路面電車の窓が明るくなって、青に染まっていた。ふたりの兵士はビールの代金を払ってからドアを開けた――外に出る前に、ひとりは髪を梳かしてゲートルについた泥をぬぐった。三人の紡績工は、黙々と食事を続けている。壁の時計が時を刻んだ。
「こういうことなんだ。よく聞いてくれよ。わたしは愛について、ひたすらに考え、結論を出したのだ。わたしたちがどこで間違えるのかがよくわかった。男というものが、生まれて初めて愛してしまう、そうなったときの相手は誰だ?」
少年は柔らかい唇をなかば開けたまま、返事もしなかった。
「女だ」年老いた男は言った。「科学の存在もなく、頼るべきものもなく、男はこの世でもっとも危険であり、神聖なものでもある経験をその身に引き受けようとする。男は女に心を奪われる。そうではないかな?」
「間違ったところから始めてしまうのだ。クライマックスから始めてしまうようなものだ。どうしてそのように惨めなことになってしまうのだろうか。ならば、男はどのように愛したらよいのだろう?」
老人は手を伸ばして少年の革の上着の襟をつかんだ。そうして少年をそっと揺さぶり、真剣な緑の目は瞬きもせずにじっと見つめた。
「君はどう思う? 愛することはどこから始めたらいい?」
少年はおとなしく座ったまま、じっと耳を傾けていた。ゆっくりとその頭を横にふる。老人は身を寄せてささやいた。
「木。岩。雲」
通りはまだ雨が降っていた。穏やかでグレーの、いつ止むとも知れぬ雨だった。紡績工場から、交替告げる六時のサイレンが鳴り、三人の紡績工は金を払って行ってしまった。カフェに残ったのは三人、レオと、老人と、新聞配達の少年だけだった。
「ポートランドの天気もこんなふうだった」と男は言った。「そのときわたしの科学が始まったのだ。考えに考えて、慎重に進めていった。外で何かをつかまえて、それを家へ持って帰るのだ。金魚をいっぴき買ってきて、そいつに意識を集中し、愛してやった。ひとつ卒業すると、つぎのもの。一日ごとにわたしはこの術を身につけたんだ。ポートランドからサンディエゴに行く途中……」
「いいかげんにしろ!」レオが怒鳴った。「黙れよ、やめるんだ!」
老人はまだ少年の襟元を握りしめていた。小刻みに震えながら、その顔は、真剣で、晴ればれとし、同時に猛々しくもあった。「六年というもの、わたしはひとりっきりであちこち行って、この科学を構築していったのだ。いまではわたしも達人となった。もうなんでも愛することができるのだ。もはや考える必要さえない。通りにあふれかえる人々を見れば、美しい光がこの胸に差し込んでくる。空の鳥を見る。道を急ぐ旅行者に会う。あらゆるもの。あらゆる人。あらゆる見知らぬ人々。そのすべてをわたしは愛している。わたしのような科学がどういうものなのか、君にもわかるかね?」
少年は身を強ばらせ、両手できつくカウンターの縁をつかんでいた。やがてこう尋ねた。「やっぱり、その女の人に会えたんですか?」
「え? 何だって?」
「つまり……」少年はおずおずと聞き直した。「また女の人を好きになったんですか?」
老人は少年の襟元を握りしめていた手を離した。顔を背けると、緑の目には初めてあやふやで散漫な色が浮かんだ。カウンターのマグを持ち上げ、黄色いビールを飲み下す。頭がふらふらと揺れていた。そうしてしばらくのちに返事をした。「いいや。そのことはわたしの科学の最終段階なんだ。わたしは慎重に進んでいる。だからまだそこまでいっていないのだ」
「ほほう」レオが言った。「それはそれは」
老人は立ち上がると扉を開けた。「忘れるんじゃないぞ」早朝の雨に煙る灰色の光を背に、扉口に立った老人の姿は縮んだようで、みすぼらしく弱々しかった。だが、その笑顔は晴れやかだった。「忘れるんじゃない。おまえを愛しているよ」そう言って、もういちどだけうなずいた。そうして、後ろ手にドアを静かに閉じた。
少年は長いあいだ何も言わないでいた。額にかかる前髪を引っ張ると、汚れた小さな人差し指を、からっぽのカップの縁に沿わせる。やがてレオのほうを見ないまま、尋ねた。
「あの人、酔っぱらってたの?」
「ちがう」レオは言葉少なに答えた。
少年の澄んだ声が高くなった。「じゃ、ヤク中か何か?」
「それもちがう」
少年は顔を上げてレオを見た。平たい小さな顔には思いつめた色を浮かべ、声はいっそう熱を帯び、高くなる。「頭が変なの? 狂ってたと思う?」その声は、急に迷ったかのように低くなった。「レオ? そうじゃないの?」
だが、レオは何も答えようとはしなかった。終夜営業のカフェを経営して十四年になるが、常軌を逸した振る舞いに関しては、一家言持っていた。街のさまざまな連中や、一晩だけふらりと迷い込んでくる流れ者も来る。そうしたあらゆる人間が持つきちがいじみたところをよく知っていた。けれども、自分の言葉を待っているこの子供の疑問に応えてやるつもりはなかった。青い顔を強ばらせて、じっと黙っていた。
少年はヘルメットの右のフラップを引っ張り下ろし、店を出がけに振り向くと、自分が言っても差し支えなさそうなただひとつの意見、笑われたり馬鹿にされたりすることのなさそうな、唯一の意見を言ってみたのだった。
「あの人、きっといろんなところへいっぱい行ったんだろうね」
-----今日のサスペンス------
近所のスーパーでは、買い物をすると、五百円ごとにレジでスタンプを押してくれる。最近の多くの店で見受けられるような、磁気カードに記録していくような結構なものではなく、その昔、ラジオ体操の出席カードに押してもらった(出)の判子のように、レジの人が判子を押してくれるのだ(出、ではないけれど)。
だが、この判子、結構微妙なのである。
864円、買い物をしたとする。これはまず、だれでも判子はひとつだけだ。
2985円、買い物をしたとする。これは非常に多くのケースで6個、判子がもらえる。
ならば1486円はどうか。この額のあたりというのは人によってばらつきがある領域なのだ。三個押してくれる人もあれば、二個だけの人もいる。傾向のようなものがあって、多めに押してくれる人は、決まってポンポンポンと気前よく押してくれるし、パンクチュアルな人は、ほぼ間違いなく、ポンポン、と二個だけだ。
自分のふところが傷むわけではないんだから、多少のおまけはしてくれても良いのではないだろうか、とわたしはいつも思うのだけれど、まぁあまり勝手なことを言っても始まらない。レジに表示された953、という数字を見ながら、二個、二個、と念を送るのみである(笑)。
しわい人というのが確かにいて、そのおばさんはいかにもやる気がなさそうで、ほんとうに困ってしまうのだ。一度など、四百三十五円のおつりのところを、百円玉がないから、と、五十円玉を八枚よこしたぐらいだ(百円玉のストックがスーパーになかった、なんて考えがたいし、常時余分にレジのなかには入っているのではあるまいか。単に新しい包みを開けるのが、面倒くさかったにちがいない。以来、その人がレジにいると、そこは避けるようにしている。バーコードの読みとりも、雑にやっているので、失敗が多く、その人のところだけ、客が捌けない、というのもよく見かける光景だ。それだけ雑なのに、判子に関してだけは、やたらパンクチュアルで、五十円玉のお釣り事件の前、一度1497円買い物をして、判子が二個だけだったことがある(ここまで覚えているわたしは、単にせこいだけか?)。
ただ、この人よりもっと苦手なのが、アパートの同じ並び、数軒先に住む人なのだ。そこの家の子に、宿題の英語を一度教えてあげたことがあるし、わざとらしく避けるのもなんとなく変なので、その人がレジにいると、そこに並んだりもするのだけれど、いつも「三個押しときましたから~」といった具合に、微妙に恩を着せられてしまう。そういうのはめんどくさいなぁ、と思ってしまうのだ。こんなことなら、パンクチュアルにやってもらったほうが気がラク、というような気もする。またそのうち、宿題を見てやって、と言われるのではないか、と怖れているというところもある。
期限は一ヶ月で、このスタンプカードがいっぱいになると、少額の商品券がもらえる。ところがわたしの買い物額というのが、毎月、実に微妙なところなのだ。なんとかいっぱいにしようと、ほかの店にも寄らず、せっせとその店で買い物をするようになって、これはまさに店の思うつぼだ、と思いつつ、精算時に、微妙な額だと、ドキドキしながらレジの人の手元をみつめてしまうわたしなのだった。
「こういうことなんだ。よく聞いてくれよ。わたしは愛について、ひたすらに考え、結論を出したのだ。わたしたちがどこで間違えるのかがよくわかった。男というものが、生まれて初めて愛してしまう、そうなったときの相手は誰だ?」
少年は柔らかい唇をなかば開けたまま、返事もしなかった。
「女だ」年老いた男は言った。「科学の存在もなく、頼るべきものもなく、男はこの世でもっとも危険であり、神聖なものでもある経験をその身に引き受けようとする。男は女に心を奪われる。そうではないかな?」
「間違ったところから始めてしまうのだ。クライマックスから始めてしまうようなものだ。どうしてそのように惨めなことになってしまうのだろうか。ならば、男はどのように愛したらよいのだろう?」
老人は手を伸ばして少年の革の上着の襟をつかんだ。そうして少年をそっと揺さぶり、真剣な緑の目は瞬きもせずにじっと見つめた。
「君はどう思う? 愛することはどこから始めたらいい?」
少年はおとなしく座ったまま、じっと耳を傾けていた。ゆっくりとその頭を横にふる。老人は身を寄せてささやいた。
「木。岩。雲」
通りはまだ雨が降っていた。穏やかでグレーの、いつ止むとも知れぬ雨だった。紡績工場から、交替告げる六時のサイレンが鳴り、三人の紡績工は金を払って行ってしまった。カフェに残ったのは三人、レオと、老人と、新聞配達の少年だけだった。
「ポートランドの天気もこんなふうだった」と男は言った。「そのときわたしの科学が始まったのだ。考えに考えて、慎重に進めていった。外で何かをつかまえて、それを家へ持って帰るのだ。金魚をいっぴき買ってきて、そいつに意識を集中し、愛してやった。ひとつ卒業すると、つぎのもの。一日ごとにわたしはこの術を身につけたんだ。ポートランドからサンディエゴに行く途中……」
「いいかげんにしろ!」レオが怒鳴った。「黙れよ、やめるんだ!」
老人はまだ少年の襟元を握りしめていた。小刻みに震えながら、その顔は、真剣で、晴ればれとし、同時に猛々しくもあった。「六年というもの、わたしはひとりっきりであちこち行って、この科学を構築していったのだ。いまではわたしも達人となった。もうなんでも愛することができるのだ。もはや考える必要さえない。通りにあふれかえる人々を見れば、美しい光がこの胸に差し込んでくる。空の鳥を見る。道を急ぐ旅行者に会う。あらゆるもの。あらゆる人。あらゆる見知らぬ人々。そのすべてをわたしは愛している。わたしのような科学がどういうものなのか、君にもわかるかね?」
少年は身を強ばらせ、両手できつくカウンターの縁をつかんでいた。やがてこう尋ねた。「やっぱり、その女の人に会えたんですか?」
「え? 何だって?」
「つまり……」少年はおずおずと聞き直した。「また女の人を好きになったんですか?」
老人は少年の襟元を握りしめていた手を離した。顔を背けると、緑の目には初めてあやふやで散漫な色が浮かんだ。カウンターのマグを持ち上げ、黄色いビールを飲み下す。頭がふらふらと揺れていた。そうしてしばらくのちに返事をした。「いいや。そのことはわたしの科学の最終段階なんだ。わたしは慎重に進んでいる。だからまだそこまでいっていないのだ」
「ほほう」レオが言った。「それはそれは」
老人は立ち上がると扉を開けた。「忘れるんじゃないぞ」早朝の雨に煙る灰色の光を背に、扉口に立った老人の姿は縮んだようで、みすぼらしく弱々しかった。だが、その笑顔は晴れやかだった。「忘れるんじゃない。おまえを愛しているよ」そう言って、もういちどだけうなずいた。そうして、後ろ手にドアを静かに閉じた。
少年は長いあいだ何も言わないでいた。額にかかる前髪を引っ張ると、汚れた小さな人差し指を、からっぽのカップの縁に沿わせる。やがてレオのほうを見ないまま、尋ねた。
「あの人、酔っぱらってたの?」
「ちがう」レオは言葉少なに答えた。
少年の澄んだ声が高くなった。「じゃ、ヤク中か何か?」
「それもちがう」
少年は顔を上げてレオを見た。平たい小さな顔には思いつめた色を浮かべ、声はいっそう熱を帯び、高くなる。「頭が変なの? 狂ってたと思う?」その声は、急に迷ったかのように低くなった。「レオ? そうじゃないの?」
だが、レオは何も答えようとはしなかった。終夜営業のカフェを経営して十四年になるが、常軌を逸した振る舞いに関しては、一家言持っていた。街のさまざまな連中や、一晩だけふらりと迷い込んでくる流れ者も来る。そうしたあらゆる人間が持つきちがいじみたところをよく知っていた。けれども、自分の言葉を待っているこの子供の疑問に応えてやるつもりはなかった。青い顔を強ばらせて、じっと黙っていた。
少年はヘルメットの右のフラップを引っ張り下ろし、店を出がけに振り向くと、自分が言っても差し支えなさそうなただひとつの意見、笑われたり馬鹿にされたりすることのなさそうな、唯一の意見を言ってみたのだった。
「あの人、きっといろんなところへいっぱい行ったんだろうね」
The End
-----今日のサスペンス------
近所のスーパーでは、買い物をすると、五百円ごとにレジでスタンプを押してくれる。最近の多くの店で見受けられるような、磁気カードに記録していくような結構なものではなく、その昔、ラジオ体操の出席カードに押してもらった(出)の判子のように、レジの人が判子を押してくれるのだ(出、ではないけれど)。
だが、この判子、結構微妙なのである。
864円、買い物をしたとする。これはまず、だれでも判子はひとつだけだ。
2985円、買い物をしたとする。これは非常に多くのケースで6個、判子がもらえる。
ならば1486円はどうか。この額のあたりというのは人によってばらつきがある領域なのだ。三個押してくれる人もあれば、二個だけの人もいる。傾向のようなものがあって、多めに押してくれる人は、決まってポンポンポンと気前よく押してくれるし、パンクチュアルな人は、ほぼ間違いなく、ポンポン、と二個だけだ。
自分のふところが傷むわけではないんだから、多少のおまけはしてくれても良いのではないだろうか、とわたしはいつも思うのだけれど、まぁあまり勝手なことを言っても始まらない。レジに表示された953、という数字を見ながら、二個、二個、と念を送るのみである(笑)。
しわい人というのが確かにいて、そのおばさんはいかにもやる気がなさそうで、ほんとうに困ってしまうのだ。一度など、四百三十五円のおつりのところを、百円玉がないから、と、五十円玉を八枚よこしたぐらいだ(百円玉のストックがスーパーになかった、なんて考えがたいし、常時余分にレジのなかには入っているのではあるまいか。単に新しい包みを開けるのが、面倒くさかったにちがいない。以来、その人がレジにいると、そこは避けるようにしている。バーコードの読みとりも、雑にやっているので、失敗が多く、その人のところだけ、客が捌けない、というのもよく見かける光景だ。それだけ雑なのに、判子に関してだけは、やたらパンクチュアルで、五十円玉のお釣り事件の前、一度1497円買い物をして、判子が二個だけだったことがある(ここまで覚えているわたしは、単にせこいだけか?)。
ただ、この人よりもっと苦手なのが、アパートの同じ並び、数軒先に住む人なのだ。そこの家の子に、宿題の英語を一度教えてあげたことがあるし、わざとらしく避けるのもなんとなく変なので、その人がレジにいると、そこに並んだりもするのだけれど、いつも「三個押しときましたから~」といった具合に、微妙に恩を着せられてしまう。そういうのはめんどくさいなぁ、と思ってしまうのだ。こんなことなら、パンクチュアルにやってもらったほうが気がラク、というような気もする。またそのうち、宿題を見てやって、と言われるのではないか、と怖れているというところもある。
期限は一ヶ月で、このスタンプカードがいっぱいになると、少額の商品券がもらえる。ところがわたしの買い物額というのが、毎月、実に微妙なところなのだ。なんとかいっぱいにしようと、ほかの店にも寄らず、せっせとその店で買い物をするようになって、これはまさに店の思うつぼだ、と思いつつ、精算時に、微妙な額だと、ドキドキしながらレジの人の手元をみつめてしまうわたしなのだった。