今戸焼だったら面白いな、という思い入れが先走っているのです。しっかりとした裏付けもなく、今となっては確認する手立てもないかと思うのですが、、。
埼玉県比企地方の旧家から出た、と聞いています。それもひとつではなくて複数でした。実際使ったらしい痕跡はないので、荒物屋さんなどのデッドストックだったのかもしれません。
陶製の釜といえば、駅弁の釜めしの釜が益子焼で作られているのは有名です。だからいの一番に益子を連想しました。また、こうした代用品の羽釜は、中京地方の焼きものでも作られていたというのを聞きます。
ではどうして「今戸焼」という連想をするかというと、、①土の色が今戸焼の製品のものに見られる範囲と似ている。 ②透明釉のかかったところの色も今戸焼の施釉の色に似ている。 ③釉薬の一部に偶然の産物?ながら黒い斑がある。ちょっと雲華のようにも見える。 ④白井善次郎家の和夫さんのところで戦前釜めしの釜を作っていたというのを読んだことがある。
これらどれをとっても決定的な判断基準にならないことは百も承知なのですが、、、。といって可能性ゼロとはいえないような、、。
④の善次郎家で作ったという釜を見たことがないのですが、釜めしの釜だったらもっと小型でしょう。でもこのように大きなものを作ることもできたかも、、。また、善次郎家に限らず、作りそうな家はあったかも、、、。
戦時中、金物の供出によって、陶製の代用品があった、という話はよく聞くのですが、画像の釜は本当に実用に耐えられたのかどうか???、といういうのも、焼きが甘く、ちょっとぶつけただけで欠けたり割れたりしそうな脆さです。ささらなどで洗うにしてもどれだけ耐久性があるのか不思議です。
「鋳込み」による成形でできています。今戸に限らす、各地で「鋳込み」による大量生産は行われていたでしょうが、今戸でも導入されていたことは確か。この釜はかなり雑なつくりで、泥しょうをしっかり撹拌していないのか、気泡や不純物が混ざっていたのか、あちらこちらに蚊に刺されたような痕があります。私も以前、「鋳込み」や「機械ろくろ」での成形をちょっと経験したことがあるのですが、「鋳込み」は簡単のようでいて、結構面倒だと思いました。泥しょうの撹拌や裏ごしをしっかりとしないと、ダマが混ざっていたりして空気や不純物が痕に残るんです。あと泥しょうに混ぜるケイ酸ソーダの分量によって出来上がりがおかしくなってしまうなど面倒だな、と感じました。
戦時中の統制品の中には記号などの彫やスタンプのようなものが押されているのもあるようですが、これには、それらしき痕もありません。物資のない時期は、戦後にも続いていたはずなので、或いは闇市などで商われた商品だったのかという空想も湧いてきます。
そんな訳で、これは絶対に今戸焼ではないという否定的材料も手元にはないので、思い入れでとりあげてみました。これなど「出自のわからにものは認めない」と言われてしまうものの極みですけど。
わかる方がいらっしゃたらお教えくださると幸いです。
最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。
夫婦一対ですが福助さんが裃姿でなくて紋付袴姿です。伏見人形の中にはこうした姿のものもあるかと思いますが、今戸にもあったのですね。
お福の配色は赤部分の顔料が新しいかもしれませんが、天保年間の配色手本と大差はありません。このように伝承されていたということがすごいと思います。
面描きの筆さばきも素晴らしいです。
(検索 今戸焼 今戸人形 墨田川焼 今戸神社 縁結び パワースポット ご利益 お守り おみくじ 白井 半七 東京 スカイツリー 伝統 工藝
民藝 民芸品 土人形 メトロ 郷土玩具 おみやげ 観光 物産 伝統 台東区 江戸 干支 猿 戌 狐 稲荷 丸〆猫 招き猫 発祥の地 tokyo
asakusa imado sensouji tenple sightseeing tourist information souvenir tradition handcrft japan festival poetry oldstyle doll toy display )
今戸焼の土人形の福助の型としては福助とお福の夫婦タイプよりも更に古い?と考えられるのが、この「叶 福助」です。この叶福助のルーツは現在の大丸百貨店の創業とも関わっているようです。
嘉永5年の丸〆猫(まるしめのねこ)の大流行に先がけて文化年間に江戸市中で流行したようです。このことは街談文々 第壱話ー第五話)の記録に残っています。
これは文化文政期(1804-1829年)の巷の話題を書き記したもので作者は石塚豊芥子、別名集古堂豊亭とも言った人だそうです。
第弐 叶福助起原
一 当春より叶福助と号(なずけ)し頭大きく背短く上下(裃)を着し
たる姿を人形に作り、張子又は土にて作り一枚絵に摺出し、
其外いろいろのものに準(なぞ)らへ、尤(もて)あそぶ事大ニ流行す。 後には
撫牛の如く蒲団に乗せ、祭る時は福徳ますとて小(ちいさ)キ宮に
入(いれ)、願ふ事一ツ成就すれハ蒲団を仕立上ル事なり。 其根元なんと
いふ出処を知らず、 唯愚夫愚婦の心ニも応せさる願立
いたしけるこそうたてける。 其節の落首に
とくし(特祠)よりよひ事ばかりかさなりて
心のままに叶福助
叶福助伝ト小本出板
福助伝
一 ある人のいふ江都の士何某みやこ在勤のおり福介とい
ふ小者(ずさ)主人の出世を神にいのり、やがて
昇進有りしとかや。 主人も誠忠を感じ、福介なきのち
も深草なる土偶つくに、かの福助が形ちを製させ、いますが
ごとく配前なせしといへり。 こと替りし物なれば夫より手遊(てすさび)ニも
商(あきな)ふ時ハ斉の晏子に同じけれハ、人とけいする事も知らず。 衣
服に眠子が紋ハあれど舞台の心いきおぼつかじ。 あたまは
頼朝の異名をかふむりながら、人品つたなし。 朝比奈にハ髭
なく梶原にでじまなし。 只大文字屋の昔を思ふのミ
されど誠忠四方にひびきて、衆人尊敬して福助
をいのるしるしあり。 嗚呼称すべし娼家の神棚に三
平自慢のお福のめん、揚場の上にたつハ容人大
明神の御使者なるかや
あをげただ君子の
徳や涼風の
ふくハうちはの
絵こそめてたき
立川えんま師述
右は 立川談洲楼焉馬翁の福助の賛なり因(ちなみ)ニ爰に書ス
戯文 叶福助親類書
一 高百千万石 本国 深草 福神組西宮夷三郎支配
生国 今戸 叶福助
拝領屋敷宿処当分手遊方(てすさびかた)ニ住居仕る
一 毘沙門様御代、私父福寿延命小判改御役相勤候節
へやずみ被罷出(まかりだされ)、見習被仰付(おうせつけられ)文福元甲子年福寿
金銀等銭沢山ニ罷成(まかりなり)、願の通隠居被仰付(おうせつけられ)此旨於
鶴亀の間(まにおいて)、七福神御列座出世大黒天殿被仰渡(おおせわたされ)、直(ただち)に
御金蔵白鼠番被仰付(おうせつけられ)、 当時金貸仕(つかまつり)候
於多福女郎娘
妻
豊芥按(あんずる)ニ
此叶福助の人形の起りハ新吉原京町弐丁目妓楼、 大文字屋
市兵衛初メハ河原見世にて追々仕出し、京町弐丁目へ移り
大娼家となりぬ。 此先祖至(いたっ)て悋惜(りんせき)にて、日々の食物菜の物
も下食(げじき)成(なる)ものを買置、夏の間ハ南瓜多く買置、秋迄も惣菜に
ものしける由へ、近辺の者悪口ニ唱歌(となえうた)を作り「ここに京町大文じ
やの大かぼちゃ、其名ハ市兵衛と申まス、ほんに誠ニ猿まなこ
ヨイハイナヨイハイナト」、 大きなる頭を張ぬき、是を冠り踊り歩行し、此唱
歌大評判になり、大文字屋ハ寿々(ますます)大繁昌せり
此歌の手遊(てすさび)に是ニもとづき、 大頭の人形に上下を着せ叶福助ト
名号(なづけ)何まれ願ひを懸ケ、利益のある時ハ布団拵(こしらえ)上る事なり
又上の山方に頭大き成る男に柿色の上下を着せ、 年頃十二三叶福助ト云々
見世物に出したり。 是等もあたま大キ由へ顔を晒して利分を得たり
相良侯ハ撫牛を信して出世ありしとて世の人是をまなぶ。 叶
福助も今に廃(すた)ることなし
以上は江戸市中での流行を綴ったもので、実は京、大阪での叶福助の流行が江戸に移入された後に江戸バージョンの話の内容にすげ替えらえたのではないでしょうか?新吉原京町弐丁目妓楼、 大文字屋 市兵衛とあるのはオリジナルの話では現在の大丸百貨店の前身の大文字屋の創業者・大文字屋 下村彦右衛門の物語だったようです。
大丸百貨店創業にのついては大丸百貨店のHPに
大丸の歴史は、1717年(享保2年)、京都伏見の古着商の家に生まれた下村彦右衛門正啓が、伏見に呉服店「大文字屋」を開いたことに始まる。この時、正啓は、店のしるしとして○に大の文字が入った商標を採用した。○は天下を表し、大は人と一を組み合わせたものとして、このしるしは天下一の商人になろうという心意気を示したものであると大丸では伝えられている。「大文字屋」の人気は上々で、9年後の1726年(享保11年)には大阪の心斎橋に2号店を出店、続いてその2年後、1728年には名古屋に出店した。この名古屋店で初めて、商標にちなんだ「大丸屋」という屋号を使用している。名古屋店出店の翌年、1729年、大阪、名古屋の繁栄に呼応して京都に仕入れ店を設置、仕入れ担当者を常駐させ、問屋などの仲介を廃して直接仕入れを行うようになった。今でいうところの本部集中仕入れ、セントラル・バイイングである。そして1743年(寛保3年)、江戸の大伝馬町(現在の日本橋小伝馬町付近)に江戸店を開店した。進出計画は、開店の7年前である1736年(元文元年)から開始され、開店5年前の1738年(元文3年)に、正啓は江戸の同業者を訪ね、取引を約束して京呉服を送った。その荷物のなかに、○に大文字の商標を白く染め抜いた萌黄地の派手な風呂敷が何枚も同梱されていた。大きく便利な風呂敷だったため、取引先の使用人たちはこの風呂敷を頻繁に背負って歩き、やがて江戸の町々で大丸屋の名前が知られるようになった。こうして大丸屋江戸店開店は江戸中で大きな評判になった。
とあります。この下村彦右衛門という人は背が低く頭が大きかったそうで、福助人形のモデルになった人だと言われています。また、最初に店を出した京都・伏見こそは、今戸人形の母胎となった伏見人形の生産地で、たくさんの福助の人形の型が残されています。
画像の今戸の「叶 福助」もまた、伏見人形の型から抜き型されたものと考えられます。また江戸での「叶 福助」の流行は、「大丸屋」の江戸での開店に伴って、意図的に仕組まれたものではなかったかと想像することもできそうです。江戸での開店から文化年間までは50数年間以上の開きがあるのですが、本家の伏見人形の福助もまた、「大文字屋」の創業に合わせてすぐに流行したものとは限らず、「大丸屋」の繁盛に便乗して流行したものとも想像でき、また京、大阪での福助の流行から遅れて江戸に流入した訳ですから、じわじわと世間に浸透していったことを想像すれば、どうでしょうか? 販売促進の手法として途中から導入されたとか、、、?
もういちど街談文々 第壱話ー第五話の記録に戻りますが、頭大き成る男に柿色の上下を着せという表現から、当時の今戸の「叶 福助」の人形は裃が柿色=べんがらの顔料で塗られていたのではないかと想像できます。このことは、江戸時代からの老舗人形問屋である浅草橋の吉徳さんに残されている天保年間の人形玩具の配色手本帳に描かれている福助の裃がべんがらに指定されていることに通じていると思いますし、実際残っている今戸焼の福助がそう塗られている事実とも符牒が合って面白いと思います。両耳のところに穴が空けてあり、麻の繊維の髪が植えつけてあります。これは伏見人形からの模倣でしょう。今戸人形に限らす、各地の伏見系の土人形の福助には、こうした工夫がよく見られます。また、眼点の位置、つまり目線が下向きに描かれているのは、神棚にお祀りした場合、下から拝む人の目線と合わせることを意図しているものだと思います。
更に空想を巡らせば、丸〆猫の「丸に〆」というのは、大丸屋の「丸に大」との因果関係があったのかな?ということにもつながるのかどうか?
(検索 今戸焼 今戸人形 墨田川焼 今戸神社 縁結び パワースポット ご利益 お守り おみくじ 白井 半七 東京 スカイツリー 伝統 工藝
民藝 民芸品 土人形 メトロ 郷土玩具 おみやげ 観光 物産 伝統 台東区 江戸 干支 猿 戌 狐 稲荷 丸〆猫 招き猫 発祥の地 tokyo
asakusa imado sensouji tenple sightseeing tourist information souvenir tradition handcrft japan festival poetry oldstyle doll toy display )
落語「今戸焼」に登場する「今戸の福助」はこういうタイプではないか?と思われる今戸の土人形の画像です。都内の近世遺跡からも様々な型のものが出土していますが、変わり型は別として、「叶福助」と画像のような「夫婦」の2タイプが代表的なのではないかと思います。
もちろん「夫婦」タイプでも頭が極端に大きなものや持ち物の異なるもの、大小などの違いがあり、木地を作る人と絵付けする人も様々あったようで配色も微妙に違っています。
浅草橋にある江戸時代から人形問屋である吉徳さんには天保年間の人形玩具の配色手本が残されており、こうした「夫婦」の配色も描かれています。それによれば、福助の裃はべんがらに砂子をちらし、着物は群青。お福の打掛を群青に着物を鉛丹か朱、角隠しは鉛丹か朱を胡粉で薄めた桃色などの指定があり、今戸焼屋さんから木地を仕入れた問屋さんが手本をもとに別の人に絵付けを任せていたことが想像できます。
画像の人形は朱色部分が洋紅のような新しい顔料になっていますが、配色としては、手本のものとほぼ同じだと思います。
同じような型の人形でも大小色々なものや、配色の違うものがあり、色を変えることによって売れ行きを考えていたのではないかとも考えられないでしょうか?
ちなみに真ん中の列の右端の福助さんは、「福助足袋」商標のお辞儀の福助さんに一歩近づいたような前かがみ、頭が更に大きくなったようなモデリングですが、造りをみると今戸焼です。
(検索 今戸焼 今戸人形 墨田川焼 今戸神社 縁結び パワースポット ご利益 お守り おみくじ 白井 半七 東京 スカイツリー 伝統 工藝
民藝 民芸品 土人形 メトロ 郷土玩具 おみやげ 観光 物産 伝統 台東区 江戸 干支 猿 戌 狐 稲荷 丸〆猫 招き猫 発祥の地 tokyo
asakusa imado sensouji tenple sightseeing tourist information souvenir tradition handcrft japan festival poetry oldstyle doll toy display )
以前、落語「今戸の狐」について採り上げましたが、もうひとつの演目である「今戸焼」についても触れてみたいと思います。
落語そのものについては、ただ笑って聴いているだけの私ですので、うんちくを披露するだけの知識もありません。話に登場する言葉の端だけについてだけ触れます。
この演目は八代目三笑亭可楽師匠所演のCDを聞いたのみですが、さらさらと実に淡々と噺されていますね。
タイトルの「今戸焼」は噺のサゲの「今戸焼の福助」に由来するばかりなのですが、そのひとことで通用するだけ、今戸の福助というものが聴き手に周知されていたのですね。それだけ身近なものとして知られていたのでしょう。
「役者の福助」は成駒屋・中村歌右衛門家の大切な名跡である「中村福助」です。歌右衛門家では福助の名跡を空けてはいけない、と言われているそうなので、5代目歌右衛門(4代目福助として明治の劇界で絶大な人気を得た)以来常に名跡を継いでいる人があったようです。 歌右衛門家では児太郎→福助→芝翫→歌右衛門という順繰りに襲名していきます。では噺に登場するのはどの福助さんか?
この噺には「吉右衛門」と「宗十郎」という名前も出てきます。播磨屋・初代中村吉右衛門と紀伊国屋・沢村宗十郎です。吉右衛門は六代目尾上菊五郎とともに下谷二長町の市村座で人気をあげた人なので時代は大正以降です。この時代の沢村宗十郎は帝国劇場の専属として売っていた7代目と考えられます。この人は今戸にあった料亭「有明楼」を経営していたことでも知られています。この七代目宗十郎が亡くなるのは昭和24年なので、大正~昭和24年の間の中村福助さん。2人います。
先年お亡くなりになられた6代目中村歌右衛門さんも昭和8年に福助を襲名されていますが、まだ年少でした。そのお兄さんの「慶ちゃん福助」と呼ばれて美貌で人気のあった5代目中村福助(本名を慶次郎といった)こそが、この噺に出てくる「役者の福助」でしょう。現在の中村芝翫さんのお父上です。
今戸焼の土人形の福助ですが、いろいろな種類がありました。「叶福助」という人形もあったのですが、一番ポピュラーだったのではないかと思われるのが、画像のようなお福さんと夫婦の福助さんです。長年神棚にお祀りされていたのでしょう。煤けて色や絵付けがわかりません。この夫婦のタイプは両手を膝に置いたポーズのものもあります。画像の福助さんは扇、お福さんは宝珠を手にしています。
落語の「今戸焼」はYouTubeに八代目三笑亭可楽師匠所演の映像があります。まだご覧になられていない方はどうぞ。
YouTubeへ→ 今戸焼で検索してください。
王子の狐といえば、竹串で動く紙からくりのおもちゃが有名ですが、戦前まではこのような「王子」の文字の彫りのある土の狐もあったのですね。以前静岡のIさんからいただきました。
有坂与太郎箸「郷土玩具大成・東京篇」(昭和10年)にも写真と僅かな解説がありますが、今戸町内の産ではない、ということです。地元王子で作られているとも明記していません。一応焼きは入っていますが、大きさの割に手取りが重いです。しかし、土色は今戸の土にも似ています。型の構図は「浅草太郎稲荷」の狐に似ていますが、もっと大型な割には形がぼやけているので、結果的には今戸焼の狐を駆逐してしまった磁器製の向かい狐から型どりしたものではないかと思うのですが、、。ということで型自体はそんなに古いものではないかもしれません。
王子は今戸から隅田川を遡った上流ですし、また山谷堀の水も遡れば石神井川から来ているので地理的には土の成分が全く違うということはないと思います。
王子の飛鳥山では土器投げが盛んであったという話、隅田川上流の小台、宮城、堀船、豊島辺りにも瓦の製造が行われていたようですし、手すさびに作ることは可能だったでしょう。
ついでに「御府内備考」という地誌に王子辺りに16名もの土風炉師がいた(「今戸焼陶説考」・益井邦夫) とか、、?ええー本当に?という感じがしますが、そうだとすれば、王子辺りの産でも今戸焼の範疇に入るのかもしれません。
画像の狐に戻って、これが王子の産であるとは明記されていないのですが、こうしたものを遠くで作らせ送らせるほどの仕入れをするとは考えられないです。
そんな訳で、今戸系人形?としました。このほかに今戸産の鉄砲狐も王子に並んでいたのでしょうか。
今日から11月。そろそろ年の瀬に気分が向かう時期ですが、昨夜のどしゃ降りだの、明けてからの生暖かい空気のせいか、実感が湧いてきません。
公園で菊花展をやっています。なるほどそういう時期かと、、。でも菊見というともっと空気が乾いて寒々したムードで観るもの、という先入観があります。焼き芋と一緒のような、、。
昔は団子坂の菊人形なんて見世物が年中行事だったようで、絵番付なんかも残っていますね。
そのあとの時代は両国国技館での菊人形。
歳をとったせいか、菊の花が好きになってきました。ただ、こういう大輪の花は、何故か小森のおばちゃまの頭や、レディースアートネイチャーを連想してしまい、滑稽な感じがします。
昔の百円硬貨にも大輪の菊の花のレリーフがありましたね。好きなのは花の小さな菊。
ちなみに画像に見える植木鉢がみんなプラスチック製ですね。昔は菊鉢といえば今戸焼だったのです。松の枝で燻して焼いた黒い鉢でした。