その1はこちら。
この映画の骨組みははっきりしている。ラスト15分間の壮絶な斬り合いのために、それ以前のシーンは過剰なまでに静かに展開する。豊川悦司も、亡妻の姪であり、主人公の世話を焼いている里尾(りお……池脇千鶴)も、回想シーンをのぞけばまったく笑わない。それどころか感情の動きをほとんど見せないのである。
「閉門御免」
「お手向かい、いたしますぞ」
監督の平山秀幸はまじめな人だから、セリフのひとつひとつが吟味されている。「愛を乞うひと」「レディ・ジョーカー」「しゃべれどもしゃべれども」の人だからね。
さて、問題は最後の殺陣にある。
“鳥刺し”がどんなものか、原作ではあっさりとした説明。必殺剣であり、同時に使う人間にとって必死剣=必至剣であると。ところが映画ではかなり踏みこんだ説明が殺陣によってなされている。彼がなぜ藩主の愛妾を殺しながら、斬首されなかったか。ひとつには、“別家”として領民から尊敬をあつめる剣の達人(吉川晃司が渋い!)と対決させるため。そしてもうひとつは……
脚本がかなり周到。最後の敵をうちやぶるためには、“鳥刺しがすでに使われた”と誤解させなければならず、そのためにちょいとした技が披露される。この技は考えてある。くわえて、鳥刺しを使うには使い手が半死半生になっていなければならない。そのため、最初はとりまく藩士を峰打ちにして自分を弱らせるなどの工夫が満載。
ここから完全ネタバレ!
わからないのはですよ。その鳥刺しを使う直前に、豊川悦司は刀の紐をつかってある行動をとっており、ドラマの中盤で少年たちに鳥をとってやったときと同じように刀をひきしぼる。その行動が、鳥刺しの成功につながっているのか、どうにも判然としないのでした。見方が悪かったのかなあ。
池脇千鶴の童顔に激しい愛欲は似合わないと思った人も多いかも。でも、「ジョゼと虎と魚たち」で妻夫木聡に裸でむしゃぶりついたシーンが忘れられないわたしには、ちゃんと納得できるベッドシーンでした。布団だったけどさ。
この映画が罪深いのは、藤沢周平をまた読んじゃったので歯止めがきかなくなっちゃったのだ。困ったー。