陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

カーソン・マッカラーズ『木・岩・雲』 1.

2005-12-04 22:03:37 | 翻訳
今日からカーソン・マッカラーズの短編『木・岩・雲』の翻訳をやっていきます。

http://cstl-hhs.semo.edu/stokes/SW308/A%20Tree.%20A%20Rock.%20A%20Cloud.htmで読むことができます。

* * *



 雨の朝、まだあたりは真っ暗だった。路面電車を改造したカフェにたどりついた少年は、新聞配達もほとんどすませたところでコーヒーを飲もうと入っていったのだった。そこは終夜営業の店で、苦虫を噛みつぶしたような顔をして、吝いレオという男がやっている。

身を切るような、寒々とした通りから入ってきてみると、店のなかは心温まる光があふれていた。カウンターには兵隊がふたり、紡績工場の作業員が三人、そうして隅には背中を丸めてビア・ジョッキに鼻と顔の下半分を突っ込んでいる男が座っていた。少年は飛行機乗りのようなヘルメットをかぶっていた。カフェに入ると、あごのストラップをはずして、右の耳当てを持ち上げて、薄赤く染まった小さな耳を出した。ふだんなら少年がコーヒーを飲んでいると、だれか親しげに話しかけてくる。だが、今朝はレオが少年の側に寄ってくるわけでもなく、みな無言のままだ。少年がコーヒー代を払ってカフェを出ようとしたとき、声をかけられた。

「おい、ちょっとそこの」

 少年が振り返ると、隅の男がうなずきながら手招きしている。ジョッキから顔を上げ、急に晴ればれとした顔になった。長い顔は青白く、大きな鼻をして、褪せたような赤毛をしている。

「坊やのことだよ」

 少年は男のほうへ歩いていった。12歳ぐらいの小柄な少年で、新聞の束の重みで、一方の肩がかしいでいる。

 おうとつの少ない、そばかすの散った顔で、丸い子供らしい目をしている。

「何か用ですか?」

 男は片方の手を少年の少年の両肩に回すと、あごをつまんで顔をそっと左右に揺すった。少年は決まり悪げに後ずさった。

「よせよ、なんだっていうんだ」

 うわずった少年の声が響き、カフェは急にしんとなった。

 おもむろに男がいった。「おまえを愛しているよ」

 カウンターの男たちがいっせいに笑った。しかめっつらをしたまま後ずさる少年は、どうしていいかわからないようだ。カウンターの向こうにいるレオを見ても、疲れた顔のまま、すげない、あざけるような目で見返すばかりだ。少年もなんとか笑ってみようとしたが、男の顔は生真面目で、かなしそうだった。

「からかうつもりじゃなかったんだよ」と男は言った。「ここへ座って、ビールでも飲もうじゃないか。話さなくちゃいけないことがあるんだ」

 横目使いでおそるおそる、新聞配達の少年は、カウンターの人々にどうしたらよいか尋ねるようなまなざしを向けた。だが、ふたたび自分のビールや朝食に意識を戻した男たちは、だれに少年の視線には気がつかなかった。レオはコーヒーをついだカップに小さなクリームの容器を添えて、カウンターに差し出した。

「こいつは未成年だ」とレオが言う。

 新聞配達の少年は、自分の体を持ち上げるようにしてストゥールに腰掛けた。ヘルメットの耳当ての下の耳は、ひどく小さくて真っ赤になっていた。男は酔いのさめた顔でうなずいてみせた。

「たいせつなことだ」そう言うと、後ろのポケットに手を伸ばして何かを取り出し、すっぽりと手のなかに納めたまま、少年の前に差し出した。「気をつけてよく見ておくれ」

 少年は目を凝らしたが、気をつけて見なければならないようなものは見当たらない。大きな汚れた手のなかにあるのは、一枚の写真だった。女の顔だが、ひどくぼやけていて、はっきりとしているのは身につけている帽子とワンピースだけだった。

「見えるね?」男は聞いた。

 少年がうなずくと、男はもう一枚の写真を、手のひらにのせた。その女が水着姿で海辺に立っている。水着のせいで、腹部が変に膨れあがって見え、そこだけが目立っているのだった。

「よく見たね?」男は顔をよせ、やがて聞いた。「この女を見たことはないかね?」

 少年は身じろぎもせず腰掛けたまま、男の方をはすに見た。「ぼくが知ってる人じゃないと思うけど」

「結構」男は写真にふっと息をふきかけ、またポケットにしまった。「これはわたしの妻なんだ」

「死んじゃったの?」少年は尋ねた。

 男はのろのろと首を振った。口笛でも吹くように、くちびるをすぼめると、「いいぃぃや」と引っ張って答えた。「これからその話をしよう」

(この項つづく)