陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ ~クリスマスの思い出 その3.

2005-12-12 23:07:43 | weblog
この話したっけ クリスマスの思い出その3.

たぶんイブの晩ではなかったと思うのだけれど、とにかくクリスマスシーズンの土曜の夜だった。塾のバイトを終えたわたしは、待ち合わせた友人と一緒に、ライブハウスに行く予定だった。
予定だった、というのは、結局、行かなかったからだ。


寒い夜だったけれど、土曜の夜の人通りはにぎやかで、クリスマスも近く、雑踏全体に、どこか浮き浮きとした雰囲気が漂っていた。人混みのなかにいると、冷たい風も感じない。色とりどりのイルミネーションもまばゆく、歩道は昼間のように明るかった。

その明るい歩道が橋の間だけ、暗くなる。川から冷たい風が吹き上げてくる。自然に急ぎ足になって橋を渡りきったところで、暗い袂にうずくまるようにして、おばあさんがひとり地べたに座っていた。毛布を身体に巻き付けるようにして、水飲み人形のように機械的に頭を下げている。

その前に置いた箱のなかに、いくばくかのお金が入っているのを見るまで、そのおばあさんが物乞いをしているのだということに、わたしは気がつかなかった。

当時、九十年代の半ばで、世間がじんわりと不景気になりつつある、という感じはあったけれど、それでも不景気も、そこまでは深刻ではなかった頃だ。わたしは物乞いをする人がいる、ということを、知識として知ってはいても、現実に見たのは初めてだった。

みな、見て見ぬ振りをして行き過ぎる。おばあさんは顔を伏せたまま、過ぎていく足下に向かって、何度も何度も頭を下げている。川から吹いてくる風に、白髪があおられていた。
いったいどのくらいの間そこにすわっていたのかわからないけれど、箱のなかには千円札が二枚、あとは小銭がいくつか散らばっていた。

立ち止まった連れは、ポケットから財布を出そうとした。
「そういうことを、わたしはしたくない」
「なんでやねん。おばあさんが一晩でも、二晩でも、温かいものが食べられたら、ええやんか」
「それで、どうなるの? そんなことしたって、何の解決にもならないよ」
「別に解決しよ、て思うてるわけとちがう」
「それだと結局自分の自己満足じゃん」
「自己満足で悪いか?」
「悪い。いいことした、みたいな気持ちになるのが、我慢できない」
「別にええことした、いう気になったりはせえへん。そんな大層なこととはちがう」
「額とは関係ない。お金を渡すっていうことは、恵むってことだ。人とそういう関係になりたくない」
「オレはな、そういうことより、ああしたおばあさんが、こういうなかに座ってはることが耐えられへんねん。自分の問題として、そうやねん」

立ち止まって言い争うわたしたちの横を、何人もの人が通り過ぎた。
こんな話のコンセンサスが得られるはずもなく、友人はお金をいくばくか渡し、わたしのほうはそちらを見ないようにして、ずんずんと歩き過ぎた。

そこからもわたしたちは歩き続けたけれど、ライブを聴きに行くような気持ちの弾みも削がれ、そのあとはどうしたのだろう。おそらく延々と歩き続けて、そこからバスにも地下鉄にも乗らず、そのままそれぞれの住処に帰っていったのではなかったか。


それから十年近くが経って、いまではときどき物乞いをしている人の姿も見かけるようになった。初めて見たときほどの驚きを覚えることもなくなったし、どうしたらいいのか、それに対して自分はどういう態度を取るのか、と、問いを突きつけられたように思うこともなくなった。人間は慣れるということなのだろうか。それともわたしの感じ方がすっかり鈍くなってしまったのだろうか。

そうした人は、クリスマス・イブにも出ていくのだろうか。
周囲が華やぐその日を、どんな思いで見るのだろう。


それでも、わたしはやはりクリスマスが好きだ。クリスマスの飾り付けも好きだし、灯りも好きだ。クリスマスがなければ、冬はずいぶん淋しいものになってしまうだろう。

灯りがともったクリスマス・ツリーには、ただ華やかさだけではなく、なんというか、一種の精神性みたいなものを感じてしまう。プレゼントも、O.ヘンリーの『賢者の贈り物』にもあるように、ただ贈り物をするだけではなくて、相手を喜ばせたい、そうして、贈るという行為によって、自分も喜びたいという思いがあるからだ。
たとえそれができるのは、自分のほんの身近な人でしかなかったとしても。それはおそらく利己心からは(人によって差はあるけれど)可能な限り、遠いものではないのだろうか。


近所に庭のゴールド・クレストに飾り付けをしている家がある。
その根本でうれしそうに木を見上げて吠えている犬を、今日、見かけた。
どうやら犬もクリスマスが好きらしい。

(この項終わり)