東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

YouTube 東京生活99 丸〆猫を探して

2010-08-28 15:59:45 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010006現在のところ、招き猫の最古の姿だとか招き猫の起源や元祖だとか言われている丸〆猫についてこれまで記事に採り上げてきましたが、今から11年前に放映された番組がありますので、動画のほうが簡単に概要を知っていただけると思います。

ただ、自分の姿が映っておりまして、自分で言うのも何ですが、かなり不気味です。人から「妖怪人間ベム・ベロ」とか「ロッキーホラーショウ」とか言われたことがありますが、納得というか、、、。

11年前のことなので、時間の推移のなかで色々と身辺の変化があります。

番組中に出ていらっしゃるHさんは今戸人形の古い愛好家で色々お世話になりましたが、お亡くなりになられました。さびしい限りです。戦時中、蒐集された尾張屋さんの今戸の土人形を湯島の天神下の防空壕に保管されていたのが、湿気で色が飛んでしまい、戦後今戸の白井さんにそれを預けて、土人形作りを促された方です。

私の仕事場はこの間引っ越しましたし、今ではマイ焼成窯が自宅にあるなど、状況も変わりました。

一本の番組ですが、①と②に分けてあります。全編で24分くらいです。

お時間ありましたらご覧ください。

YouTube 東京生活99 丸〆猫を探して①

クリックすると再生ページへ。続き(丸〆猫を探して②)は同じページの関連動画リストにあります。


今戸焼(27)  寺島の招き猫型の貯金玉(高野安次郎 作)

2010-06-15 23:43:06 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010494 有坂与太郎著作「郷土玩具大成・東京篇」の貯金玉の項で紹介されているもの。作者は寺島町(現・墨田区)の高野安次郎という人とされています。貯金玉(貯金箱)を招き猫型にした起源とか最も古い、一番古い、最古の例がこの人の作だと書かれていますがどうなのでしょうか?

解説の中で、この人は橋場にいた隅田川焼の2代目・井上良斎の門下で、大正10年頃、寺島に移って製作していた由。昭和3年発行の「東京今戸焼同業組合」による「仲買渡シ相場表」という印刷物があり、その中に当時の製品の種類と価格、組合員34名の名前のなかにこの人も含まれているので、寺島で操業していても今戸焼と考えてもよいかと思っています。

今戸焼の貯金玉についてはこれまでの記事で「宝珠型の貯金玉」とそれに次ぐ「蔵の形の貯金玉」について書きましたが、この招き猫の貯金玉は蔵の形の次いで出てきたもののようです。

今戸焼やその系統の陶工によって作られた招き猫の貯金玉は上記「郷土玩具大成」の図版の中でいくつか紹介されていますが、未だわからないのは、今戸の長昌寺前で、芋屋渡世の傍ら紅丑や口入れ狐などの今戸焼の土人形を作っていたという鈴木たつも猫の貯金玉を作っていたと記述があるのですが、それがどんなものだったのか?最後の今戸焼の人形師であった尾張屋春吉翁(明治元年~昭和19年)による招き猫の貯金玉は観たことがありますし、再現を試みたこともあります。

この寺島の招き猫の貯金玉も手掛けたことがありますが、その当時手元に手本となる実物がなく、もっていらっしゃる方に見せていただいたり、写真に撮らせてもらって型を起こしたのですが、何という運命の巡りあわせか、それなりに苦労して作ったあと、偶然にも画像の実物が手元に転がり込んできたのです。 もっと早かったならばもっとしっかりできたのに、、、。

しかし、作る手本として見せていただいた実物と、私の手元の貯金玉とでは、奥行きなど若干の違いがあるのです。おそらく、たくさん割り型を作る際に、前後が薄くなったり型くずれしていったのではないでしょうか?

いずれにしても、こうやって現物が手元に来た2007_0101_000000p1010495 のでいずれ、このお手本を元に、また手がけてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今戸焼型の招き猫③

2010-05-30 01:58:33 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010456 今戸焼の型の招き猫に加え、招き狐の土人形にもゲストとして並んでもらいました。

画面後ろ中央のは「招き猫の貯金玉」です。型は「今戸焼の招き猫①」の画像の後ろ右の「不詳の招き猫貯金玉」と同じです。①のがオリジナルの配色に近いのですが、ちょっと楽しんで色違いに塗ってみました。

左端の左招き猫は、お手本は人形玩具学会でご活躍されていらっしゃるHさんが以前くださった施釉の招き猫(なめ人形)なのですが、楽焼き風の仕上げについては、まだ実験中なので、一般的な今戸の招き猫の配色を意識していくつか塗ってみたもののひとつです。何れなめ人形として仕上げてみたいと思います。この招き猫の型は「今戸焼の招き猫①」の中にある「招き猫のぴいぴい」のもとになったものだと思います。

手前に招き狐2種。左は戦前の一時期浅草神社(三社様)の裏手にある「被官稲荷神社」で授与されていたという招き狐の土人形の写真をもとに型を起し、配色は昭和っぽく、赤を基調につけてみたものです。同時に青を基調としたものも塗ってみました。

右側の招き狐は、趣味家の間で「今戸」として伝わっている形の狐を参考にして作ったもので、王子の装束稲荷神社の「狐の行列」や「初午、二の午」で神社から授与されています。

招き猫も招き狐も、画像以外にも手がけた種類のものがあるのですが、生憎、手元にみつからないものもあり、今後また作った際にご覧いただきたいと思います。

以上、拙作の今戸焼型の招き猫アンソロジーでした。

 

 

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今戸焼型の招き猫②

2010-05-30 01:35:02 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010454 丸〆猫(まるしめのねこ)といって、記録や錦絵、遺跡からの出土品の土人形と三点揃って、現在のところ確認できる招き猫の最も古い姿だとか、最古の招き猫、招き猫の起源や元祖とか言われていますがどうなのでしょうか?

招き猫は全国のいろいろなところで作られていましたが、こうした土人形作りについて、当時として記録に残っていることのほうが稀で、江戸を消費地とした今戸焼は、その点で上記のような記録が残り、錦絵にも描かれ、そして遺跡からも出土しているという点で、幸運でした。

最古の招き猫とは言っているものの、記録に残っていないもっと古い姿の招き猫も存在したかもしれないので、招き猫の元祖とまでは言えるかどうか、、。

後ろ左側の丸〆猫は私として最初に手がけた丸〆猫で、昭和戦前の頃の作と思われるものを手本としました。作者はわかりませんが、最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)の可能性もあるように思われます。この型には、配色の違うものが幾通りかあって、それらもやってみたことがあります。明治の「うなゐの友」に描かれた丸〆猫と配色は若干違いますが、形はよく似ています。

その次に手がけたのが手前左側の小さな2体。尾張屋春吉翁作の丸〆猫(座姿と臥姿)です。春吉翁も、同じ型の人形へ幾通りか異なる配色をしています。そして次が「丸〆小判猫」。これも尾張屋春吉翁の作の再現を試みたものです。

そして、後ろ右側のが、最近手がけた、新宿区内の「水野原遺跡」から出土した丸〆猫を再現したもの。広重画の「浄るり町繁華の図」に描かれた「丸〆猫屋」に並んでいる猫の配色を参考にして塗ったものですが、よだれかけの縁の部分だけは、伝世の座り猫によくあるように「キハダ」を煮だした汁を塗り重ねて上から真鍮粉を蒔きました。

その後もうひとつ、文京区内の遺跡から出土した「本丸〆」の印のある猫も再現しました。一緒に写真に撮りたかったのですが、整理が悪くてどこへいってしまったのやら、、。画像は当ブログの「今戸人形」カテゴリーの中の丸〆猫⑬の記事か、HPの飾り棚のページにありますので、よかったらご覧ください。

 

 

 

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今戸焼型の招き猫①

2010-05-30 00:59:01 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010453 はじめて今戸焼の土人形の再現を試みたのは三十路にかかった時でしたので、もう17年前になります。その割には、効率もよくなくて、時間の割には種類をこなしていません。その中で猫物が一番数が多いです。特に招き猫好きというわけでもないのに現時点では種類が一番多いというのはなぜか、、、?やっぱり潜在的に猫が好きなのかなあ、と思ったりします。

一番最初に手がけたのは奥中央の「招き猫の火入れ」です。今戸焼の土人形の最後の作者といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)の作を再現しました。その次に作ったのが、手前右側の「招き猫の貯金玉」。これも尾張屋春吉翁の作の再現です。そのあと、昭和型の「丸〆猫」や尾張屋春吉翁作の「丸〆猫」座り型と臥姿型、次いで「丸〆小判猫」だったと思います。

そして画像手前左側の「招き猫のぴいぴい」。これは、明治時代のものを再現したもので、下の鞴で風を送り込んで鳴らす人形笛です。

その後いろんなお手本をもとに作ったのですが、この画像でいうと奥左の「寺島(向島)の招き猫の貯金玉」と奥右の「不詳の招き猫貯金玉」が最近作った招き猫です。「寺島の貯金玉」は橋場の2代目井上良斎の弟子の高野安次郎という人が寺島に移ってから作っていたといわれるものです。この人は「今戸焼協同組合」の中の一人であったようで、主に、植木鉢や焙烙などを作る傍ら、貯金玉を作っていたようです。貯金玉(貯金箱)を招き猫の形にした最初の例である、最古の招き猫貯金玉、招き猫の貯金玉の元祖であると記述されているのですがどうなのでしょうか?

「不詳の招き猫貯金玉」については、よくわからないので不詳なのですが、無愛想な表情が面白いと思って手がけたものです。

 

 

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丸〆猫(まるしめのねこ)⑭

2010-03-31 20:09:08 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

054 丸〆猫についていろいろと記してきたのですが、丸〆は猫だけではないんですね。画像は一見何の変哲もない今戸焼の裃狐の土人形なのですが、(しかし、狐にしては口先が尖っていないので猫?)振袖に描かれた紋をご覧ください。丸〆と描かれています。顔料などから明治の出来だと思います。また型全体のフォルムから、今戸人形の福助の型を修正して狐(やっぱり猫?)にしたものではないかと思います。

この人形には丸〆の刻印はありませんが、印だけ描かれています。また明治の出来ですから、これより古い丸〆猫はあったわけです。しかし考えてしまうのは、、。

①丸〆猫が丸〆印の発祥なのか?「丸〆」という言葉が先に流行っていて、印のデザインとなり、遂に招き猫に合体したのか?

②だとすれば招き猫に限らず、「丸〆」の印はいろいろなものに使われていたのか?

「占子のうさぎ」という言葉があります。歌舞伎の滑稽な演目のひとつに「法界坊」というのがあって、劇中に「しめこのうさうさ」「しめこのうさぎ」というおふざけがあります。占子は〆子であってもよいわけですね。ラッキーな時「〆た」とか「しめしめ」と言いますね。 古いものではないと思いますが、端歌の「木遣りくずし」の歌詞に「君は小鼓調べの糸よ しめろ しめつ緩めつ おや音をいだす」という件があって「締める」ですけど「〆る」とも書くことができます。「〆太鼓」というのもあります。清元の舞踊に「神田祭」という演目があります。(初演天保10年)外題「〆能色相図(しめろやれいろのかけごえ)」、、、これらは単に言葉としての「〆」なんですけど、、。

旧家や老舗、商標、屋号で丸〆というのもありますね。呉服屋、日本料理屋、米屋などなど。これらのデザインは「丸〆猫」の〆と同じだったりします。ただ、ネットで見たところ一番古いので創業100年。しかしネットには引っ掛からない本当に古い旧家や無くなってしまった老舗もあったかもしれません。自分の家の家財道具につける焼き印というものがありますね。丸〆、¬〆というのもあります。

ここまで来ると、確実に嘉永5年より古いものがまだ確認されないんで(猫に限らず)、卵と鶏どちらが先か堂々巡っているだけのようです。どなたかご存じの方、お教えください。

「丸〆猫」についてはとりあえず、ここで〆たいと思います。

丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。

 

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丸〆猫(まるしめのねこ)⑬

2010-03-31 18:11:45 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010266 HPの内容と重複してしまうのですが、、、。

人形玩具学会のAさんからの情報提供で、新たな丸〆猫の土人形の出土を知りました。出土地は文京区千駄木。ただし、この出土品は裏面だけです。

今戸焼の人形に限らず、昔から土人形には手捻りによる成形もあるものの、多くは2枚型といって、前後を合わせて接合します。鯛焼のようなものですね。この丸〆猫は、ちょうど、前後の合わせ目の裏半分だけ残っていた訳です。これまで見たことのない「本丸〆」の陽刻です。前面が残っていないのがひどく残念ですが、裏面だけでも発見されたということは幸いでした。

おそらく、「本」は「元祖」とか「本家」とかいった類の本家争いから生まれたものでしょう。これまでの記事の流れから推量していただけると思うのですが、三社様の門前でお婆さんが売っていた丸〆猫ですが、その能書き的な物語が2つ確認できました。(武江年表と藤岡屋日記)そして丸〆猫の霊験あらたかなの効能も山と記されていて、我も我もと丸〆猫を求め、布団を敷いて心願したようですね。大ブームです。売れるとなれば、今戸焼のほうではおそらく複数の丸〆猫作者が出てきても不自然ではなく、お婆さんを売り子とした床店(仮設店舗)は何軒もあったかもしれません。そうなると、「本家」「元祖」といって商品価値を高めるなど、競争になります。そうした背景を想像することができると思います。

さて、この「本丸〆猫」ですが、裏面のよだれかけや右足から腰にかけてのモデリングからすれば、新宿水野原遺跡出土の丸〆猫とほぼ同じで丸〆印が違う。おそらく、水野原の型から型どりして、刻印部分だけ修正したものではないかと思うのです。刻印と同時に前面を修正したものであった可能性もありますが、そうでない可能性もあり半々です。昔の土人形は、先行する型をもとにぱくって、部分的修正を施し、新型を作ることはよくあることなのです。

写真の「本丸〆猫」は裏のモデリングがほぼ同じであることから、水野原遺跡の丸〆猫を再現した型に手直しを施して、前面はあまり変えないで再現を試みました。

配色ですが、水野原の丸〆猫の再現と同じ配色でも構わないかとも思いますが、別の作者だったら、配色をもっと派手にしようとか、何とかして目立たせて売上を上げようと工夫することも想像できるので、敢えて配色を変えてみました。前面のモデリングといい配色といい、想像の域ですが、ひとつの試行として見ていただけたら、と思います。

「本丸〆」の「丸〆」は「一文字に点」という形ですね。丸〆猫(まるしめのねこ)①の画像の印と共通します。「本丸〆」の「丸〆」は①の猫への過渡期的な形だったのか、或いは、①の「丸〆」の形は同じ時期からあったのか、、謎です。

いずれにしても、「本丸〆猫」が他にも完全な姿で出土するのを心待ちにしています。その時にはより確証を持って修正していけると思います。

招き猫の実物としては、新宿区水野原遺跡出土の丸〆猫と並んで、この本丸〆猫が現在のところ最も古い最古のものではないかと考えています。

丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。


丸〆猫(まるしめのねこ)⑫

2010-03-30 23:29:23 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

P1010058 なかなか不勉強で、ついこの頃まで知りませんでした。「藤岡屋日記」。これは幕末、江戸の外神田御成街道に書肆を営んだ藤岡屋由蔵の手記で、内容的には文化元年に始まり慶応4年に至る65年間に亘るもの。身辺の出来事を綴るだけでなく、公私の事件に関する文書の写し、巷談街説を聞書したもの、或いはそれに関する瓦版の転載などからなっているということです。

現在、出版されていますが全巻揃いでとても高価なため図書館で閲覧してきました。その5巻 第37~第46(嘉永5年~安政元年)の記事に丸〆猫に関する記事があるので記します。

○嘉永五子年春  浅草観音猫の由来

 浅草随神門内三社権現鳥居際へ老女出で、今戸焼に猫をならべて商ふ、是を丸〆猫共、招キ猫共いふなり、是ハ娼家・茶屋、其外音曲の席等へ余多の客を招き寄候とて、是を求メ信心致ス也、又頼母子・取退無尽等ハ壱人ニテ丸〆ニ致候とて是を信じ、又公事出入・貸借等も此猫を信ズル時は勝利となりて丸〆に致し、又々難病の者、此猫を求メ信心致し候時ハ、膝行ハ腰が立て親の敵を討、盲人ハ眼が開き目明しと致し、又ハ脚気症等よい々ニて歩行自由ならざる者も、此猫を信ずるがさいご忽ち両足ぴん々と致し、余り退屈だから昼飯ニ小田原迄初鰹を喰ニ参り候との評判ニて、飛脚屋□京都へ三日限の早飛脚を頼まれ、余多の貸銀を丸〆としたるとの風聞□、欲情の世界なれバ、我も々と福を招きて丸〆々。

丸〆に客も宝も招き猫  浅草内でこれ矢大臣

○右猫之一件

浅草寺中、梅園院境内  市右衛門店、ひねり人形渡世 藤作  同人妻 こと

 右琴儀、数年来飼置候白ぶち猫、或日□□世話ニ成候方に飼置候駒鳥を取候故、□□立腹致し、先へ申訳無之間、此猫を何処へ成共捨べしと妻へ申付候処、こと義、手なれ候猫故捨候を残りおしく思ひ、猫ニ向ひ申候ニハ、巳来鳥を取候事急度慎ミ候ハバ我等先方へ参り詫び言致べし、此以後ハ、おとなしく可致候様申含候処ニ、猫も首をたれて恐入候様子ニ付、ことハ先方へ参り詫言致し、ぢゝハ捨候様申付候得共、猫へ右之義申聞候処、恐入候様子、咄し候ニ付、先方ニ而も不便ニ存じ、畜生の致す事なれバ、無是非も、捨るニハ不及と申候ニ付、こと大きニ悦び、内江帰り候処ニ、猫ハ何方へ参り候哉、姿見へず候間、所々相尋候処、行衛相知れ不申候間、是を気ニ致しぶら々病ひ出候処、□□□□仲間の人形職人、或日琴が病気見舞ニ来り候処、猫の咄し致候故、職人申候ハ、然ば我等其猫の代りを一ツ拵へ持来り、遺し候処ニ、老婆大きに悦び、猫ニ布団三枚敷、平常鯡を好物ニ付、毎日このしろを上ゲ候処、ことへ申候様ハ、是迄段々御厚恩ニ相成候処、私義、恩返しも不致候上ニ鳥を取、申訳無之、古井戸へ飛込死し候間、此以後ハ御恩報じニ御身の上を相守り候間、薬御用被成候ば早速全快仕候と、夢ニ見候処ニ、其後近処之者脚気を煩ひ候処ニ、猫ニも性有之候間、信心致し候ハバ、直るべしと、願懸致し候処、早速全快致し候ニ付、是□近辺ニて評判致し、浅草近辺の芸人多ク色々の事申、右猫の誂物閙ヶ敷、手廻り兼候間、後ニハ沢山ニ拵置候間、差支候義無之よし。

登場するのはやっぱりお婆さんですが、武江年表の話とは全然違いますね。「梅園院境内    市右衛門店 ひねり人形渡世 藤作 同人妻 こと」というのが、そのお婆さんのようですが、この能書きで売り出していた一人なのかもしれませんね。武江年表の話は、別の販売人による能書きのような気がしてきます。他にも別の話があったのかもしれません。販売者の数だけ話の内容が、、、?三社様の脇で猫を売っていたお婆さんもひとりだけではなくてあちらこちらにいたのかもしれません、或いはひとところでも日替わりのお婆さんがいたのかなあなんて変な想像もしてしまいます。「梅園院」というのは浅草寺塔頭のひとつで現在は本堂の裏手、言問通り寄りにありますが、往時は仲見世左側にあったようです。今も仲見世と交差する伝法院通りの一本手前の通りを左折すると「梅園しるこ」がありますね。この店はかなりの老舗のようで、震災前の絵葉書で見るとハイカラな塔のある店構えだったみたいです。そもそもは「梅園院」の境内で創業したそうなので、現在の「梅園しるこ」と浅草寺幼稚園との間あたりが「梅園院」だったのでしょうか?その境内でひねり人形の商売をしていた、という記述も見逃せません。ひねりの丸〆猫もあったんだろうか?古いひねりの土人形は現存するし、ひねりの箱庭細工の招き猫も残っています。 

それにしても難病が治って足腰丈夫となり親の敵を討つ。眼病が治る。脚気が治って両足ぴんぴんとなって退屈だから小田原へ昼飯に出かけ初鰹を食べ、評判になって飛脚屋から京都まで三日限りの早飛脚を頼まれてあまたの財を丸〆する。 すごいパワーを持っていたんですね。 さすが丸〆猫。  すごすぎる!

武江年表の原文は丸〆猫(まるしめのねこ)③に記してありますのでお暇でしたら読み比べてください。  

丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。


丸〆猫(まるしめのねこ)⑪

2010-03-25 21:25:23 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010267 広重画 「浄るり町繁華の図」 (嘉永5年)改めて全体を見てみます。描かれている人物が全て、浄瑠璃の登場人物を市井の物売りや大道芸人に「見立て」てあるのが楽しい。

左上が「軍法富士見西行」の西行と遊女で丸〆猫屋。

右上は「妹背山女庭訓」の杉酒屋の娘、お三輪が焼酎を売っていて漁師鱶七実は金輪五郎が買いに来ている。 

中段左は「本朝廿四孝」筍掘りの場の慈悲蔵が筍を売っていて横蔵と越路が買っている。

中段右は「伊賀越道中双六」の唐木政右衛門玉煙草を売っているのは饅頭のもじり?巡礼姿のお谷が買っている。   

下段右は「双蝶々曲輪日記」の濡髪長五郎と放駒長吉。二人の名前が長だから双蝶々という外題なのは有名だけれど、二人揃って蝶々のおもちゃを売っている。この手のおもちゃは確かにあったらしくて、雑司ヶ谷の鬼子母神にもあったらしい。

右下から二段目は「神霊矢口渡」の頓兵衛が売っているのはふのりだろうか?その脇に娘のお舟。 

右最下段は「国姓爺合戦」の和藤内と錦祥女。紅流しといって、錦祥女が胸を刀で突いて自害して川に流れる血を見て「南無三紅が流るる」という名台詞なのが、錦祥女のやっているのはマーブリングの紅流し。こういう商売ってあったんですね、、。覗いているのが和藤内。石橋の上から川面を覗いているのと同じような姿。

どの登場人物も、浄瑠璃のあらすじに因んだものを売ったり見せたりしているところがミソですね。他に6枚あるんですが、全部は大変なので、この辺で、、。

丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。

 

 

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丸〆猫(まるしめのねこ)⑩

2010-03-24 22:11:55 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010269 既にほうぼうで紹介されているので、今さらの感じがなくもありませんが、この錦絵を参考にした、という意味で採り上げます。これはその丸〆猫屋の部分の拡大です。この錦絵のタイトルが「浄るり町繁華の図」(嘉永5年)全部で七枚ある大判錦絵のシリーズのひとつのようで、タイトルのとおり、浄瑠璃の登場人物を当時の市井の物売りや大道芸人に見立ててあるわけです。丸〆猫についてテーマで書いているので、全体よりも丸〆猫屋のことを先に見てみましょう。

はじめて見た時、坊主と遊女の組み合わせなので、おそらく西行と江口の君なのではないかと思いました。というのも、青い風呂敷包みのようなものを胸のところで結わえているのです。土人形でも西行の姿はよくあって、風呂敷包みがトレードマークみたいなものです。昔、西行の土人形を庭先の祠なんかに祀っておくと盗難除けになる。「首はとれても包みは離さぬ」といわれていたようです。歌舞伎の演目で「時雨西行」と舞踊劇があり、その登場人物です。江口の里で時雨の降る中、西行は遊女に出会いますが、実は文殊菩薩の化身だったという筋なのですが、この舞踊自体はそう古いものではなく、古い伝説から取材したものです。しかし、他に描かれている人物がすべて浄瑠璃の登場人物なのですから、この2人も現在は上演されない古い浄瑠璃に取材されたものなのだろうと思っていたら「軍法富士見西行」という竹本座初演の浄瑠璃だそうで、筋も知りませんが、その元は「吾妻鑑」に出てくる話で、頼朝から銀製の猫を与えられた西行が門前の子供にその猫を惜しげもなくくれてしまった、という話があるのだと、日本人形玩具学会のO先生から伺いました。この浄瑠璃は既に廃版となった国書刊行会発行の「竹本座浄瑠璃集」に収録されているそうですからいづれ読んでみたいと思います。

浄瑠璃の話にそれてしまいましたが、描かれた人物が浄瑠璃の登場人物の「見立て」ですが、描かれている様子は当時の風俗をそれらしく描いていると考えてよいのでしょう。嘉永5年というのも「武江年表」の話と辻褄が合います。描かれている招き猫の背面こそ見えませんが、構図は水野原遺跡の丸〆猫と同じと考えてよいと思いますし、暖簾や提灯に見える丸〆印もまた水野原の丸〆印と同じです。こうした床店(小屋がけの店)が三社様の門前にあったのでしょう。尾張屋春吉翁の証言に出てくる店もこんなだったのでしょう。ちなみに翁の話によれば、浅草の観音様の境内にあった床店は明治15年に取り払いになったということです。

丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。

 

 

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丸〆猫(まるしめのねこ)⑨

2010-03-24 21:32:59 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010265 水野原遺跡出土の丸〆猫をもとに再現した猫です。たくさんのアングルからの写真や採寸した大きさを頼りに作ったものの、現物と並べて作ったわけではないので、誤差が出ても仕方ないかな?とは思います。手先の部分が欠損しているのでそこは、想定してモデリングしてありますが、同じ新宿区内の他の遺跡から出土した同様とおもわれるものは手先がしっかり残っていますから、いずれ修正できる日が来ることを願っています。配色は広重の錦絵に描かれている丸〆猫と伝世の座り猫のものを参考につけています。よだれかけの縁部分は既にお話したとおりキハダを煮出した汁を何度も重ね塗りして、上から砂子を蒔きました。塗ってみて思ったのは、この猫俯き加減なので下から見上げる角度のほうが器量よく見えるように思えるのです。神棚にお祀りすることを考えてのモデリングなのではないかと思います。彩色については、錦絵からの想定ですが、現在のところ最古の招き猫はこういう感じだったのではないかと考えています。

丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。

 

 

 

 

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丸〆猫(まるしめのねこ)⑧

2010-03-23 19:35:00 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010263 同じくNHK「美の壺・招き猫」の番組内で採り上げてもらった再現した丸〆猫。出土の猫をいろいろなアングルから撮ったり、採寸したり、既成の拙作の丸〆猫の素焼きと並べてみたりで、モデリングしたものです。配色については、広重の錦絵と伝世品の座り猫の配色パターンを参考にして塗りました。よだれかけの縁の部分は錦絵だと朱のようですが、伝製の座り猫の今戸の土人形だと、きはだを煮だして塗っていることがあるので、そのようにしました。植物の煮出し汁は、発色や定着が弱いので、このような黄色になるまで、塗っては乾かしの繰り返しで面倒でしたが、江戸時代の雰囲気を出せたらと思いました。画面で猫を持っている手は谷啓さん。

スタッフの方に、撮影後、この猫をお返ししたほうがよいですか?と言われたので、谷啓さんに差し上げてください、とお願いしました。

丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。

 

 

 

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丸〆猫(まるしめのねこ)⑦

2010-03-23 18:58:27 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010261 これもNHK「美の壺・招き猫」番組画像の一部です。実際に実物を撮影した画像でもっとばっちりのも手元にあるのですが、無難なところで番組画像で紹介します。丸〆の陽刻です。安政年間の火災に遭っているということは、当然江戸時代に丸〆猫が存在したという決定的な実証となりますし、嘉永年間にあったものと同じと考えても差し支えないのではと思います。それというのも話題となった広重の錦絵(嘉永5年)に描かれている猫と構図もほぼ同じですし、これで車の両輪のように出土品の土人形と錦絵で、丸〆猫への疑問も解消しつつあると思います。

丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。

 

 

 

 

 

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丸〆猫(まるしめのねこ)⑥

2010-03-23 18:44:08 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010262 この画像はNHKの「美の壺・招き猫」番組内の1シーンです。ご覧になられた方も少なくないかと思います。新宿区内の「水野原」遺跡から出土した丸〆猫です。

これまで、いろいろな近世遺跡からの出土例を探してもみつからなかった丸〆猫にやっとめぐり逢いました。今から4年前くらいでしょうか?新宿区の歴史博物館の図書室で遺跡報告書を閲覧していた際、報告書巻末の白黒の遺物写真を見ていましたら、土人形類を一括して撮影した写真があって後ろのほうに見覚えのある構図の招き猫がありました。早速閲覧申請をして現物に対面したところ、背面にやっぱりありました。丸〆の陽刻が、、、。以前は報告書には一個一個の遺物の実測図、データ表があったものですが、コストの面でひとつづつの記録はしていないので、この猫についてのデータは写真以外何もなかったのです。担当の方もさして関心がない様子でした。2度目に申請して再会し、いろいろなアングルから写真を撮ったり、採寸したり、持参した拙作の丸〆猫の素焼きと並べて比べたりしました。

この遺跡では安政年間に火災があって、遺物にも焼き焦げが見られる、ということで、この猫にも焦げたようなところがありました。招く手先が欠損しているのが残念ですが、もう一体別の遺跡報告書に中に同じ型と考えられる猫がありまして、これも申請しているのですがまだみつからないようです。その後、NHKから美の壺で招き猫を採り上げたいから取材にお邪魔したいという依頼があって、その際、この出土遺物のこともお教えして、番組に採り上げられたわけです。それまでは、廃校になった小学校の地下室にある収蔵庫パン箱の中で、他の遺物に混ざって忘れ去られ、眠っていた猫でしたが、番組放映後は、歴史博物館の収蔵庫で重要資料として収まったと聞いています。大出世ですね。それにしてもみつかってうれしいです。とりあえず今の時点ではこれが確認できるところ今戸焼の最古の招き猫であり、尚且つ確認できる造形物として最古の物証ではないかと考えています。この姿は横座りで顔だけ正面を向いて招いており、今戸焼の招き猫としての特徴を具えています。もっと後になると西日本の招き猫の影響を受けた正面向きの姿の招き猫も今戸焼で作られるようになりますが、もともと座り姿の猫(横座り)がたくさん作られていた今戸焼では座り猫から鞠抱き猫が生まれ、それから招き姿に変化したと考えればごく自然だと思います。

丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。

 

 

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丸〆猫(まるしめのねこ)⑤

2010-03-23 17:57:07 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010259 有坂与太郎著「おもちゃばなし・今戸人形」(昭和5年刊)に掲載の第24図。解説に「女異人 今戸人形中、異国人を描けるもの他になし、出色のものと云ふべし。」「丸〆猫  招き猫の背面に丸〆の文字を現す、丸〆は乃ち金〆めにて、嘉永年中、淺草三社權現内の露店にて鬻がれたるなり、最も行はれしと云ふ。」とあります。これら座姿と臥姿の2体の丸〆猫は、丸〆猫③の「おしゃぶり・東京篇」の記事にもあるとおり、今戸の人形師である尾張屋5代目兼吉さんの創作と言われている型で、6代目春吉翁もこの型で作っていました。春吉翁の丸〆猫も配色がいくとおりか異なっているものを確認していますが、絵具は膠で溶いて使うので、その都度湯煎にかけなければならず、そのタイミングや効率の上で、配色の違いがあるのではないかと考えられます。

さて、ここまででご覧いただいた丸〆猫型の土人形の種類は3種です。尾張屋さんは他に「丸〆小判猫」という人形も作っていらっしゃいました。これを加えて4種確認できた訳ですが、ここで疑問があります。「おしゃぶり」でも引用されている「武江年表・嘉永5年の項」のお婆さんの話の中には三社様の脇で売り出されて大流行した今戸焼の猫に丸〆の印があるとは述べられていません。 ですから嘉永5年の猫=丸〆猫であるという確証がありません。唯一の証言が昭和17年か18年の「鯛車」という雑誌の記事「今戸人形を語る」の中で「三社様の前には丸〆の招き猫の店があったのでした。と尾張屋春吉翁が語っておられます。

私は伝世品の人形の他にも都内の近世遺跡からの出土の人形を参考にしたいとかねがね遺跡報告書を閲覧したり、出土人形にお詳しい日本人形玩具学会のAさんに出土状況をうかがっていたのですが、大流行したはずの丸〆猫が出土されたということを確認できず、不思議に思っていました。特に浅草寺六角堂の修復移設の際、大量の裃雛(今戸のあねさま)が出土しているのに丸〆猫は出てこなかったこと、また、二天門外の消防署の跡の遺跡からも出てこなかったというのが謎に思えていました。

丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。

 

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