陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

リリアン・ヘルマンについて その4.

2005-12-25 20:29:47 | 
ならずものの時代 (前編)


 わたしには昔から変わったところがあり、当時も今も、わたしを罰したあの時代の指導者たちに反感を持てない。マッカーシーとマッカラン両上院議員、ニクソン、ウォルター、ウッド各下院議員は、みながみな、ああいう人たちであった。必要とあればでっちあげをし、必要でないときにまで悪意を示した人たち。かれらが口では何と言っていたところで、本気だったとは思えない。アメリカは新しい波を迎え入れる機が熟していた。かれらはその波に乗り、人であれ物であれ自分に都合の良い武器にして、政治家としてのチャンスをつかんだまでなのだ。…略…

 だが、こういう人たちはわたしには興味がない。下院非米活動調査委員会に出頭したあのいやな朝でさえ、とくに心を乱されはしなかったし、その気持は今も変わらない。かれらはかれらであり、わたしとは血のつながりもなく、バックグラウンドも無関係な人たちだ。(悪人と言うことなら、わたしの家系には別種のもっと興味深い悪人がたくさんいる。)

 まえにも書いたように、わたしのばあい、ショックと怒りは、わたしと同じ世代の人だと信じていた人たちにたいして向けられた。たいていは名前でしか知らない人たちだ。わたしは1940年代末まで、教養のある知識人というものは信念に従って生きていると思っていた。信念とはつまり、思想と言論の自由、自分なりの信念を持つ権利、迫害されそうな人たちへの口約束以上の援助などである。しかし、マッカーシーとその手下が現れたとき、かれらにたいして指一本でもあげたのは、ほんの一握りの人だけだった。ほとんどすべての人たちが、直接手を下すかただ手をこまねいてみているかのちがいはあるが、マッカーシイズムに力を貸した。かれらはパレードの先頭を行くバンドワゴンには乗せてもらえなかったので、あとを追ってついて行ったのである。
リリアン・ヘルマン『眠れない時代(原題:Scoundrel Time ならずものの時代)』(小池美佐子訳 ちくま文庫)


第二次世界大戦中、アメリカ国内のファシスト支援者を監視する目的で、非米活動委員会が設立された。そもそもファシズムをさす言葉だった「全体主義」が、第二次大戦以降、共産主義を指すようになるその流れと軌を一にするかのように、この委員会も、戦後、米ソの冷戦を背景に、その矛先を共産主義者とその運動に向けるようになる。

1947年、委員長J.パーネル・トマスは、「映画産業における共産主義の浸透」を調査する非公開の聴聞会を開いて、多数の俳優や脚本家、監督を喚問した。

「『大部分の映画労働者は愛国的で忠実なアメリカ人だと確信するが』と始められた証人喚問は、最初の証人ジャック・L・ワーナーの証言とともに、共産主義者を告発し排除する魔女裁判の様相を呈する。」(蓮實重彦『ハリウッド映画史講義 ―翳りの歴史のために』筑摩書房)

証人として出頭する人々に対しては、映画人の内部で広範な支援と擁護の組織が作られ、合衆国憲法「第一修正条項」に基づいて、個人の政治的信条にたいして、国の介入は倫理的に許されない、という「第一修正条項委員会」が発足し、五百人の署名も集まった。共産党員であるか否かの証言を迫られ、憲法上の権利をもとに、証言を拒否して、脚本家、監督、俳優ら十人が投獄される(いわゆる「ハリウッド・テン」)。

そののち、第二次聴聞会が四年の時を隔てて1951年開催される。ところが、この四年の間に情勢は大きく変わっていた。


 ウィスコンシン州選出米上院議員、故ジョゼフ・R・マッカーシーは多くの点でアメリカが生んだもっとも天分豊かなデマゴーグだった。われわれの間をこれ程大胆な扇動家が動きまわったことはかつてなかった――、またアメリカ人の心の深部にかれくらい的確、敏速に入りこむ道を心得ている政治家はなかった。
(R.H.ローピア『マッカーシズム』宮地健次郎訳 岩波文庫)

1950年2月9日、ひとりの上院議員が、国務省内に共産党員が大勢はいりこみスパイ網をつくっている、と爆弾発言をおこなった。ただちに調査のための上院委員会が設けられる。発言は信憑性に乏しく、具体的にその名前をあげることもできなかったけれど、その発言は注目を集め、彼は急速に脚光を浴びることになる。

ワシントン・ポストの漫画家が、さっそく「マッカーシズム」という言葉を作った。最初は悪口だったこの言葉が、やがてアメリカ全土を席巻するようになる。

「農民、労働者、経済人にとって真の問題は唯一つ――政府の中の共産主義の問題である」と、1950年代初頭にあって、ソ連や中国の脅威よりも、「国内の陰謀との闘争」を訴えたマッカーシーには、思想もなければ組織も持っていなかった。にもかかわらず、トルーマンとアイゼンハワーのふたりの大統領を「捕虜にし」(『マッカーシズム』)、とりわけアイゼンハワーの勝利には、大きな役割を果たした。1954年末には彼は政治の表舞台を去ることになるのだが、それでも同年初頭の世論調査では、国民の50%が大体においてマッカーシーについて「好感」を持ち、21%が意見なし、そうして「よくないと考える」のはわずか29%だった。同時代の人々がマッカーシーを極度に怖れたのは、そうした背景があったのだ。

マッカーシーの登場を追い風に、非米活動委員会は「非アメリカ的」「アメリカに非友好的」として、さまざまな団体の運動に介入し、あるいは大学教員や知識人に対して「共産主義者」のレッテルをはって社会から追放した。この委員会は、マッカーシーが失脚した55年以降も存続し、69年に国内治安委員会と改称されたのち、廃止されるのは75年を待たなければならない。

(この項つづく)