清二郎 五十五歳   

所長  茶器  

製造種類  茶器 火入 手焙 涼炉 火鉢 

助工人員  長男壱人

博覧会出品  内国博覧会へ 火入 村雲焼 五個  尿器 アサガヲ 蝋色 二個 ヲ出品  シテ花紋牌ヲ受タリ

開業及沿革  父善次郎二就テ学ヒ廿三歳ノ時當所ニ於テ開業セリ當時専ラ茶器ヲ製造シ通四丁目堀津長右衛門へ販売セシカ維新頃ヨリ該器不流行ニ属シ前二掲クル品種ノ製造ヲ創メタリ然レトモ猶時トシテ同家ノ嘱託ヲ受ケ茶器ヲ製スル□アリ従前ニ比スレハ現時ノ工事凡五割ヲ増加セリ 」

とあり、初代・清ニ郎は文政7年頃の生れで長男壱人とあるのが、2代幸太郎ということなのだと思います。清ニ郎さんも幸太郎さんもいつまで製作をされていたのかはわかりません。

今戸焼白井家3軒の関係を文献などから要約してみると

白井善次郎家(本家)→→→→→→→→→→→→→→→→戦災により葛飾区宝町へ転出。

 

  ?白井半七家(分家)→→→→→→→大震災により7代目のとき関西へ移住。9代目まで

    白井清二郎家(弘化年間、本家より分家)→2代目幸太郎→4代目孝一さん(現・今戸)

ということになるかと思います。今戸神社にある狛犬の台座の銘文には白井善次郎と白井半七の名前が刻まれていますが、清次郎家の名前がないのが、当時まだ分家独立していなかった時期だったからでしょうか。

画像の都鳥の香合はかなり大ぶりな造りで手取りもずっしりとしています。(香合としては大きすぎ)大ざっぱな造形ですね。

今戸の白井さんへは久しく出かけていませんが、最近は2匹くっついている「シャム双生児風招き猫」で有名になっているようですね。これは人形とか郷土玩具の愛好家の人々で言われていることなのですが、白井さんの人形の型も配色も面描きも昔(江戸明治)の今戸焼のものとは随分違う。(昔の今戸の人形には異なる作者たちの中にもきまり事があり、それが今戸人形の特徴になっていた。)この辺りが謎でもあるのですが、白井孝一さんの昔の聞き書きというものが、台東区立下町風俗資料館発行のものに記録されているのですが、孝一さんは昔も人形を作っていた、と語っておられますが、戦前の今戸の窯元を調べた記録が残っている中に、人形の作者としては記録されていないのです。今戸焼の人形の作者として戦前に名前が記録されているのは、尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)と鈴木たつ、加野とくの3人だけで、白井さんの家は「薬風炉」と記録されている。つまり、この画像のように釉薬をかけた焼き物類が白井家の本来の伝統的な製造品であったわけですね。郷土玩具を収集されていた古い方に昔お話を聞いたことがあるのですが、戦後になって最後の生粋の今戸焼の人形師であった尾張屋・金澤春吉翁も既にお亡くなりになり、もう今戸焼の土人形はなくなってしまった、となると愛好家に人達は残念でたまらない。

そこで、戦時中防空壕にしまっておいた春吉翁のお人形は湿気で色がとれてしまったものがあったので、それを白井さんに提供して、そこから型を抜いて、人形作りを薦めた。それが白井さんの人形作りのはじまりで、現在に至っているわけです。人形に関しては尾張屋さんからの直接の子弟関係がないので、白井さんの人形の色や特徴は当てずっぽう的で昔のとは違うわけです。

あと不思議に思っているのですが、白井さんの招き猫の火入れやおかめの火入れの型ですが、江戸明治のものとも、尾張屋さんが作っていたものとも違います。尾張屋さんの火入れの型は江戸明治の伝世品や遺跡からの出土品と比較しても同じ造形なのですが、白井さんの型と同じ出土品が発見されたという話を聞いたことがない。比較して同じ造形のものが出土品や江戸明治の伝世品にあれば納得なのですが、、、。やはり戦後に新しく造形された型なのかなあ?と思っています。

追記:白井さんの火入れや河童については、昭和40年頃から作られはじめたもので、原型は下谷の小野照崎神社のそばにいらした飾職の上野さんという人が作ったということです。招き猫の火入れの原型は上野さんではなく先々代の白井孝一さんがご自分で原型を起こされたように聞いています。小さな白い正面向きの鈴とリリアンをつけたタイプは戦後、豪徳寺から出された招き猫とよく似ているので(画像を乗せた戦後の本がある。)その関係を知りたいと思っています。歴代の今戸焼の土人形の招き猫の中で、鈴とリリアンをつけたものはおそらく京都のおみやげ招き猫からの模倣による戦後の白井さんのオリジナルであり、「戦後ニューウエーブ今戸焼」のパイオニアと言えるのではないでしょうか。

古い家柄の人が今戸で土人形を作って売っているので「創業500年 今戸焼」という大看板生業されていることに何とも言えませんが、せめて江戸明治の今戸人形とはまったく違う出来上がりのものであるので、「伝統を守っている」という表現とは遠いような気がします。むしろ「ニューウエーブ今戸焼」とでも呼んで区別すべきだと思います。ショッキングピンクに塗られた「口入狐」とかオレンジ色の「子守狐」なんてのもありました。 世間の人々もその点何も知らずに「これが江戸から受け継がれているものだ」と感心している向きの方も少なくないでしょうが、何とかして昔の今戸人形を皆さんにもっと知ってもらいたいですね。このあたり郷土玩具の愛好家の先輩の皆さんがよき時代の今戸人形というものを早くから啓蒙的に活動すべきだったのではないかと思います。未来には百科事典で「今戸焼」を調べたら、当然のように白井さんの「ニューウエーブ今戸人形」が図版に出ているなんてことになるのが心配です。事典にはやはり江戸以来の正しい伝統を引く「尾張屋春吉翁(明治元年~昭和19年)作の人形か、「白井善次郎家」か「白井半七家」の作品を具体例として示すべきではないでしょうか。


今戸人形「官女」(明治時代)

2011-03-05 13:56:09 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010005 実物に接するまで、今戸焼の土人形の中にこのような種類があることを知りませんでした。

立ち姿の官女で両手にしているものが従来の三人官女の「長柄銚子」なのか「舞扇」であるのかよくわかりません。

しかし、一人立の人形ではないような気がするのですがどうでしょうか?三人官女でないとすれは、「浦安の舞」のような、「浮世人形」形式で下段に飾るもののような、、、。まさかお三輪をいじめる官女や舞踊「六歌仙」の清元の「文屋」にからむ官女のひとりということはないのかもしれませんが、、。

「田町は昔今戸橋、、、」なんて件がありますね。舞台では文屋康秀と「恋問答」になる件ではこういうポーズで扇で拍子をとっていたとも思います。

組み物の人形であるとすれば、「古今風の雛」に付随しそうなややリアルな姿だと思います。

木地に胡粉の地塗りをした上にキラ(雲母粉)塗りをして、その上から顔料を塗ったか、または顔料にキラを混ぜて塗ったかのひどくメタリックな風合いです。

仮にこの官女のお主となるべき明治の「古今風」の今戸のお雛様は片割れしか手持ちがなく、また植物染料で塗られた江戸時代後期風の「古今風」のお内裏様も片割れで、揃っておらず、ご紹介するのにちょっとためらってしまい、またに機会にでもご紹介できれば、と思います。


乾也雛と浅草雛

2011-03-05 13:28:41 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010004 このお雛様自体は今戸焼の土人形であるということではないと思うのですが、今戸焼周辺で作られた「浅草雛」という形式の人形とのつながりがあるのではないかと思うのでとりあげてみます。

この土雛もまた供箱で、「乾也雛」という箱書きと箱裏に「大正7年4月吉日」と記されています。月遅れの初節句に求められたものなのでしょう。

しかしどう見ても三浦乾也の作ではなく、乾也作の様式の雛、乾也風雛として作られたものではないかと考えています。

東京国立博物館には三浦乾也作の「土製室町雛」が収蔵されていますが、目がくらむ程の精緻な描き込みのある作品で画像の人形とは作品の密度が違います。しかし共通点を挙げるならば、団子のような丸い頭に独特の形の鼻、リアルさを離れた様式化されたフォルムといったらよいでしょうか?檜扇や笏の形も似た方向性です。

三浦乾也は今更ここで述べるまでもなく、幕末から明治にかけての奇才。江戸に生まれ、各地を巡って作陶に留まらず、伊達藩お抱えで軍艦まで設計したという人。ちょっとレオナルド・ダヴィンチのような人です。乾山焼きの5世乾山にも数えられる人ですが、晩年向島に窯を開きさまざまな名品を世に遺しています。笄や緒締めの「乾也珠」は庶民にも人気があったとか、言問団子の都鳥の皿なども遺してしますが、一代のアーティストであり、近辺の今戸焼や隅田川焼の職人とは一線を画す存在であったはずです。しかし職人さんたちとの交流は十分あったことと思います。

さて、乾也作の雛、乾也風の雛の形状が今戸近辺で作られていたと思われる「浅草雛」にも共通するところがあります。残念ながら「浅草雛」そのものは手持ちにないのでご紹介できませんが、団子状の頭に様式化されたフォルム、檜扇や笏の形に描かれる模様など似ていると思います。以前、郷土玩具関係の会に所属していた折、今戸人形のお詳しい大家の方にお訊ねしたところ、「次郎左衛門雛」を意識したものだろう」というお答えでしたが、「次郎左衛門雛」にも似ています。またこれまでご紹介した「一文雛」もまた団子状の頭で女雛の袖と袴の形状も似ていると思います。千葉県の「芝原人形」のお雛様にも団子頭のものがあり、こうした浅草雛を意識したものではないかと考えています。

幕末から明治にかけて福島親之という木彫や画をする人が浅草にいたそうで、その人もまた、木彫の「浅草雛」を作ったといいますし、「浅草雛」は単に浅草で鬻がれた雛人形全般ではなくて、ひとつの様式なのではないかと思います。

「浅草雛」もまた、そのうちに是非手がけてみたいお雛様です。


今戸人形「一文雛と五人囃子」

2011-03-05 12:30:38 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010003 このお人形や台、敷台一式全ては桐箱に納められており、「江戸時代 一文雛」という墨書きがあります。

これは後に懐古的に作られたものではないかと思いますが、江戸時代に今戸焼周辺で作られた実物に即した土人形で、この様子から江戸時代の一文雛の面影を偲ぶことができるのではないかと思っています。裏付けはありませんが、西澤笛畝あたりの時代の再現品でしょうか?

彩色はすべて顔料。襟元に使われている鉛丹は変色してしまっていますが、もともとは朱色に近い発色だったことでしょう。

女雛の裳には3つの姫小松が描かれています。


今戸人形「一文雛」

2011-03-05 12:21:18 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010001 画像の小さな土人形のお雛様は、今戸焼周辺で作れれたものか、後になって実物に即して懐古的に作られたものなのか、ちょっとわかりません。

しかし女雛のうち掛け部分に塗られたワイン色に見える部分が顔料ではなく、キハダと蘇芳を煮だしてブレンドして塗った色に見えます。蘇芳の汁に対してキハダの汁の割合が少なめであれば、このような色調を出すことができると思います。

もし後の時代に懐古的に作られたとすれば、明治の終わりから昭和戦前くらいだとして、わざわざ植物の煮出しをしたかどうかというのが疑問に思えるのです。この人形は焼かれておらず、かなり脆い感じです。女雛の裳部分には姫小松は描かれていません。