東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸焼???「代用品?の陶製羽釜」

2010-11-10 14:37:09 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011000 今戸焼だったら面白いな、という思い入れが先走っているのです。しっかりとした裏付けもなく、今となっては確認する手立てもないかと思うのですが、、。

埼玉県比企地方の旧家から出た、と聞いています。それもひとつではなくて複数でした。実際使ったらしい痕跡はないので、荒物屋さんなどのデッドストックだったのかもしれません。

陶製の釜といえば、駅弁の釜めしの釜が益子焼で作られているのは有名です。だからいの一番に益子を連想しました。また、こうした代用品の羽釜は、中京地方の焼きものでも作られていたというのを聞きます。

ではどうして「今戸焼」という連想をするかというと、、①土の色が今戸焼の製品のものに見られる範囲と似ている。 ②透明釉のかかったところの色も今戸焼の施釉の色に似ている。 ③釉薬の一部に偶然の産物?ながら黒い斑がある。ちょっと雲華のようにも見える。 ④白井善次郎家の和夫さんのところで戦前釜めしの釜を作っていたというのを読んだことがある。

これらどれをとっても決定的な判断基準にならないことは百も承知なのですが、、、。といって可能性ゼロとはいえないような、、。

④の善次郎家で作ったという釜を見たことがないのですが、釜めしの釜だったらもっと小型でしょう。でもこのように大きなものを作ることもできたかも、、。また、善次郎家に限らず、作りそうな家はあったかも、、、。

戦時中、金物の供出によって、陶製の代用品があった、という話はよく聞くのですが、画像の釜は本当に実用に耐えられたのかどうか???、といういうのも、焼きが甘く、ちょっとぶつけただけで欠けたり割れたりしそうな脆さです。ささらなどで洗うにしてもどれだけ耐久性があるのか不思議です。

「鋳込み」による成形でできています。今戸に限らす、各地で「鋳込み」による大量生産は行われていたでしょうが、今戸でも導入されていたことは確か。この釜はかなり雑なつくりで、泥しょうをしっかり撹拌していないのか、気泡や不純物が混ざっていたのか、あちらこちらに蚊に刺されたような痕があります。私も以前、「鋳込み」や「機械ろくろ」での成形をちょっと経験したことがあるのですが、「鋳込み」は簡単のようでいて、結構面倒だと思いました。泥しょうの撹拌や裏ごしをしっかりとしないと、ダマが混ざっていたりして空気や不純物が痕に残るんです。あと泥しょうに混ぜるケイ酸ソーダの分量によって出来上がりがおかしくなってしまうなど面倒だな、と感じました。

戦時中の統制品の中には記号などの彫やスタンプのようなものが押されているのもあるようですが、これには、それらしき痕もありません。物資のない時期は、戦後にも続いていたはずなので、或いは闇市などで商われた商品だったのかという空想も湧いてきます。

そんな訳で、これは絶対に今戸焼ではないという否定的材料も手元にはないので、思い入れでとりあげてみました。これなど「出自のわからにものは認めない」と言われてしまうものの極みですけど。

わかる方がいらっしゃたらお教えくださると幸いです。