事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

庄内弁講座 4時限目

2007-12-18 | まち歩き

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3時限目はこちら

 さて、Iは3月31日までの発令だから、あと三ヶ月でお別れだ。採用試験は残念な結果になったので、来年も彼の出演は続くだろうし、内容的には「なんか、二年前ぐらいがピークだけよの」という荒生由子の暴力的発言もあったから下降気味で、そのゆるさに拍車がかかっているとはいえ、ハーバーラジオ随一といっていい人気番組(ホームページ上でもそう表現されている)なので、番組改編の波も乗り切れることであろう。庄内弁講座はとりあえず安泰だ。

 ただ、問題なしとはいえ、公立の小学校の常勤講師が民間企業の番組に出演していることに難癖をつけてくる輩がいないともかぎらない。

「オレ、メルマガ出してるんだけど、その読者に庄内弁講座のこと知らせてもいい?」

「いいっすよ。」

「ほんとに?」

「“知ってる人は知っている”ってスタンスは変えないつもりですから」

読者諸兄は“知ってる人”になったわけなので、ま、くれぐれも秘かな愉しみってやつにしておいてください。職場のみんなに言ったりしないように。
 だいたいあの面白さは、万人向けとはとても思えないんで(笑)。

……2007年現在、荒生嬢は結婚し、佐藤氏は退社。必然的に「“佐藤の”庄内弁講座」は終了。もちろんI講師の声をハーバーラジオで聴くこともなくなってしまった。

さみしい。

補講1時限目につづく。

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庄内弁講座 3時限目

2007-12-18 | まち歩き

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2時限目はこちら

「(ラジオ番組に出ていることを)まずいんじゃないか?っていう人はいなかったの?」

「んーでも結局ボランティアでやってるわけじゃないですか。完全に無報酬だし。」そりゃそうだ。

「週5日制になる前からやってたろう?あの頃は収録だったのかな?」

「そうです。金曜の夜7時とか。三人の都合のいい時間見つけて。で、それでもダメなら欠席ってことで。」

 確かにそのあたりは徹底的にアバウトな番組だった。

「でも最初の頃はたいへんだったんですよ。佐藤も荒生も録音に慣れてなくて、30分番組録るのに4時間ぐらいかけたこともありましたから。」

「ふーん。で、毎週ネタは誰が考えてくるの?」

「そりゃ佐藤ですよ。オレはあいつの番組を“手伝ってる”んですから。」

 そのユルユルの番組内容とは、変遷はあったものの、現在は毎回庄内弁の単語をいくつかとりあげて、その用法とかをたいしたポリシーもなく(笑)ダラダラと三人がしゃべくり合う、それだけ。

「それにしてもつくりがゆるいにも程ってものがないか、あの番組」

「でしょ(笑)」

「まあカチカチにしっかりした番組だったら、あの味は出ないだろうけどなあ」

そう。最後にはいつもただの世間話に堕してしまう志の低さこそこの番組の取り柄というものだ。この緩さは確かに癖になる。

88745188   Tokyo FMに「アヴァンティ」という“東京一の世間話”をうたう番組があるのをご存じだろうか。ちょっと前までジェイクさんというバーテンが出てたやつ(今はスターン)。

不思議にみんな聴いたことがある番組だが、あちらが東京一のとんがった内容なら、こちらは庄内ローカルのどこにでも転がっている話がスピーカーから流れているだけ、とはちょっと極言にすぎるかな。でも、その面白さはほとんどタメと言っていい。

 おまけに、もっともプロらしい突っ込みをみせるのがIで、社員たちの方がよほど素人っぽいという珍しいパターン(笑)。

 特に荒生由子という存在はほとんど凶器に近い。先日も

「ミミズ、って漢字あんなんよの」(ミミズ、って漢字あるんだよね)

「みみず?」

「あ、あたしおべっだ!」(あ、あたし知ってる!)荒生爆弾がそろそろ爆発する。

「ほお!」男性二人驚く。こんなに教養ゆたかな女性だったのか。いつもニュースをとちってばかりなのに。

「ほら、なっがさ耳っていう字入ったな」(ほら、なかに耳っていう字が入ってるでしょ)

「?」

「……耳ぃ?」

「よぐ釣具屋さんどがの前さのぼり立てっじゃん」(よく釣具屋さんとかの前に幟が立ってるでしょ?)

「のぼり?」

「『ミミズあります』って」

「……荒生、それミミズでねーぞ。『餌(エサ)あります』だろっ!」

ゆるい番組でなければ存在し得ないバカバカしさ。わたしはわざわざ車庫の車の中で聴いていたのだが、ハンドルを叩き、涙を流して笑っていたのだった。

4時限目につづく。

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庄内弁講座 2時限目

2007-12-18 | まち歩き

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1時限目はこちら

そうだったのだ。まわりの連中はハーバーラジオをめったに聴かないので(中年女性たちはラジオ自体縁がなさそうだ)、気づいているのはわたしと用務員だけなのだが、翌週からチェックすると、なるほどその特徴のある声はIのものだった。だいたい毎週ちゃんとフルネーム名のってるって(笑)。

 でもこれ、本人にどう確かめよう。自分から番宣をする様子もないので、ひょっとしたら知られたくないのかもしれないし……
 その機会は、意外に早くやってきた。

 日曜の朝、PTAの奉仕作業で畑起こしをやる行事があり、保護者たちから、もうちょっと一輪車があると便利だなあ、と相談を受ける。

用務員に「余った『ねご』ある?」ときく。
「ねご?」いぶかしく思う保護者もいる。方言、というより工事現場の隠語だからな。そばにIがいたので
「Iくん、ねご、ってわがる?」
「あ、わかりますよー、一輪車でしょ?」
「庄内弁がもしんねし、ラジオでとりあげてみろよ」と言い放つ。どんなリアクションを見せるかと思ったら、Iはニヤッと笑って見せたのだった。

 あとは前から疑問に思っていたことを機会あるごとにぶつけている。

「なんであの番組に出ることになったの?」

「佐藤(智也)と中学高校大学っていっしょなんですよ。で、あいつが田舎帰ってきてハーバーラジオに勤めることになったとき、手伝ってくれっていわれて。」

「やっぱり出てることはみんなに秘密なの?」

「いや、わかる人だけわかってればいい、ってスタンスで。だからほら、佐藤にもオレのプライバシーは絶対にしゃべらせませんから。」

「でも、生徒はともかく親たちにはバレバレだろう?今まで言われたことはなかったのか?」

「たまにいますよ。聴いっだぞ、って人。」
やっぱりなあ。

以下次号

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庄内弁講座 1時限目

2007-12-18 | まち歩き

Weekly4 今回は地元コミュニティFMネタ。2002年当時だから現在とは思いきり様相はかわっているけれど。

 実はうちの職場には、きわめてローカルではあるものの、ラジオスターがいる。

 1998年10月10日、酒田にコミュニティFMが開局し、ハーバーラジオと名のった。周波数76.1メガヘルツ。当初は酒田の旧市内あたりが聞こえるエリアだったが、今は鶴岡の方まで電波が届いているらしい。コミュニティFM自体は非常に安価に立ち上げられることと、広告効果がばかにできないこともあって、各地にボコボコ開局しているころだった。山形にも2局目が開局している。

 おかげで酒田のFMは、NHKとFM山形(BOY)の二波独占状態からやっと脱却し、気がつけばコアなファンがつくまでになっている。社員としてのメインパーソナリティはわずか3人。佐藤智也、荒生由子、佐藤和香子。彼らがフル回転してほとんどの番組をうめている。

 そんななか、開局当時から放送されている人気番組が、土曜朝10時からの「庄内弁講座」。文教大出身の佐藤智也がメインとなり、荒生由子ともう一人の出演者とともに、ひたすら庄内弁でくっちゃべるという内容。

 そう、この“もうひとりの出演者”が、ウチの講師Iなのである。

Map3  時間が合ったときなどに車やトラクター(笑)で聴いていたのだが、このIなる人物(当時は名前すら認識していなかった)が学校につとめているらしいことはチラチラ語られていた。でも公務員が民放(ていうほどでもないが)にレギュラー出演しているとは思えないし、私立高あたりの先生なのかな、と考えていた。やけに旅行に出ていたりするので、よほど時間が自由になる商売なんだな、と不思議に感じてもいたのだ。

 で、この4月、海外派遣者の補充の形でこのIはやってきた。29歳、ツンツン頭。当時はまぬけなことにラジオに出ていることなんて全然きづかなかったのだが、ある朝用務員が息せき切ってかけてきて、わたしをタバコ部屋に拉致していく。
「のう、おべっだ?I先生のごど」(知ってる?I先生のこと)
「?」
「土曜日、ハーバーラジオ聴いっだ?『庄内弁講座』」
「うん、たまに。」
「あれさでっだな、I先生だろ?」(あれに出てるの、I先生だろ?)
「…………ななな何ぃいいいい?」

以下次号

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PEACE BED

2007-12-18 | 洋画

1158289101_big  かつて「写楽(しゃがく)」という雑誌が小学館から出ていたのをおぼえている人もいると思う。篠山紀信が主戦場にしていた写真月刊誌。篠山の激写シリーズ人気の影響で創刊され、有名人のヌードや、環境問題などの硬派の特集が売りだった。「写楽ブック」として「日本国憲法」の全文を写真入りで単行本化し、ベストセラーにしたことでも有名。現在の小学館が、週刊ポストやSAPIOなどでゴリゴリ反動路線を突っ走っていることを考えると隔世の感がある。

その写楽の投稿欄に、こんな投書が載った。
「軽井沢を散策していたときのことです。向こうから痩せた白人男性と、日本人の女性と子どもの三人連れが歩いてきました。よく見るとその男性はジョン・レノン!ということは女性はヨーコ・オノ?こどもはショーン?」

05928_132254_john_lennon  70年代末、ショーンの誕生以降レノンがしばらくハウスハズバンドをしていた時代のことだろう。財閥の末裔であるヨーコに、軽井沢はよく似合ったに違いない。

映画「PEACE BED」の原題は「THE U.S. VS. JOHN LENNON」。日本では“愛と平和の人”と感傷的に語られがちなレノンは、同時に“狂気のロックンローラー”であり、加えてきわめて政治的な存在でもあった。その、政治的側面を中心に描いたドキュメンタリー。チョムスキーやゴア・ヴィダルといったリベラルな論客の証言以外に、ニクソン政権当時に体制側にいたFBI捜査官の発言もあって興味深い。

「よく切れるナイフがあったとしても、テーブルの上に置いてあるだけなら危険じゃない。でも誰かが手に持った瞬間に危険な存在になる。」

“キリストよりも有名”になったビートルズのフロントマンが、反体制グループにあやつられることを危惧し、政府はレノンをイギリスへ追いかえそうと画策する。60年代の政治的熱狂がさめ、ニクソンは再選され、フーヴァーがFBIを牛耳っていた保守の時代に、レノンはヨーコというバックボーンをえて抗い続ける。

Double_fantasy  山形フォーラムの観客は、いかにもな若者たちの他に、ビートルズファンだったのであろう熟年の夫婦も連れだって来ていた。老いも若きも、わたしたちは1980年の悲劇を知っているだけに、せつない思いで画面を見つめ続ける。

そして、銃声が聞こえる。

 長い休養をへて、活動を再開したレノンの、結果として遺作となったアルバム「ダブル・ファンタジー」のジャケット写真は、レノンとヨーコの静かなキスを撮ったものだ。撮影者は、篠山紀信である。

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