水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
母は私とは違った。
多くの人、全ての人と仲良く。
某教徒のような考え方をしていた。
人は仲良くするのが、人として正しい生き方だ。
話せば解り合える。
真実は一つだから・・・
みたいな・・・
持病の一つは、そういう無理から生まれている。
長年母を治療していて、そう思った。
母は正しさに自分を無理やり押し込める。
ところが、人間はそういう風に出来ていない。
何より、正しさが判断できない。
そして、心も身体も多種多様で成り立っている。
だから一つの正しさに押し込めると歪みが生じる。
何かにこだわるのは仕方ない。
個性ある人間だもの。
だが、生真面目にこだわり続けると歪みは苦しみになる。
苦しみを続けると、病に発展する。
もっと、やわらかく生きれば、苦しみは減少する。
母は、私と違って、真面目だった。
その真面目さから抜け出られなかった。
良悪や正誤をいってるのではない。
そういう生き方を選んでいたのだ。
親子といえども、人それぞれの生き方だ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
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私も50過ぎてから、徐々に出来るようになった。
それまでは、できるだけ多くの人と仲良くしようと思っていた。
話せば解り合えるなどとは、ネボけても思わない。
解り合えなくても、仲良くできるだろう。
同じ地球上だ。
それが50歳過ぎてからは、ズレがでてきた。
もし、生命が永遠でなくても、とてつもなく長ければ。
出会いの人と仲良く交流できるだろう。
特に仲良くでなくても、付き合えるだろう。
同じ人間同士、同じ生物同士、交流くらいしようぜ。
だが、残念なことに我々の寿命は短い。
出会い全てと付き合えるほどの生命の長さはない。
50歳過ぎてから、この単なる事実と向かい合った。
住む町全員とも知り合えない。
県全員となんて無理。
限られている人達としか、出会えないのだ。
気の合わない人と付き合っているヒマはない。
好きな人達だけでも、多すぎて全員と付き合えない。
好きな人達と気の合う時間を過ごす。
それが、今生の生きる意味なんだと独断している。
今生を根性で、好きでない人まで解り合おうなんてしたくない。
生きることは、ワガママでいいと知った。
他のモノたちを侵さなければ、ワガママが自然な生き方だと・・・
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「母のこと・147」
棟梁親子の家は、ボロ家だ。
ふっくらした、女将さんが私にこぼした。
棚一つ作るのも、私がするんだよ。
腕の良い大工が二人もいても、家の修理はしない。
私の父も大工だからわかる。
家の内から外が見えるような家だった。
昔の職人気質っていうのは、そういうものなのだ。
今の大工さんは、ほとんど小奇麗な家に住んでいるが・・・
そういう全てを、私は好んだ。
同じ生き方は当然出来ない。
だが、あの素直な雰囲気には近づきたい。
自分に恥じない仕事ぶり。
他人の目や評価じゃないのだ。
自分が基準だからこそ、プロは厳しい。
自分に甘いのは、甘チャアというのだ。
計算しない付き合い。
気に入れば仲間。
嫌なら縁を切る。
プライベートは、単純に。
気に入った仲間だけで充分なのだ。
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長い間東京で暮らしていた姉。
当時は和文タイピストで独立していた。
その後ワープロが登場し、パソコンが普及する。
今は絶滅してしまった業種の一つだ。
いろいろの事情があったのだろう。
水上に帰ると言う。
しかし、適度な就職口は無い。
そこで、私と一緒に喫茶店をすることになった。
姉は半年前から、洋菓子部門の学校にも通っていた。
もともと料理が得意な姉だ。
軽喫茶部門も通い、二つの基礎を学んでいた。
私は、平日を姉のアパートから学校に通った。
週末は帰ってきて、棟梁などと打ち合わせ。
そして、棟上(建て前)の日が来た。
当日は、棟梁組(関係者)だけではなかった。
私の仲間連中が仕事を休んで来てくれた。
職人達だが、今回の私の店には関わり無いのに。
ワイワイと、親父っさんの指示で動いてくれた。
ありがたかったなぁ・・・
夕方には、屋根の上から餅撒きをした。
25歳の時は初めてづくしで余裕がなかった。
30歳時は、仲間が多く手伝った事もあり楽しめた。
そして、屋根だけの家の中での酒盛り。
親父っさんも、本当に嬉しげに酔っていた。
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初棟梁は張り切っていた。
設計図、それに基づく模型を作ってきた。
各間取りも出来、材料も吟味した。
もちろん、親父さんが多くを手伝ってくれた。
木材の確保などは、半年前から手配してくれた。
当然、自分の目で確かめて吟味してくれた。
弟子とはいえ、倅の初棟梁仕事だ。
私は3月で退職。
融資審査も無事通った。
家でも店でも作るのは簡単だ。
金のメドさえあれば、誰でも作れる。
問題は、返済できるメドなのだ。
アホな私は、そんな事は何とかなると思っていた。
人の倍働けば何とかなる。
雪が消え、早速建築への基礎工事からだ。
基礎枠だけみると、何とも小さなモノだ。
こんな小さくて、人が入れるのだろうか?
そんな心配などしているヒマはなかった。
私は、店が出来上がるまでに東京の専門学校に行く事にした。
コーヒー好きで味がわかっても、プロとしての基礎は学ぶ。
赤坂バーテンダースクールという伝統ある専門学校だ。
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母は私が一般的な社会人には不向きだと見抜いていたようだ。
やりたい事は何でもすればいい。
応援も出来ないけど、邪魔もしない。
呆れもしないが、期待もしない。
とりあえず、人には恵まれ、友達は多い。
戦前、戦中、戦後を思えば上等だ。
多分、そんな感じだったのだろう。
道路沿いではあるが、山の中の土地を購入。
熊や狸はいるが、人は少ない。
そんなところに喫茶店・・・
趣味ならいいが、大借金してする商売じゃない。
今の私なら絶対やらない。
40歳過ぎて、多少は自分を観られるようになった。
私は商人の能力がほとんどなかった。
職人か研究者なら、そこそこになれる。
店を経営するタイプではなかったのだ。
だが、当時の私はわからなかった。
わからない事は、とりあえず、やる!
というのが私の歩き方だ。
後悔は、しないよりする方がいいだろう。
苦労はしたくないけど、何もしないよりいいだろう。
先の事は誰にもわからない。
何が起きるかわからないなら、いい事も起きるだろう。
それは判断、観る目がある程度あっての事なのに。
社会、世間に対して、甘い、無知な私だ。
やりたい事をするのは、苦労も後悔も込みの生き方だと後に知る。
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10年間。
私の専門学校時代のスポンサーである医師。
その歯科医院に働く期間だ。
身売りされた遊女の年季明けのようなものだ。
まぁ、それなりに面白かったが。
4月に就職しかから、3月いっぱいまで。
もちろん、段取りは進めていた。
仲間内は職人だらけ。
その中で5歳下の大工がいた。
職人の中でも誠実さが一段上の仲間だった。
その親父さんは腕のいい昔気質の宮大工。
当然、バッチリ仕込まれている。
彼に、初棟梁をさせてみたかった。
資金の事を商工会の同級生に相談した。
すると、金を借りる一年前から商工会に入れという。
商工会で斡旋する設備資金が低金利、軽審査で何とかなる。
わからない事は、こうして周りが教えてくれる。
勤めながら、商工会の会員となった。
これで、資金のメドがついた。
休みの日には、大工の彼とアチコチの店に調べに行った。
店の仕組み、窓の高さからテーブル、イスの高さまで。
そして、二人で設計図を何度も作り直した。
土地も幾つかあたったが、いいところは無理だった。
それよりも、店を建ててみたかった。
そういうところが、私の無知と甘さだった・・・
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私が怪我をしても、母は特に何も言わなかった。
兄弟達も、特に何も言わなかった。
我が家は、お互いが過干渉にならない距離でいるのが当たり前だった。
私も子供達や本妻や愛人達には同じ事を言う。
大きな病気、大きな怪我をしなければ、何をしてもいい。
(大きな病気、大きな怪我は自分で防げるから)
もちろん、他の人の生きる道を侵さなければ。
膝の怪我により、行動の仕方が変わった。
変わるなら、ついでだぁ、と仕事も変えようと思った。
この頃、技工の仕事が何でも無難にこなせるようになった。
難しい注文がある時はよかったが、何でも出来ると飽きる。
どうせ一度の人生だもの。
と、多感な時期をアンポ闘争に巻き込まれた私達は思ってしまう。
社会も、世界も、いつ、ひっくり返ってもおかしくない。
いつでも、そんな意識があるのだ。
茶道は辞めたが、コーヒー職人のマスターからコーヒーの味を教えられた。
私の周りには、相変わらず20人以上の仲間がタムロしている。
そうだ、次は喫茶店をしてみよう。
アイツ等の居場所も兼ねて・・・
29歳にもなったのに、世間知らずの私は、実に安易に計画していた。
ここから、社会に生きる能力の低さを実感する人生が始まった・・・
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今の私の体質(氣功師)は一般的でない。
私のことを知っている人は、知っている。
そうでない人に状況を書いても信じないだろう。
具体的には書かないが、かなり特殊なようだ。
仕方ないじゃないか、そういう風にさせられたのだもの。
もちろんプロとして常にセルフケア(自己氣功)している。
だが、私は子供時から多少の違いはあった。
血がでる怪我でも、30秒もしないで傷口がつく。
誰でもそうだと、ずっと思っていた。
バンソコウなど、使うから治らないのに、と思っていた。
反面、2時間くらいゆっくりしていたのに、実際は5分だったり。
回復力は異常に早いようだ。
まぁ、個性の一つということで・・・
膝は専門医がモルモットのように調べていた。
結論として、筋肉が靭帯の代わりをしているのだろう・・・
とはいえ、やはり無理ができなくなった。
季節の変わり目、湿度が高いと重くなった。
重い物を持って階段を下ると、膝が無意識に震える。
スキーは力任せの滑りから、体重移動でやわらかく滑る。
山登りは、ペースが変わって迷惑かかるから脱退した。
バスケットのような横の踏ん張りができなくなった。
茶道も正座が持たなくなって、辞めた。
小学校運動会の父兄リレーなどのコーナーが怖く感じた。
これらは、故御師匠様に出会って身体が変わる40歳すぎまで続いた。
今は通常何でもないが、一応膝に無理はしないようにしている。
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この専門医は気さくな医師だった。
診察に巡ってきて、いろいろ話をしてくれる。
私の無くなった靭帯についても教えてくれた。
無いままで、プロスポーツをしている人もいる。
すぐに歩けなくなって、杖か手術を選ぶ人もいる。
個人差が大きいので、経過を診なくては何ともいえない。
老年になると、杖の可能性が高い、等々。
私の足の様子を見て、杖で動いていいと許可が下りた。
もう動いていたけど・・・
その後すぐに、異例の速さだが、リハビリ室に行くようにと。
リハビリ師の人は、負荷をかけた一通りをさせて首を捻った。
本当に手術をしたのか?もう来なくていい。
リハビリは一日で卒業となった。
私は普通に歩いていた。
専門医は、異例だが、と断って退院させてくれた。
その代わり不定期での検査を約束した。
私はかなり特殊だったらしい。
私が退院する時、同じ日に手術した一人はまだベッドから出られなかった。
その後、何年にも渡って呼び出されては検査した。
交通費、日当が出る特別検査だった。
やはり、その専門医が扱ったケースで、私は特別だったらしい。
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