陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

リリアン・ヘルマンについて 最終回

2005-12-28 23:03:19 | 
ダッシュとリリー

大学三年の時、とあるパーティで出版社の副社長と知り合ったヘルマンは、そのまま編集者としてリブライト社で働くようになる。そこでは自身の弁によると、ほとんどまともに仕事もできず、1920年代のフラッパーらしい、パーティに明け暮れる生活だったようだ。やがて若い作家/劇作家のアーサー・コーバーと知り合い、結婚、彼がハリウッドに招聘されたのを機に、ヘルマンもハリウッドに移る。そこで台本の下読みなどをしていたヘルマンは、ハメットに会う。ヘルマンは25歳(生年を1905とすると)、ハメットは36歳だった。
 ハメットに会ったとき……(中略)……わたしはひつようとしていたものに行き会ったのだった。彼のきまりはわたしのとはちがっていた。でも、わたしにとってもっと大事だったのはそのことではなく、ハメットの拒絶であった。どんな危険、どんな誘惑があろうとも、自分の決めたルールからそれることを拒む彼の態度である。わたしは、自分を固持する人、自分自身である人を見つけたのだった。(リリアン・ヘルマン『三』:『子供の時間』あとがきからの孫引き 小池美佐子訳 新水社)

のちにふたりはこの出会いの日をあてずっぽうに1930年11月25日、と決めることになる。そのときハメットは、生涯に書くことになる長編小説のうち四作を書き上げており、ハリウッドでもニューヨークでも、人気の的だった。貧しく無名のころをともにした妻とふたりの娘はサンフランシスコにいたけれど、思いつきで小切手を送るほかは寄りつかず、ハンサムで有名で金離れが良く酒浸りのハメットのまわりには、気楽な関係の女が大勢いた。

ヘルマンは1932年、アーサー・コーバーと「波風も立てず」(『ダシール・ハメットの生涯』による。ヘルマン自身による回想録にはいっさい離婚に関する記述はない)離婚し、ハメットとふたりで東部で暮らすようになる。ここでハメットは、探偵小説はこれで最後、と『影なき男』を完成させた。

ヘルマンはこのときをふりかえって、こう書いている。
 半分書き上がった原稿を読めと渡され、わたしがノラだと教えられたときはとてもうれしかった。自分がノラで、ニック・チャールズと結婚しているだなんて! おたがいに相手が大好きで、一緒にたのしい時を過ごすカップル。近代文学の中でも、こんな結婚をしている男と女はざらにはいない。だけどすぐにわたしはおちこんでしまった。この小説の中のバカな女やあばずれもきみのことだと、ハメットに言われたのだ。ただの冗談だったのかもしれない。が、あの頃のわたしは、そういわれてすごく不安になった。彼によく思われたかった。たいていの人が同じことを願った。(『未完の女』)

作家になることを半ばあきらめかけていたヘルマンに、もう一度だけ努力してみるよう薦め、「堅固な土台」として、スコットランドで起きた事件の裁判の記録を使うよう助言した。「もたつきながらも頑固に粘り通した一年半」ののち、ヘルマンは戯曲『子供の時間』を書き上げる。これはブロードウェイで691回連続公演という華々しいヒット作となり、ヘルマンは一躍時の人となった。
 1934年のクリスマス。ハメットの年収は八万ドルを超す巨額に達した。が、物書きとしては終わっていた。このあと、さらに二十六年の人生が残っていた。(『ダシール・ハメットの生涯』)


ヘルマンは、「わたしの書いた十二の戯曲のうち十篇がハメットと関わりがある」としている。1951年に書き上げた戯曲『秋の園』のなかのこの台詞は、どうしても書き上げられなかったヘルマンに、ハメットは部屋から出て一時間したら戻ってくるようにと言い、戻ってみるとハメットが書き上げていたというものである。
 だから、どのような時にせよ、その時は君がそれまで生きてきた集大成なんだ。それを支える小さな時の積み重ねなくして重大な時に到達することは出来ない。決断のための重大な時、人生の転換期、過去のあやまちをにわかに拭い去ろうと待ちかまえている日、今までしたこともない仕事をしたり、考えたこともないやり方を思いついたり、持ったこともないものを持ったりする――その日はいきなりやってきはしない。それを待っている間に君は自分を鍛えておいたんだ。そうでなければ君は君自身をつまらぬことに使い果たしてしまったんだ。僕がそうだったんだ、グロスマン。(『秋の園』ピーター・フィーブルマン『リリアン・ヘルマンの思い出』より孫引き)


こののちほどなくハメットは投獄され、ヘルマン自身の身辺も、きな臭くなってくる。
「リリー、角まで来たら、きみは決心しなければいけないよ。ぼくはぼくの道を行かねばならないんだから。きみは、いってみれば、ぼくにひとかたならずよくしてくれたが、現在では、ぼくはきみの悩みの種であり、重荷になっている。もし、きみがいま、ぼくにさよならをいったとしても、ぼくは責めはしない。だが、もしきみがそういわないのなら、もう、ぼくたちは二度とこの話をもちだしてはならないんだ」

 街角まで来ると、わたしは泣き出した。彼も泣きださんばかりのようすだった。わたしが口をきけないでいるので、彼はわたしの肩に触れ、それから下町のほうへ歩いていった。わたしは、彼が見えなくなるまで町角に立っていたが、しばらくして駈けだした。やっとのことで追いつくと、ハメットがいった。

「ぼくはこのところ一杯やりたいと思ったことがなかったが、ひとつやりたいね。とにかく、きみにおごろうじゃないか」(『未完の女』)

やがてハメットが愛し、ヘルマンが終の棲家と定めたはずの農場を手放さなければならない日がやってくる。ニューヨークへ戻ったふたりは、しばらく別々に暮らしていたが、ほどなくまた一緒に生活するようになる。ハメットの体調は、意地を張り通せなくなるほど悪化していたのだった。

1960年、ハメットの死がそう遠くないころに思われたヘルマンは、「二人のこれまでの付合いは、すてきだったと思わない?」と聞いてみる。「すてきという表現は、ちょっと大げさすぎるな。たいていの連中よりはましだった、という程度で満足していいのじゃないか」と答えたのだった。

『未完の女』をハメットの回想で締めくくるヘルマンは、書いている「現在」の心境をこのように記している。
これを書いている現在でも、わたしはいまだに、なにごとも自分の思いどおりにしなければ気のすまなかった彼のことが、腹立たしくもあり、また愉快に思ったりもする。つい二、三分前にも、わたしはタイプライターの前から立ちあがり、まるであのひとと相対しているような調子で、そういう強情さをののしったばかりである。いまでもわたしは、十八歳のころと同様、ロマンチックな恋愛がどういうものであるかほとんど知らないが、持続する関心のもたらす深いよろこびや、相手がなにを考え、どういう行動をとるかを知りたいという、胸のときめき、実際にやったり、計画しただけでやらなかった悪戯のかずかず、短い紐が歳月とともにつながって一本のロープとなり、わたしの場合には、彼の死後ずっとそれが中途はんぱでぶらんと垂れたままになっている悲しみ、そういうものは味わったつもりでいる。ハメットがこの回想録のほかの部分を読んだら、どんな気持を抱くだろうか、はっきりとはわからないが、いまになってもわたしが腹を立てていると知ったら、あのひとのことだから、きっと愉快がるだろうことは、これはわたしにも断言できる。(『未完の女』)

ヘルマンのすごいところは、ハメットの死後、回想録を書いて人生の「残りのとき」を過ごしたわけではない、というところだ。二年後、二十五歳年下ののピーター・フィーブルマンと、自身の生涯が終わるまで、ともに暮らしている。三冊の回想録を書き上げたあとも、中編小説(これは自身を思わせる語り手が登場するが、フィクションである)を発表、さらにフィーブルマンと共著で『一緒に食事をー回想とレシピと』(小池美佐子訳 影書房)を出す。エッセイの間にレシピが入るもので、晩年までおいしい物が好きで、生きることにどん欲で、「おもしろい」人間でありたがったヘルマンの姿が浮かび上がる。

ヘルマンは『未完の女』をこの言葉で締めくくっている。
 けれどもわたしは、現在よりも過去を大切に思うほど、年をとってしまったわけではない。感じる必要がない苦しみや、過去にしでかした、そうしてこれからも、しでかすにちがいないわたしの愚かしさを考えると、しばらくのあいだ悲しくなってしまう夜があることも確かだけれど。〈真実〉や〈意味〉を見いだそうとして、人生のきわめて多くの時間を費やしてしまったことには後悔している。〈真実〉とはどういうものか、結局はわからなかったし、〈意味〉も見つけることはできなかった。つまり、わたしはあまりにも多くの時間を無駄にしてしまったために、依然として、あまりにも未完成なままであるのだ。だがしかし……。(この箇所私訳)


ヘルマンは〈真実〉や〈意味〉を見いだそうとして、過去を回想した。けれども、振り返っても、どこまでいっても、〈真実〉や〈意味〉は判然としない。そこでヘルマンは、未完成の自分をかみしめつつ、それでも「だがしかし」と前を向くのである。

わたしはやはり、ここに自分の声を聞くように思う。