独断で決める赤羽の名所なので、定番のスポットの順番とはちょっとずれているかもしれません。
この場所おわかりですか?地元の人間だったら、、。一番街と平行しているOK横丁の道を挟んだ続きが「明店街」という名前の看板なんです。
一番街のお酒の量販店がある手前の立ち食いそば屋さんのところから曲がってここに来ます。
自分の子供の頃の街の雰囲気がまだ残っているように思います。
この看板いい感じを出していると思いませんか?
昔の墨東の「鳩の街」の話は聞くだけで、実際はよくはわからないのですが、この看板、何故かそういう時代のムードへ導かれるような気がします。実際はこの辺りは鰻屋さんとか魚屋さん、肉屋さん、床屋さん、ミルクホール、なんかが並んでいます。ずーっと昔のことは知りませんが、、。 それと背景のお蔵がまたいい感じだと思って気に入った景色なんです。
ここは私の町内にある銭湯「玉の湯」さん。当然一番馴染みのあった銭湯です。
わが家には古い家の時から風呂場があったのですが、小学校にあがる前、建て替えの頃は毎晩通ったものでした。
その後、もの心がついてから、余計に足が遠くなってしまったのですが、腰が痛むようになってからは時々入りに行っていました。
銭湯の風情というものの基本はここで培われたようなものでした。ここ「玉の湯」さんを中心に子供の頃まではこの町内にも小さな商店街がありました。酒屋さんに肉屋さん、食料品屋さん、洋品店、電気屋さんに中華屋さん、日本そば屋さん、電気屋さん、クリーニング屋さん、駄菓子屋さん、お茶屋さんまでありましたが、今ではなくなってしまいました。
夕方、玉の湯さんが開く頃には屋台の焼き豚屋さんのおばさんが入り口につけていました。
通りに活気がありました。
玉の湯さんも2年くらい前だったか閉業されてしまったのですが、建物はそのまま残っていました。しかし先日の地震で屋根の瓦が落ちたとかで取り壊しになりました。
せめて富士山の景色を撮っておこうとカメラを向けました。
よく見ると、この景色、大きなキャンバスのような地に描かれているので、その気になれば、そこだけ切り取って保存することもできたのに勿体ないですね。今では立派なアートとして通用すると思うのですが、、。
赤羽駅東口すぐそばの歓楽街のビル屋上に立っている自由の女神様です。お台場へ行かなくとも、赤羽でみられるんですよ。
できてからもう何年経つでしょうか。すっかり定着しているといった感じです。以前は京浜東北線で赤羽に着くと、ばっちりとその威容を誇っていたものですが、昨年手前のビルが建て替えられすっかりその影になってしまったのが気の毒です。
こういう際物的というか、びっくりさせる広告オブジェといえばいいのか、今でも他所にもあるみたいですね。川口駅前の「ライオン」とか、山手線渋谷恵比寿間の「ゴリラ」とか、恵比寿目黒間の「巨大な赤い球」とか、、。
今はなき、目に焼き付いているもの、、、高田馬場駅前にあった「スズヤ質店」の「ポルノ噴水」。これは意味不明だったけれど強烈でした。大塚駅前の「角萬」の「金閣寺」。不思議な景色でした。西日暮里駅が開業する以前、高崎線と山手線とに挟まれた三角地帯のビルの屋上に立っていた「週刊新潮」の「こけし」。鴬t谷駅前のキャバレーの「巨大なビアジョッキ」などなど。
写真に撮っておけばよかったと、今になって思います。
赤羽の自由の女神さまは目立たなくなってしまいましたが、今なお健在です。
ここも40年以上前からありますが、中に入ったことがないので、あくまで外観しか知りません。
正面にHの目印のあるところには昔はピンク色の地に脚をクロスさせたお姉さんのイラストの丸い看板がありました。
キャバレーというところを知らないので、中でどんな世界が繰り広げられるのだろう、という想像をしながら通り過ぎます。
昭和30年代の石原裕次郎さんの映画に出てくるような生演奏でダンスしたりするような上品さと伊達さと妖しさのミックスされた酒場なのか、どうなのか、、、?謎です。昔は入り口の前にその日実演に来る歌手の看板なんかありました。
母の話では、もともとここには銭湯があったということですが、私の最も古い記憶には、まだこの建物が建っていないおぼろな風景が浮かんでくるのですが、母の話からの影響で勝手に浮かんでくるイメージなのかどうか。
画像左側のならびに数年前まで「すがい」というさっぱりとしたおいしいラーメンの中華屋さんがあり、よく食べに行ったものですが、なくなってしまいました。その建物に池袋のT軒系のお店が入って、若い人がよく並んでいます。
かねがね思っていたのですが、古くから「近江八景」だの「江戸名所百景」など数を決めて名所を選ぶ趣向というものがあります。私の住む北区で選定した「北区百景」のようなものもあったかと思いますが、私の生れ育った赤羽近辺に絞って独断で選ぶとしたら、、、。
きっちり数合わせできるかわかりませんが、折に触れてとりあげてみたいと思います。
「いの一番」って訳ではありませんが、手近なところから、まず「カトリック教会」。
ここは戦後も昭和20年代後半からだそうですが、しっかりと定着している風景です。
ここには幼稚園も併設されていて、私もここで年少組、年長組を過ごしました。私は「ペトロ組」でした。「アーメン」なんてやっていたのと、クリスマスの時、サンタさんがアメリカ式?の赤い定番ではなくて、本式?のザンクト・ニコラウスのいでたちでした。ゴチック様式の教会の中でもよく何かやっていました。
ここの教会、TVドラマのロケーションなどでよく登場するので有名らしいですね。私が通っていた頃、「特別機動捜査隊」というドラマのロケが来ていて、何も知らずに俳優さんたちにだっこされたり、園内に落ちていた大好きだった「たいさんぼく」の花の芯をあげたりしたのを憶えています。「おはようこどもショー」のロバくんも来ました。特に有名らしいのは「101回目のプロポーズ」はここの内部で撮影されたようです。
今、ダイエーの跡地に26階建てのマンションが建設中なので、完成すると、この尖塔の背景の空は見えなくなってしまうのでは、、と危惧しています。
旧・日光御成街道沿の拡張に伴う工事が進んでいます。道の両側に建っていた趣深い民家を取り壊したりで淋しい気分ですが、通りすがりに見つけたこのタンポポたち。押し固められたアスファルトを突き上げて咲いているこのパワー。
踏みつけられても踏ん張って咲こうとしている根性。人の生き方もこうあるべき、、、と気弱な私も考えさせられてしまいました。
余談ですが、戸板康二さんのエッセイ集の中で読んだ話なのですが、三島由紀夫さんが新進気鋭の作家だった頃、美空ひばりさんに会う機会があって、既に大スターのひばりさんは三島さんを知らない。紹介されて「物書きをしています、、」とか自己紹介した三島さんに対して、どう思ったかひばりさん。「へこたれちゃダメよ。」と声をかけたそうです。何だか楽しい話ではありませんか?
今日から4月。例年だと、学校の卒業式の頃にはヒガンザクラがようやく咲くかどうか、、入学式まで花がもつか、、、?なんて話題になるところですが、今年は先日の大震災の影響で卒業式さえいつもどおりにできなかった生徒さんたちもいたり、それ以前に眼の前の心配ごとで、花を楽しむという心の余裕がなかったのは私だけではないと思います。
午前中ワンちゃんと通りがかった赤羽西の静勝寺脇の坂道。ふと見上げると幹の太い古木に花が開きかけていました。
聞く所によれが、大震災の被災者の方々のことを配慮して都立の公園での飲酒飲食は自粛の方向なのだそうですね。隅田公園や飛鳥山のような区立公園はそうした規制はないそうですが、、。まあ、桜の樹の下でビニールシートで場所とりして、カラオケの機材を持ち込んで、終いにはゴミの山となるいかにもニッポン的なお花見というのは、個人的には好きではないので、せいぜいひっそりと水筒のお茶と和菓子(桜餅でも道明寺でも)を楽しむくらいの静かなほうが好きです。
それよりもたまたま散歩がてらに通りがかったところにひっそりと咲いている桜こそ心に染みてくるように思います。
「暫狐」で有名な、東京を代表する郷土玩具のひとつである「王子稲荷の紙からくり」についての④です。
画像のものは昭和40年代に好事家によって作られたものです。福禄寿が抱える鉢植えの朝顔がにょっきりと咲いたり、三つ目の大入道、などちょっとグロテスクなものもみられます。
狐では唐傘を持った粋な姿のものは、おそらく歌舞伎の「髪結新三」の永代橋のもじりでしょうか?
これらは、昔王子で作られたものを写したものか、それともからくりの技法を応用して創作されたものか、わかりません。お作りになった好事家の方は下谷の小野照崎神社のそばに住んでいた有名な錺職の方だと聞いていますので、福禄寿と朝顔など、近所の入谷の鬼子母神の趣向でお作りになったのではないかとも考えられます。
一枚目の画像は昭和7年の初午に王子稲荷地内「栄や」というお茶屋さん(または料亭?)から出された紙からくりの「狐の勧進帳」と「暫狐」です。
製作の監修は有坂与太郎で、裏にその由来を述べる紙片が貼りつけられています。また、当時デパートでの郷土玩具の即売でも売られたのでしょう。大丸の値札がついていて、「勧進帳」「暫狐」共々それぞれ10銭だったようです。
「暫狐」は明治の劇聖・9代目市川団十郎が王子稲荷に参詣して舞台の成功を祈願し、成就したことによってできた云々の由来を聞きますが、それより古い錦絵には既に構図の異なる「暫狐」が描かれているので、前からあったものなのでしょう。しかし、画像の「暫狐」は明治の9代目団十郎の頃のものを写したものでしょうか?
戦後、漫画家の宮尾しげを画伯によって復活されたものも、構図としてはこんな感じでした。私が小学生だった昭和40年代後半はまだ宮尾画伯作の「暫狐」が授与されていましたが、その後、昭和50年代くらいに現在の型(仁王襷をしている)に変わったのではないかと思っています。
画像2枚目のものには、昭和24年と記されています。何かの本で観たことがあるもので、おそらく当時の好事家が古いものを再現したものではないかと思われます。
昨日は初午でした。王子稲荷さまと装束稲荷さまはかなりの人出で賑わったことと思います。
王子稲荷さまは火伏せの凧市で知られていますが、古くからの土産として有名なものに紙と竹ひごで作られた紙からくりがあります。昔から東京を代表する郷土玩具のひとつに数えられるものです。
現在でも王子稲荷さまで授与している「暫狐」の類ですが、古い錦絵などに描かれているところから種類はいろいろあったようです。道行風の「相合傘」などどういった仕掛けになっていたのか伝世品があったら観てみたいものです。
画像のものは、わが家にある明治時代のものを手本として自分で以前作ったものです。本当なrば実物をご紹介したいところですが、どこにしまってしまったのか、すぐに出てきません。
寸法や意匠は忠実に写したつもりですので、こんなものが明治にあった、というイメージとして観ていただければ、と思います。
竹ひごを動かすと、おいらんの頭が回転して狐の頭に替わります。
今日2月7日は志茂4丁目に鎮座する熊野神社の「白酒祭」。近所にいながらこれまで観に行ったことがありませんでした。
「鬼」の字の的を弓矢で射る神事で、この辺りでは知られたものです。
少し遅れて出かけたので、はじめから観ることはできませんでしたが、到着した時には、神楽殿で「豊島の餅つき唄」というのを奉納されていました。続いてメインの神事です。
黒山の人だかりできれいなアングルで写真を撮ることができませんでしたが、ご神職、地元の代表の方、小学校の校長先生、消防署長さん、などが順々に的をめがけて弓をひかれていました。なかには、的ではなくて奉納額のガラスに命中して割れてしまうシーンもあったのが御愛嬌?でした。最後に白酒とお餅が振る舞われ、終わりました。
おととしだったか、台風で公園の南側のポプラの大木が倒れて、昔からあったキリンの滑り台を直撃したためだったか、その後すぐになくなってしまいました。
そして今、公園の北側、ダイエーのまん前にある古い遊具も取り壊しになっています。
公園の中で一番目を引く滑り台もまた封鎖され、まもなくなくなってしまうようです。
これらの遊具は私が幼稚園の年長組だった頃、公園内が整備されて新しく登場したものだったので、小学生の頃遊んだものです。
この滑り台、いかにもアントニオ・ガウディーのグエル公園の意匠をパクったという感じなのですが、左から曲線状の階段を登り、橋を渡って、右側の滑り台を下りてくる構造になっています。
取り壊しの理由として、老朽化や安全性の他、見えない死角が防犯上の欠陥となっているそうです。ご覧のとおり、真っ白だった壁面も年月を経て苔むしています。ただ、今後これだけ凝ったものを建造するとは考えられないので、時代の遺物として何らかの形で残すことはできないものかと思います。もったいないです。