東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸焼(49) おかめの火入れ③(瓦質)

2012-10-23 22:45:48 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010932_2昔の今戸焼や今戸焼の土人形を広く観ていただいて、地場産業として盛んだった頃の今戸焼の製品についてこういうものがあった、とあくまで氷山の一角ですが知ることを共有してもらえたらと思ってのカテゴリーなのですが、春以来日々の話などに偏っていてこうしてご紹介するもの久しぶりです。

画像は瓦質のおかめの火入れです。

以前このカテゴリーで土人形式の素焼きに胡粉地塗り、顔料で彩色したおかめの火入れ2点をご紹介していますが、今回のものは瓦質なので真っ黒いだけです。

こういう仕上げは今戸焼といっても土人形などを作った人々とは別の瓦屋さんとか黒物屋さんといった職分の人たちの手で作られたものなのだと思います。

しかし画像を観ていただくと、型としては以前ご紹介した土人形式の火入れ①ともとは共通するモデリングなのではないかと思うのです。画像のものは地面に接する辺りがいくらか寸詰りになっていてその分顔と胴との割合が半々くらいに見えますが、型としてはもとはもっと裾の部分が長い元型から型どりする際に裾を詰めたのではないかと考えれるような気がするのですがどうでしょうか?画像では真底を撮っていないのですが、この火入れの底の処理は土人形式の火入れとは異なっています。土人形式のものだと多くは底はあげ底に作られていますが、画像のものは下から3枚目のたたら(土板)をただ平に当てただけです。画像正面の底に接する部分から上に底に当てた「たたらの厚み」が見えます。使い勝手とか機能性で考えるならば、底があげ底になっていたほうが、火入れの中に入っている火種からの熱の伝わりが少なくてよいのではないかと思うのですが、これは真っ平らです。

今戸町内または川上の隣町である橋場あたりで瓦が焼かれていたというのは明治も早い時期で明治終わりには瓦を焼く家はいなかったとか。しかし瓦を焼く家はもっと川上の荒川区の小台とか宮城、北区の豊島あたりにもっとあとまで残っていたと聞きますし、川向こうの墨田区、さらに東の葛飾区足立区あたりには昭和はじめくらいまではいたのではないでしょうか?

また黒物屋さんといって火消し壷とか手あぶり、火鉢、土風炉などを作る家は昭和のはじめの記録までは今戸町内にいたようですし、元今戸にいて代々東に移った人々もあったそうです。明治のはじめに今戸に橋本3兄弟という黒磨きの名人と呼ばれた兄弟の職人さんがいたという話はよく目にしたり聞いたりしました。

ちょっとよくわからないのですが、瓦焼きの場合、「松の枝を焼成の途中で炉に投げ込んで密封しておくと煤けて瓦になる」という話を読んだり聞いたりしたことがある一方、「黒磨き」や「雲華」仕上げにする場合、「素焼きの生地を磨いてから黒鉛の粉を溶いて塗り再び焼いてから磨く」のだと読んだり聞いたりしてもいるのですが、画像のような場合は松の枝なのでしょうか?それとも黒鉛なんでしょうか?わかる方にお教えいただきたいです。20年くらい前に今戸で燃料品屋さんをしていた明治生まれのおじいさんがいらっしゃって、昔のことをたくさん聞かせてくれたのを思いだします。その中で松の枝は船で茨城県の岩井辺りから運ばれてきて窯元に収められていたというのです。船は大きな帆をもった船だったとか。

おかめの火入れ①の画像はこちら→

おかめの火入れ②の画像はこちら→

 

P1010933

 


今戸焼(48)「隅田川の灰器」(白井善次郎 作)

2012-04-02 01:44:49 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010526桜は開花したのでしょうか?

今年は例年に比べて遅いようですね。卒業式向けには遅くて残念だったかと思いますが、入学式向けにはラッキーかもしれません。

桜ということで思い出しとりあげます。茶道については皆目わからないので、猫に小判かもしれません。箱に「隅田川灰器」と書いてあります。

白井家の本家「白井善次郎家」で作られたものです。底に「白井善入」という陶印があります。何代目の善次郎さんの作でしょうか?

器の側面に桜の花びらが陰刻され散りばめてあります。「桜=隅田川」ということなのでしょうか?そういえば、これまでこの「今戸焼」のカテゴリーでとりあげた器物のいくつかにも桜の陰刻のあるものがありました。特に橋本三治郎作の炉台には桜の蕾に「隅田川」という文字も陰刻されていたので、やっぱり「桜=隅田川」という趣向なのか?もちろん今戸の川向かいの墨堤の桜は昔から有名ですし、「長命寺の桜餅」という名物まであります。浅草側の岸辺も今では隅田公園の桜で有名ですし、言問橋の袂には瀧連太郎の「花」(春のうららの隅田川♪)の碑もありますね。

今から20年くらい前に葛飾区の宝町にいらした「善次郎家」の白井和夫さんを訪ねて、焼成窯や仕事場を見学させていただいたことがありました。同じく葛飾区内青砥の内山英良さんのお宅にもお邪魔したのですが、どちらをお訪ねした時も感動しました。趣味品とか民芸品という看板ではなく、ごく普通に植木鉢とか焙烙だとかを作っていらっしゃるんです。「ああこれが今戸焼の本来の姿なんだ、、、、、。」と。内山さんのお宅の敷地には粘土の山があって、近くで採取された土なんです。「これは粘い土」「あっちはさくい(粗い)土」とお聞きして、ふたつを混ぜ合わせて製品に合う土にブレンドするそうでした。

白井和夫さんの家(善次郎家)は東京大空襲のあと、葛飾に移られて家業を続けておいでだったそうで、もとは今戸にいらした訳です。今戸神社の狛犬の基壇の連名に刻まれている「白井善次郎」家なんです。白井和夫さんから7代前(8代前だったか?)に善次郎家から分家したのが「白井半七家」で、同じく狛犬の基壇に名前が刻まれています。知名度としては「半七」のほうが知られているので「半七家」が本家のように書かれているものもありますが、「善次郎家」が本家で、「半七家」は分家。それと今、今戸にいらっしゃる白井さんは幕末頃、「善次郎家」から「清二郎」という人が分家してそこから続いているそうです。「半七家」は七代目の時、関東大震災で罹災されたのをきっかけに小林一三ら関西のお茶人に招かれて、兵庫県の宝塚に移住され、あちらで窯を築いたそうですが、それ以降も代々の当主が変わる度に本家の「善次郎家」に挨拶に上京されるのが慣わしだったそうです。

お邪魔した当時、和夫さんから色々なお話をお聞きしたものの、こちらが理解するだけの予習をしていなかったので、今になって本当にもったいないことをしてしまったと後悔しています。「みがき」のことや昔の今戸のことなど、、、。有名な言問団子の都鳥の皿も善次郎家で焼いて納めていた話、隅田川に架かる「吾妻橋」の土台の煉瓦や丹那トンネルの煉瓦作りの技術指導にも和夫さんのお爺さんの善次郎さんが関わっていたとか、、。それと今戸焼の土人形の尾張屋さんの話、「猫屋」さんの話も出てきたので、最近尾張屋さんの金澤家からお聞きした話と繋がってくるのです。

画像の灰器に話に戻ると、和夫さんのお話で、白井家の楽焼では釉薬をかけてから砂を振るとか(或いはその反対?)聞いた憶えがあるのですが、画像の口縁の辺りに砂っぽいものが見えるのが、このことなのか?と思っています。「半七家」の作の香合でも砂っぽいものがついているのを見た憶えがあるので、同じことなのでしょうか?できることならば、今こうした現物を持って、和夫さんに質問できたらよかったと思うばかりです。

「桜=隅田川」という趣向なのかわかりませんが桜の花の陰刻のある今戸焼の器物について他にも記事にとりあげていますのでお時間ありましたらご覧ください。

炉台(橋本三治郎作)→

紅塗りの手あぶり(白井半七作)→

紅塗りの手あぶり(橋本三治郎作)→


今戸焼(47) 灰皿 (大平造)

2011-11-04 02:02:55 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010419最近明治頃の日本からの輸出陶磁器を中心に当時英文で書かれた日本の陶磁器についての本をとりあげたブログを知りました。その中で今戸焼についての説明とその訳をとりあげられていて、今戸焼の中に「大理石のような」装飾で成功しているといった表記があるのが面白いと思いました。「大理石のような」装飾とある表現に当たるものは、これまでに橋本三治郎作の手あぶりや炉台などがそれに当たるように思いますが画像の灰皿もまたそれらしき感じではないでしょうか?

この灰皿は今日見慣れた灰皿のように煙草の受けがあります。 「大平造」という陶印があります。

昭和9年・大阪山中商会発行の「日本陶磁器名工略伝」という書物に「◎大平(たいへい) 明治二十三年頃、無釉の火鉢類を製し、下掲の銘を款したるものを出せり。作は巧妙にして、素人の域を脱せり。或は曰ふ、今戸白井系の人ならんかと。」
という記述があり、また他の書物でも同様な記述が見られるので、この灰皿もまた上記「大平造」のものだと思います。「今戸白井系の人ならんかと」とありますが、屋号のみで実際の作者の表記はありません。

葛飾区青砥で今でも素焼きの,植木鉢を作っていらっしゃる内山英良さん(今戸焼はまだ葛飾区内でも健在なのです。)が所蔵されていた昭和3年発行の「東京今戸焼同業組合」による「仲買渡シ相場表」という印刷物の中で製品の種類と価格とともに組合員34名の氏名と屋号が記されている中に「大平事 橋本龍太郎」という名前が記されています。

また昭和8年発行の「郷土風景」という雑誌の「第二玩具号」に掲載されている山崎荻風という人による「今戸人形」という記事の中に「現存せる窯」として8人の今戸焼窯元の名前が記されている中に「橋本柳太郎  一、黒物」とあります。

「橋本龍太郎」「橋本柳太郎」は同一人物なのではないか?そうであれば画像の灰皿も黒物のひとつであり、「太平」とも重なり合うのではないかと思うのですが推測の域を出ません。

今戸神社の狛犬の台座には「橋本姓」の名前が複数あり、この「橋本龍太郎」という人は橋本姓のどの人の流れにあった人なのだろうと気になっています。


秋の蚊遣り

2011-10-13 03:52:45 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010296秋だというのに何で今更蚊遣り?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、この時期案外と蚊がたくましいというか元気なのです。

仕事場で型抜き作業を繰り返していますが、窓を開け放っていると次から次と蚊が飛んできます。

夏場の蚊も嫌ですが、秋の蚊は脚や針も黒々していて直線的に襲ってくるようで、またしつこい。

そんな訳で、部屋の中に蚊取り線香を同時にふた巻焚いているので、中にいる自分の体もいつの間にか燻されて、燻製のようになってしまいます。

画像の豚の蚊遣りは今戸焼ではなくて、隅田川を挟んで川向うの「百花園焼」のものです。梅花型の枠の中に百花園の文字の陶印があります。萩の花の下絵付けの上に透明釉がかかっています。時代はわかりませんが、そんなに古いものではないのかもしれません。しかし百花園でもこのような実用的なものが焼かれていたというのは意外です。都鳥ばかりではないんですね。百花園焼は墨田川焼のひとつだと言えると思いますが、隅田川の東岸には三浦乾也や鳥居京山もいたし、本所に中之郷瓦町というところがあったりと、窯業が盛んだったようです。今戸焼の名工と言われた戸沢弁司も寺島にいたようです。隅田川西岸に今戸があり、それより川上の橋場には井上良斎の隅田焼、聖天様の下の聖天瓦町という地名もあったようですし、川を挟んで両側に焼きものが点在していたようです。

画像の豚の蚊遣りで不思議に思うのは鼻孔がヘラ押しで付けられているんです。徳利の口に当たる部分が鼻だと思うのですが、これを作った人は口だと思ったのでしょう。つまりひょっとこの口をした豚さん。面白いと思います。隅田川を挟んだ両岸の焼き物いろいろ。陶工の行き来もあったことでしょうし、今戸焼の親戚みたいなものではないでしょうか?

今戸焼の蚊遣りの豚(白井半七 作)の画像はこちらにあります。→


今戸焼(46)サザエさんの型抜き遊び

2011-03-25 02:33:19 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010012 つい数年前?までは、葛飾東四つ木の橋本さんの窯がまだあり、焙烙などと一緒にこうした型抜き遊びの型も製造されていました。

いつぞや葛飾区郷土と天文の博物館で、葛飾区内の今戸焼をテーマにした特別展が開催され、来館者に「焙烙の使い方」についてのクイズがあって、正解者に型抜き遊びの型を景品にしていて当たった憶えがあります。

大小さまざまな型があって、当時の人気キャラクターのものが作られていたようで、現在は同館に所蔵されていると聞きます。

このサザエさんもまた、橋本さん製かどうかはわかりませんが東京近辺で作られ、売られたものでしょうか。型に金粉、銀粉などを振るか、筆で色粉を滑らしておいて、粘土を押し当て、抜いて遊びます。年代的に私もリアルタイムで遊んだ記憶はあるのですが、型や粉をどこで買っていたかが、いまいち鮮明には思い出せません。記憶が交錯しているのです。

近所の駄菓子屋のお婆さんのところだったか、、それとも公園にやってくるおじさんだったか、、。昔、公園には紙芝居屋のおじさんが来ていました。紙芝居の前後にミルク煎餅2枚を梅ジャムやオレンジジャム(いかにも体に悪そうな毒々しい色と酸っぱい甘さ)を塗って竹串を挟み、色とりどりのコーンで耳や鼻をくっつけてうさぎさんの形に作ってくれたりしていたような、、。

手間のかかる細工のものは当然高かった。又、缶づめのみかんに水あめを着せてヘラにつけて売っていました。

紙芝居屋のおじさんとは別に、型抜き屋さんのおじさんが来ることもありました。ただ、ひと口に型抜き屋さんと言っても、画像のような今戸焼の型抜きとは別のもうひとつの型抜き遊びというものがありました。うどん粉か何かを練って延ばしたようなぺっちゃんこの生地片にミシン目のような切り込みが入っていて描かれている顔だの動物だのキャラクターの形をいかにきれいにバリを除いて抜き出せるか、、という遊びで出来上がりを採点してもらい、よい点数なら景品が貰える。しかし、これがなかなかそううまくいかない。 生地が結構固いのです。もしかするとうどん粉を練って伸ばしたのではなくて、別の素材だったのかもしれません。それがまさか今戸焼だったとは思えませんが、、。

話が脱線してしまいましたが、画像の今戸焼の型抜き遊びも確かに経験しているのですが、それが駄菓子屋だったか、公園だったかがはっきりしません。ただ交錯している記憶の中で、こうした型を見ると、梅ジャムやオレンジジャムのあの味と香りを思い出してしまいます。

最近食べる機会が全くといってありませんが、妙なもので、全然関係のないにおいが、昔の記憶へ誘うということがあります。梅ジャムの香りへと誘うもの、、それは私にとっては水虫薬のにおいでした。


今戸焼(45)「都鳥型の香合」(白井幸太郎 作)

2011-03-05 15:55:45 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010006 嘗ては今戸には今戸焼の元締め的な存在であった白井家は戦前まで3軒あったといいます。

本家の白井善次郎家(東京大空襲により戦後、葛飾区宝町へ移住。)と善次郎家から7代前に分家したという白井半七家(関東大震災により小林一三ら関西の茶人に招かれ兵庫県へ移住。)そして、江戸後期(弘化4年頃?)に善次郎家から分家し、現在も今戸で操業されている白井孝一家です。

これまで「今戸焼」のカテゴリーでは上記の善次郎家と半七家で作られた製品をいくつかとりあげてきましたが、今回はじめて現在の今戸の白井さんのご先祖様の製品をとりあげることができて嬉しいです。

できれば今戸に複数の窯元があった時代に作られたものを知りたいと思っていますが、現在白井さん作られている製品には「今戸焼」という陶印が押されて作られていますが不自然だと思います。昔(少なくても戦前以前の)今戸焼の製品に「今戸焼」という陶印で売られていたという例を見たことがないので、できれば「今戸焼」という陶印が使われる以前の自然体の時代の白井さんの製品を知りたいと思っていたからです。(「今戸焼」という刻印が新京極とかで修学旅行土産に売られているチープな「本物 西陣織」とか「手作り 西陣織」とかいうラベルの感覚に近いような気がしてもったいないと思います。)

 善次郎家の製品にも半七家の製品にも「今戸焼」という陶印が押されたものを見たことがなく、半七家が「壽ミ田川 半七」(七代目まで)という陶印を使っていたくらいしか知りません。「善次郎家」では「善入」という陶印です。

現在の今戸の白井さんが昭和40年頃使っていたらしい「今戸 白孝」という陶印の押された器物はどこかで観たことがあります。「今戸焼」という陶印が使われる以前のものでしょう「今戸の白井孝一家」という意味ですっきりとしています。しかし案外と「今戸焼」という以前の陶印のついた器物にお目にかかることがありませんでした。

画像の香合の底には陶印があり「白幸」(白井幸太郎)の作であるか、あるいは屋号としての「白井幸太郎」窯であることがわかります。

「民芸手帳 昭和51年9月号」に露木昶という方が書かれた「今戸人形」という記事があります。当時は白井孝一さん(明治43年生まれ)がご当主だった時代で、私がママチャリではじめて今戸を訪れた時期に近いようです。記事の中で「孝一さんは、有名な白井家の別れで、4代目。初代清次郎(ママ)、2代幸太郎(安政5年生まれ)、3代鉄太郎の続きである。」と書かれています。

ついでに明治12年(1879)12月印行「東京名工鑑」(東京府勧業課 発行)をひもといてみると初代・白井清二郎(ママ)について記されています。

「今戸焼工 浅草区今戸町三番地 白井清二郎 五十五歳   

所長  茶器  

製造種類  茶器 火入 手焙 涼炉 火鉢 

助工人員  長男壱人

博覧会出品  内国博覧会へ 火入 村雲焼 五個  尿器 アサガヲ 蝋色 二個 ヲ出品  シテ花紋牌ヲ受タリ

開業及沿革  父善次郎二就テ学ヒ廿三歳ノ時當所ニ於テ開業セリ當時専ラ茶器ヲ製造シ通四丁目堀津長右衛門へ販売セシカ維新頃ヨリ該器不流行ニ属シ前二掲クル品種ノ製造ヲ創メタリ然レトモ猶時トシテ同家ノ嘱託ヲ受ケ茶器ヲ製スル□アリ従前ニ比スレハ現時ノ工事凡五割ヲ増加セリ 」

とあり、初代・清ニ郎は文政7年頃の生れで長男壱人とあるのが、2代幸太郎ということなのだと思います。清ニ郎さんも幸太郎さんもいつまで製作をされていたのかはわかりません。

今戸焼白井家3軒の関係を文献などから要約してみると

白井善次郎家(本家)→→→→→→→→→→→→→→→→戦災により葛飾区宝町へ転出。

 

  ?白井半七家(分家)→→→→→→→大震災により7代目のとき関西へ移住。9代目まで

    白井清二郎家(弘化年間、本家より分家)→2代目幸太郎→4代目孝一さん(現・今戸)

ということになるかと思います。今戸神社にある狛犬の台座の銘文には白井善次郎と白井半七の名前が刻まれていますが、清次郎家の名前がないのが、当時まだ分家独立していなかった時期だったからでしょうか。

画像の都鳥の香合はかなり大ぶりな造りで手取りもずっしりとしています。(香合としては大きすぎ)大ざっぱな造形ですね。

今戸の白井さんへは久しく出かけていませんが、最近は2匹くっついている「シャム双生児風招き猫」で有名になっているようですね。これは人形とか郷土玩具の愛好家の人々で言われていることなのですが、白井さんの人形の型も配色も面描きも昔(江戸明治)の今戸焼のものとは随分違う。(昔の今戸の人形には異なる作者たちの中にもきまり事があり、それが今戸人形の特徴になっていた。)この辺りが謎でもあるのですが、白井孝一さんの昔の聞き書きというものが、台東区立下町風俗資料館発行のものに記録されているのですが、孝一さんは昔も人形を作っていた、と語っておられますが、戦前の今戸の窯元を調べた記録が残っている中に、人形の作者としては記録されていないのです。今戸焼の人形の作者として戦前に名前が記録されているのは、尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)と鈴木たつ、加野とくの3人だけで、白井さんの家は「薬風炉」と記録されている。つまり、この画像のように釉薬をかけた焼き物類が白井家の本来の伝統的な製造品であったわけですね。郷土玩具を収集されていた古い方に昔お話を聞いたことがあるのですが、戦後になって最後の生粋の今戸焼の人形師であった尾張屋・金澤春吉翁も既にお亡くなりになり、もう今戸焼の土人形はなくなってしまった、となると愛好家に人達は残念でたまらない。

そこで、戦時中防空壕にしまっておいた春吉翁のお人形は湿気で色がとれてしまったものがあったので、それを白井さんに提供して、そこから型を抜いて、人形作りを薦めた。それが白井さんの人形作りのはじまりで、現在に至っているわけです。人形に関しては尾張屋さんからの直接の子弟関係がないので、白井さんの人形の色や特徴は当てずっぽう的で昔のとは違うわけです。

あと不思議に思っているのですが、白井さんの招き猫の火入れやおかめの火入れの型ですが、江戸明治のものとも、尾張屋さんが作っていたものとも違います。尾張屋さんの火入れの型は江戸明治の伝世品や遺跡からの出土品と比較しても同じ造形なのですが、白井さんの型と同じ出土品が発見されたという話を聞いたことがない。比較して同じ造形のものが出土品や江戸明治の伝世品にあれば納得なのですが、、、。やはり戦後に新しく造形された型なのかなあ?と思っています。

追記:白井さんの火入れや河童については、昭和40年頃から作られはじめたもので、原型は下谷の小野照崎神社のそばにいらした飾職の上野さんという人が作ったということです。招き猫の火入れの原型は上野さんではなく先々代の白井孝一さんがご自分で原型を起こされたように聞いています。小さな白い正面向きの鈴とリリアンをつけたタイプは戦後、豪徳寺から出された招き猫とよく似ているので(画像を乗せた戦後の本がある。)その関係を知りたいと思っています。歴代の今戸焼の土人形の招き猫の中で、鈴とリリアンをつけたものはおそらく京都のおみやげ招き猫からの模倣による戦後の白井さんのオリジナルであり、「戦後ニューウエーブ今戸焼」のパイオニアと言えるのではないでしょうか。

古い家柄の人が今戸で土人形を作って売っているので「創業500年 今戸焼」という大看板生業されていることに何とも言えませんが、せめて江戸明治の今戸人形とはまったく違う出来上がりのものであるので、「伝統を守っている」という表現とは遠いような気がします。むしろ「ニューウエーブ今戸焼」とでも呼んで区別すべきだと思います。ショッキングピンクに塗られた「口入狐」とかオレンジ色の「子守狐」なんてのもありました。 世間の人々もその点何も知らずに「これが江戸から受け継がれているものだ」と感心している向きの方も少なくないでしょうが、何とかして昔の今戸人形を皆さんにもっと知ってもらいたいですね。このあたり郷土玩具の愛好家の先輩の皆さんがよき時代の今戸人形というものを早くから啓蒙的に活動すべきだったのではないかと思います。未来には百科事典で「今戸焼」を調べたら、当然のように白井さんの「ニューウエーブ今戸人形」が図版に出ているなんてことになるのが心配です。事典にはやはり江戸以来の正しい伝統を引く「尾張屋春吉翁(明治元年~昭和19年)作の人形か、「白井善次郎家」か「白井半七家」の作品を具体例として示すべきではないでしょうか。


今戸焼?(44)「施釉の鳩笛」

2011-02-17 17:03:21 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010053 今戸焼では素焼きの木地に泥絵具で彩色した鳩笛(従来の土人形と同じ彩色方法)の他に鉛の透明釉を施した鳩笛(箱庭細工やなめ人形と呼ばれるものに共通するし仕上げ)もかなりの量で作られていたようです。

都内の近世遺跡からかなりの量が出土しています。施釉のものだけでもさまざまな大きさ、プロポーションのものがみられます。

画像の鳩笛もまた、今戸焼のものだと考えています。但し、かねがね不思議に思うことがあるので記してみたいと思います。

画像のものと同様な造りの鳩笛について「仙台産」のものだと書かれた記述を目にしたことがあります。例えば昭和40~50年代でしょうか?東京の郷土玩具関係の会で発行された全国の鳩笛について特集された冊子に「仙台産であることがわかった、、、。」という記述があること。何だったか忘れてしまいましたが、近年関西の郷土玩具の研究家の方が「仙台の鳩笛」としていたこと(おそらくネットオークションの販売での表記)などです。

気になっていたので、これまで仙台在住の歴史や人形関係にお詳しい複数の方々にお訊ねしたところ、「このようなものが仙台で作られていたということを聞いたことがない。」というお答えでした。また、仙台市博物館の学芸の方、仙台市歴史民俗博物館の学芸の方に問い合わせてみても「そういう話や実物は記録されたり資料として収蔵されていない。」というお答え。また、念のため、仙台市近辺の近世遺跡からの出土例がないか仙台市役所の埋蔵文化財の係の方に問い合わせたところ「そういうものは確認されていない。」というお答えでした。

地元で作られていたとすれば何かしらの手がかりがありそうなものですが、肯定的な手がかりが全くないのが不思議です。反対に、私自身が観たことがある都内の近世遺跡からの出土品にほぼ同じものがあったり、関東近県から出てきた伝世品もあるので、今戸焼なのではという思いがより深まっています。

では、なぜ「仙台産」と考えられたのか?古い人形についてお詳しい方にもご意見をいただいたところ、昭和の戦前の頃までの収集家の記録にそのような記述があり、それが根拠となっていることも考えられるのでは、、?というお答えでした。昔のそうした記録は今から見るとアバウトな内容もままあって、例えば今戸の「招き猫のぴいぴい」が「宇都宮産」とされているのを目にしていますし、東北のこけしの産地なども入手地と混同されているケースも見受けられます。「仙台産の鳩笛」として紹介されている文献そのものについてはまだ目にしたことがないのであったら見てみたいと思っています。

昭和10年代、「鯛車」という郷土玩具の雑誌に最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)が座談会でお話になられたことが記録されています。その中で人形、玩具の彩色について

「、、、楽焼きの絵の具は鉛が入るので毒だと言はれて居ます、それについて斯う云ふ話があります、浅草仲町の大野と云ふ小児科醫が楽焼の鳩笛を毎日一つ宛子供に呉れて居た、其数は五百個だと云ふから一個二厘か二厘五毛程の安価な時代でも大した仕入れ値段です、それが絵の具が毒だとあって問題になり遂に禁止されました。」

浅草仲町というのは、現在の浅草1丁目の仲見世通りと寿司屋横丁に挟まれた辺りの地域のことです。話に出ている鳩笛が画像のようなものだったのではないかと考えています。

顔料による彩色の鳩笛についてはこちら(尾張屋春吉翁作)→


今戸焼(43)「箱庭細工の狐」

2011-02-10 01:16:00 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010097 このブログでは「今戸人形」のカテゴリーと「今戸焼」のカテゴリーを分けていますが、どちらに入れたらよいかちょっと迷っています。箱庭細工は今戸焼で盛んに作られていたもなのでとりあえず「今戸焼」としてご紹介します。

何れも手びねりによる成形で、白いほうは木地に白化粧土を施してから下絵具で絵付けし、透明釉をかけたもの。ベージュ色に見えるほうは尻尾の先以外は化粧をせずに下絵具で目を入れ、透明釉をかけて焼いたものと思われます。

いずれも土の色は赤い東京の土ではなく、取り寄せた関西か多治見の白土のようです。箱庭細工に使う土の色は赤、白両方みられます。箱庭細工の中には猟人の姿のものもありますが、ここでは狐のみ紹介させていただきます。


今戸焼(42) 梅鉢模様の小皿

2011-01-25 11:23:07 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010051 暦では1月25日が初天神となっています。

菅原道真公をお祀りされている各地の天神社は合格や就職などを祈願する人々で賑わっていることでしょう。東京では湯島天神や亀戸天神が特に有名で、参詣される人も多いことでしょう。

私は高校受験の折には亀戸天神にお参りしました。亀戸は木彫りの鷽守りで有名ですね。その当時、お参りしてから中学校に登校したので担任の先生から怒られた憶えがあります。

さて、画像の小皿は東京の近世遺跡からも同様のものが出土しています。子供のままごと用のミニチュア玩具とも考えられるのですが、白化粧土とタンパン(炭酸銅)で梅鉢が描かれているので天神様への信仰とも結びついているのではないかと思うのですがどうでしょうか。

昔は寺子屋というものが町々にあって、子供が手習などを学んでいたそうですし、天神様への信仰というものは、寺子屋単位で一種の講のような形で営まれていたのかどうか、、天神様の石塔など寺子屋で奉納されているものが見られます。

あくまで空想なのですが、寺子たちで天神祭などを執り行うような時にこの小皿を使ったものではないか?と思ったりするのですが実際どうだったのでしょう。

こうしたミニチュアサイズの小皿は型による成形のものも見られますが、この皿の底には糸切りの痕が見られるので、一枚ずつロクロで挽いて、あとからヘラなどで押して縁を波型にしているようです。


今戸焼(41) 土器(かはらけ) (白井半七 作)

2011-01-02 03:45:42 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011240 底に「今戸焼(39)」の吊香炉や「今戸焼(40)」の香合と同じ陶印がみられるので、これも明治の名工といわれた「6世・白井半七」(蘆斎)による作ではないかと思っているのですがどうでしょうか。

今戸焼の土器(かはらけ)というと、神様仏様にお供えしたり家の外に盛り塩したりする安価な素焼きのものが一般的なような気がしますが、このように「みがき」の施された高級なものもあったのですね。

素焼きの木地を灯明油で那智石や鴨川石で磨いて、表面をなめらかにし、上から黒鉛を部分的に塗って再度焼いたものだと思います。黒い斑は一般的に「雲華」(うんげ)といわれるものと同じではないでしょうか?今戸の橋本三治郎による「村雲焼」といわれるものと共通する点と異なる点とあるような気がしますがどうでしょうか?

こうした陶印のついた高級品?の土器は、お正月のお屠蘇やお祝いごとに使われたものではないかと思うのですがどうでしょう?


今戸焼(40) 「とんだり」型の香合 (白井半七 作)

2011-01-02 03:28:59 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011238 底に「半七」の陶印があり、「今戸焼(39)」の吊香炉と同じ印なので、明治の名工といわれた6世・白井半七(蘆斎)の作なのではないかと思っています。しかし蓋部分の兎の表情が現代的な感じにも見えるのでどうでしょうか?

「とんだり」は浅草名物の伝統的な玩具「とんだりはねたり」(「亀山のちょんべ」とも)のことで余りにも有名なものなので、今更ご説明までもないかと思いますが、土台の割り竹に反りをつけた竹串を固定してあり、松ヤニの粘力で反りを逆に固定し、置いておくと竹串の反発で時間を置いて跳ねる。土台の上には張り子(練り物によるものもある。)の人形が固定され更に張り子製の被りものをしていて、跳ねたときに被り物がはずれて、中身の人形に変わるというものです。

中身の人形と被り物の顔とのキャラクターのつながりに趣向の面白さがあります。例えば、「揚巻」が「助六」になる、「虎」が「和藤内」に変わるという類のものです。他にもいろいろな趣向のものがあるかと思います。

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参考までに香合のモチーフとなった浅草名物の玩具「とんだりはねたり」の画像もご紹介したいと思います。(兎ではありませんが、、。)向かって左は「虎」→「和藤内」(浄瑠璃「国姓爺合戦」の登場人物の関係)、左は「暫」→「團十郎」または「海老蔵」(歌舞伎のお家芸の関係)です。戦前のものではないかと思います。「国姓爺」の土台の竹串はなくなってしまっています。

こうした地元浅草の庶民の玩具を香合の形にしたところに楽しさがあると思います。新年の干支に因んで紹介させてもらいました。


今戸焼(39) 吊香炉 (白井半七 作)

2011-01-02 03:04:38 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011235 明治の名工といわれた6世・白井半七(蘆斎)の作ではないかと思っています。

共箱で残っており、箱には「白井蘆斎」という印が押されています。「蘆斎」という号は4世・5世・6世の半七が名乗ったものだと読みかじっています。

宝船を形どってあり、本体の船に対して2種類の蓋が付属しています。本体には「壽ミ多川 半七」の陶印が、蓋裏には「半七」の陶印がみられます。

「壽ミ多川 半七」と名乗ったのは7世の半七(今戸で製作した最後の半七)までだと文献等には記されていますが、「蘆斎」は6世までとのことなので、6世の作なのかと思っているわけです。2007_0101_000000p1011236_3

昔の今戸焼の製品はろくろ挽きによるものの他に、こうした割型、抜き型による成形によるものもあったわけですね。土人形など当然割型による成形ではあるのですが、、、。

今戸神社(旧・今戸八幡)に残る狛犬の台座には「火鉢屋」「焙烙屋」という職種が表記してありますが、基本的には今戸焼の職人さんたちはろくろ挽きを基本として成形していたのでしょう。

このように型を使った成形で思い起されるのは「工芸志科」などの文献に「3世・半七」が土人形を作り始めたという記述があることです。しかし「半七家」といえば、白井家本家の「善次郎家」と並んで今戸焼の元締めでもあり、ネームバリューのあるアートィストというイメージを私は持っているので土人形のような当時として安価な製品を作ったのかどうか疑問に感じているのです。

都内の近世遺跡から出土している土人形の中に「半七」の陶印のあるものがみつかったという話はまだ聞いたことがありません。(私が知らないだけ?)

画像の香炉について話を戻します。型抜きによる成形ですが、非常に手が混んでいて、蓋部分の本体の上にひとつひとつ抜き出しためでた尽くしの細かいものが貼りつけてあります。一枚目の画像の蓋には鯛、巻物、珊瑚などが、2枚目の画像の蓋には金色の福俵のような細かいパーツが山積みされています。木地の上から彩色されていますが、膠溶きの泥絵具ではなく、楽焼用の下絵具を施してから透明な釉薬をかけてあります。

宝船というと、よい初夢をみるために、昔は宝船を描いた擦り物(絵草紙屋さんや物売りが売っていたとか、、)を求めて、枕の下に敷いたという話を聞きますし、現在でも東京の手摺り千代紙屋さんや縁起物屋さんで販売されていますね。絵には「なかきよのとをのねぶりのみなめざめなみのりぶねのをとのよきかな」(長き世の遠の眠りのみな目覚め波乗り舟の音の良きかな)という上から読んでも下から読んでも同じ言葉が添えてあります。これは香炉とは関係のない余談です。


今戸焼(38) 村雲焼?の手あぶり (橋本三治郎 作)

2010-12-25 01:57:19 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011152 朝夕すっかりと冷え込むようになりました。

この時期こそ昔は手あぶり火鉢の重宝する季節だったことでしょう。

画像の手あぶりの底には「對鷗斎」「橋本三治郎」の陶印がみられ、今戸神社(旧・今戸八幡)の狛犬の基壇や明治時代の記録に残る名工・橋本三治郎の作であることがわかります。(狛犬基壇には橋本三次郎とある。)

この人は、白井善次郎や白井半七とならぶ今戸焼の旧家で、また明治の上野の勧業博覧会に製品を出品して牌を受けています。

「東京名工鑑」という文献には、その製品の特徴として「村雲焼」という名前が挙げられています。それがどんなものであるかは記述されていませんが、この画像に見られるような雲海にも山並みにも、また波のようにも見える模様のことではないかと思うのですがどうでしょうか?

その製造方法については、素人の私にはよくわからないのですが、木地を素焼きしてから灯明油と那智石(または鴨川石)で表面を磨き木地の表面を滑らかにし、黒鉛を塗って再度焼きあげる。そして漆を施すということなのかどうか、、。しかし、この雲海にも見える模様はどのように出すのか、、???黒鉛の塗り方によるものか、あるいは漆の塗り方によるものか不思議です。

話が脱線しますが、大学時代にエッチングやリトグラフの実習をしましたが、先輩でリトグラフで版面にインクを濃淡滲ませて置いていき、その重なりによって不思議な濃淡を作りだす人がいました。

画像の手あぶり火鉢の雲海風の模様が何となくその効果に似ている感じがするのですが、膠か何かのメディウムで溶いた黒鉛の濃淡によって出せるものなのかあれこれ空想するばかりです。


今戸焼(37)恵比寿大黒の貯金玉

2010-11-23 22:32:27 | 今戸焼(浅草 隅田川)

 

2007_0101_000000p1011035_2 今戸焼の恵比寿大黒の多くは画像のように真っ黒な状態で残っていることが多いです。長年神棚にお祀りされていて煤けてしまうのだと思います。

もうひとつの理由として、まがいの金泥(真鍮粉)一色に塗られたものが、 酸化するなどして黒くなってしまうということも考えられると思います。

画像のものは貯金玉(貯金箱)仕様に作られており、背面に孔があります。貯金玉の我が国での最古の形は宝珠の形のろくろ挽きによるもので、次いで割型による蔵の形、そして招き猫形が今戸で作られたのがはじめだということが有坂与太郎の著作に記されています。この恵比寿大黒もまた蔵や招き猫と同じ明治頃のものでしょうか?

はじめこの貯金玉もまた真鍮粉の変色で真っ黒なのかと思っていたのですが、恵比寿さまの背面の一部擦れたところにうっすらと群青色が覗いて見えるので、一般の土人形同様、顔料による塗り分けがされていたのかもしれません。

彫りがしっかりとしており、原型からの抜き型としては若いものなのかもしれません。恵比寿さま前方の銭箱?の木目やその上に開かれた大福帳?、そして算盤など克明な彫りが見られます。

比較的大きなものですが、手どりは案外と軽く、肉薄な作りです。

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今戸焼?(36) 風口(ふうこう)

2010-11-15 13:34:21 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010892_2 おかしな話ですが、以前これを入手した時には、漠然と代用品の携帯コンロか火起しだろうと思っていました。たたら作りで成形された台形の方形。上面の丸い孔のまわりに噴きこぼしのような痕があります。案外この形の道具には何度か巡り会っていたように思います。

今回記事にしようと思い立ったところで、道具の名前は何というのだろうと思って身近な本をめくってみてもみつからない。道具のイラストや写真から検索できるものはないだろうかと近くの図書館や博物館の閲覧室まで足をのばして探したけれどらしきものはない。戦前の東京を経験している母に見せても、見たことがないという答え。

困った、、と思っていた矢先 に文京区ふるさと歴史館の「発掘された武家屋敷」という図録を眺めていたら、偶然出土品の写真の中に同じ形のものが載っていて「風口」という名称であることがわかりました。

今度は「風口」の具体的な使い方を確かめたいので、名前で探してみたところでこの形の道具にぶつからない。「風口」で出てくるのは、コンロや七輪の送風口の意味ということでした。

考古関係の専門家の方にお聞きすれば何か手掛かりが、、?と思い、都埋蔵文化財のOさんや人形玩具学会のAさんに何か具体的な使い方を示した資料がないかお訊ねしたところ、Oさんからいろいろな資料のコピーをいただきました。ミーハーレベルのことしかわからない私には猫に小判のようで申し訳なく思っています。

この道具の使い道についてはコンロとセットで使うのと、単独で使うのと両方の可能性が考えられるようです。

古い様式のコンロには私たちの見慣れた七輪のように側面の扉の開閉によって火力を調節する仕組みはまだなくて、この道具で火を起して、そのまますっぽりと挿しこむ孔が空いているものがあったようです。挿しこんだ真上にサナがあり、その上にタドンのような燃料が敷いてあり、下から点火する仕組みだとか、、。もちろん風を送り込むことで火力の調節もできます。東京だと単独で火力調節できるコンロが登場したのは明治の中ごろだったので、こうした「風口」はその頃から使われなくなったのではないか?という話です。うちの母が知らないというのも当然な話です。

しかし、東京でも多摩地域では養蚕などの生業道具として昭和戦前頃まで、これ単独で使われていたようだ、という話もあるようです。

単に代用火起しや携帯コンロくらいにしか思っていなかったので、話を知って案外と古い時代の生活道具だと知ってびっくりしました。

2007_0101_000000p1010958 先日、今戸焼の福助つながりの記事でとりあげた幕末?の古写真の画像を見ていただきたいのですが、授乳しているお母さんの脇にあるコンロの側面の孔の口が妙に出っ張って見えるのです。もしかするとこれが「風口」をコンロ本体に挿入した状態なのか?と勝手に想像しているのですがどうでしょうか?

この記事の内容については、先に記したとおりOさんやAさんに資料のご提供をいただき、この上なく感謝しております。いただいた資料を読んで解釈をしているのは私なので、もしおかしなことがあれば、私の理解に誤りがあるのかもしれません。