陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

翻訳の状況と無難な文章書きである自らの考察について

2005-12-08 21:53:34 | weblog
昨日までここで続けていました"A Tree, A Rock, A Croud"の翻訳ですが、いろいろ考えてタイトルを『木・岩・雲』に変更することにしました。
そこらへんの事情も、少し書く予定にしています。
いま推敲はだいたい終わって、ノートの部分を書いているところです。明日あたりにはサイトのほうにアップできると思いますので、またそちらにも遊びに行ってみてくださいね。


-----【今日の感慨】-----

無難な文章書き

翻訳を勉強していたころのテキストが必要になって、本棚の奥底を漁っていた。すると目指すテキストも出てきたけれど、わたしが訳したものを含め、当時のクラスのメンバーの講評一覧まで一緒に出てきたのだった。十二回の連続講義を受けてから、提出した訳文をそのたびごとに評価してもらった結果である。担当者も、扱ったテキストもさまざまだった。

にも関わらず、わたしの講評ときたら。
「無難な訳」
「会話、地の文ともそつなくまとまり無難な印象」
「テクニカル・タームも無難に処理してある」
「大きな誤訳もなく無難にまとまっている」
……。
担当者が変われど、テキストが変われど、「無難」が列をなして行進しているのである。
何を訳しても「無難」なのである。

ちょっとがっくり来てしまった。
もちろん、そのときは二年目だったということもある。いまはそのころより多少はうまくなっているはずである。それにしても、それが必ずしも技術とばかりはいえない、文章そのものの持ち味であるとしたらどうなのだろう。わたしの持ち味、というのは、もしかしたら「無難」ということなのだろうか。実際、「文章のうまさで読ませる」とか、「訳が際だつ」とか、「非常に洗練された訳文」、「日本語として完成度が高い」という評価を得ている人が、必ずほかにいるのだ。

ところが見ているうちに気がついた。文学作品で「際だつ」と評価されている人が、科学エッセイでは「語彙が不適切」であったり、科学エッセイで「日本語として完成度が高い」人が、報道の翻訳では「作文している箇所が見られる」とあったり、必ずしも評価が一定していないのである。

常に無難、ということは、もしかしたら低値安定、ということなのかもしれない。オールラウンドに無難(笑)というのも、一種の能力と言えなくもないのではあるまいか。

とくに文章がうまいわけでもない。とくに英語の能力が高いわけでもない。完成度の高い日本語が書けるわけでもなく、洗練されているわけでもないわたしの訳文は、下調べと、書き手に寄り添おうとする気持ちと、おそらく「無難」なわたしの文章の持ち味によるところのものなのだったのだろうと思う。

無難、というと、どうしたって褒め言葉にはならないけれど、難が無い、ということでもあるわけで、可もなく不可もなく、ではあっても、それはそれで悪いものではないはずだ。
なんというか、際だったところがない、というのは悲しいものだけれど、それが自分の持ち味ならば仕方があるまい、とも思うのだ。

わたし自身、もしかしたら「無難」な人間なのかもしれない。
なんとなく思い当たる節がなくもないのである。