我が家は残ったが、何も無い状態からの出発は同じだ。
意外にも、父は無傷で帰ってきた。
もちろん補償などあるはずがない。
他国で殺し合いをした償いさえマトモにしていない国だ。
自国でさえ、無視されている犠牲者が多数いる国だ。
この山郷にも疎開してきた人達、家が無い人達も多くいた。
我が家は造りは大きいとはいえ、半分の古い民家だ。
明治20年頃に建てられたものだ。
そんな我が家に、4家族が間借りしていたという。
外屋といって、外壁に片屋根をつけ、トタンで囲った空間。
そういう場所にも、間借りしていたらしい。
(どうやら、貧乏には違いないが、我が家は家主側だった・・・)
何もなくても、毎日の暮らしがある。
腹も減る。
混乱、混合、雑多な日々だったろう。
母は病弱を片隅に追いやって、毎日をこなしていた。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)