彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

信長公忌

2023年06月02日 | イベント

6月2日は、本能寺の変の日なので京都の本能寺では信長公忌の法要が行われます。

しかし、コロナ禍の影響で令和元年以来中止になっていたのです。でも今年は信長公忌が行われましたので参加してしました。


当日限定の御朱印

と言いますか、法要の後のイベントMCを任されていました。


例年より早い梅雨入りに加えて、台風2号が梅雨前線を刺激した大雨に日本列島が襲われるなかでの法要となりましたが、本堂にはたくさんの方がお越しになられました。


13:30からは、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館の石川美咲先生によるご講演『本能寺の変と朝倉義景』

本能寺の変の時にはとっくに滅びている朝倉義景をどう繋ぐのか?

キーパーソンはやはり明智光秀であり光秀と朝倉氏の繋がり、そして義景と本能寺の縁、また幕府と義景のことも話て下さいました。

また、ご講演前にも少し話をさせていただき、彦根藩にも溝江氏などの朝倉家臣が仕えていることを教えていただきました。

30分でしたが、濃い内容でした。


14時から法要。

読経が響く中、参列者全員がご焼香をさせていただきました。

個人的な意見ですが、織田信長は雨に祝福されている人だと思っていますので大雨の法要は悪い兆しではないと感じました。


法要が終わり、僭越ながらMCとしてマイクを受け取ります。

15時からの『琵琶と墨絵のコラボライブペイント』を観るための注意事項をお話しして会場準備の時間待ち。

琵琶奏者の加藤敬徳さんの音楽は4年前にも同じ日に同じ場所で拝聴できていて空気感を作ってくれます。

墨絵師の御歌頭さんは、僕自身が10年のお付き合いがあり我が家にも原画を何枚も飾っている大好きなアーティストです。

この二人のコラボです!

琵琶の音をBGMに始まったライブペイントですが、お寺の本堂で雨の音すら雰囲気を醸し出します。






やがて、若々しく力強い信長が描きだされました。

演奏は、琵琶から尺八に移っていたのでが、演奏が終わるまで信長の絵を見つめている御歌頭さんが、本能寺の変の後に殺した主と語らう明智光秀のようにも見えて熱いものを感じました。

こうして、感動のうちにライブペイントは終了しました。



本来なら16時から次のスケジュールだったのですが、テンポ良く進んだのでステージ設営が終わり次第15分早く最後のイベントが始まりました。

吉本所属のダンスユニット『エグスプロージョン』によるライブです。



エグスプロージョンさんと言えば、踊る授業シリーズの『本能寺の変』で一世風靡しましたね。

その『本能寺の変』を、本能寺の変の日に本能寺本堂で踊られるという歴史的な時間となりました。

そして、みんなで踊れるように振付を指導して下さいました。

全員が『本能寺の変』を踊り。最後に記念撮影をして、イベントは終了しました。


やはり織田信長は雨に縁があるようで、こののち雨だからこそ動いたことがあります。

いづれその話をお伝えできれば良いのですがね。


僕としては、しがない歴史好きが本能寺の変の日に本能寺でMCができるという、大きな箔がついたことを喜んでいます。




地域通貨『彦』

2023年04月20日 | その他

今年も受け取りました、彦根市の地域通貨「彦」


エコバッグは眠っているひこにゃんです💤


井伊直虎命日法要

2022年08月26日 | 井伊家関連

今年も8月26日に井伊直虎命日法要が井伊谷龍潭寺で行われました。




直虎が亡くなった天正10年(1582)8月26日から数えると今年で440年になります。


政府からの宣言はなくてもコロナ禍ですので縮小された法要が続いていて、昨年と同じく御霊屋での法要となりました。



ご住職のお経に合わせて参列者が順番にご焼香させていただきました。



墓所に移動して再びご焼香させていただきました。



暑いなかでしたが、今年も大切な気持ちを示せたと思っています。

個人的なことですが今年も直虎命日法要に合わせて小野但馬守供養塔にも手を合わせました。





そして六年半ぶりに井伊谷城にも登ってきましたが、標高は低いけど坂道が急なので大変です。









井伊谷宮で厄割をするのも恒例になってきましたが、今回は割れるまでに三度も投げました…


もちろん、初代共保公出生の井戸も言ってますよ。





寿福院逆修塔(妙本寺) 訪問

2022年08月19日 | 史跡
寿福院逆修塔(鎌倉市大町1-15-1 妙本寺)

一幡の袖塚の後ろに一際目立つ大きな五輪塔があり、見に行くと「加賀太守宰相卿之御母公壽福院殿日榮逆修」とか「元和第十甲子六月十二日」と言った文字が読めたので写真だけ撮っておきました。


で、調べてみると、加賀太守宰相卿は、加賀藩二代藩主前田利常のことでありその母は寿福院こと千代保の方だったのです。


千代保の方は、朝倉家の家臣の出身ですが、芳春院(まつ)の侍女として前田利家に仕えて、利家のお手付きとなり側室になるのです。
日蓮宗に深く帰依していて加賀藩領に日蓮宗の寺を創建します。妙な縁から息子利常が加賀藩主になったため、芳春院に替わり人質として江戸に行きました。
その頃に、妙本寺に逆修塔(生前に建立する自らの墓)を建立したのです。

寿福院は、逆修塔建立の五年後(寛永8年3月6日)に加賀藩江戸藩邸で亡くなり遺灰は金沢に住まう時に帰依していた能登の妙成寺に納められ、この逆修塔は供養塔となりました。

源媄子之墓(妙本寺) 訪問

2022年08月14日 | 史跡

現在の説では、源頼家には四男一女の子どもがいたと言われています。

男子(一幡、公暁、栄実、禅暁)はすべて北条義時の絡む事件で非業の死を遂げました。残された一女は妙本寺の記録では媄子(よしこ)という名前で記されていますが、歴史的にはその住まいである「竹御所」と呼ばれています。


比企能員の乱の前年である建仁2年(1202)に誕生。

比企一族滅亡と父頼家の死により、北条政子に保護され15歳の時に三代将軍で叔父の源実朝の御台所・坊門信子の猶子となったのです。

この後に、栄実が泉親衡の乱に巻き込まれ、出家し栄西の弟子になるが殺害され、実朝が公暁に暗殺され、頼朝の血を受け継いだ唯一の男子となった禅暁も暗殺されてしまい、媄子は頼朝の血を残す唯一の生き残りとして御家人たちの拠り所となり、北条政子の後を明確な血筋で引き継いだのです。


実朝亡き後、本来なら京都から天皇の子を将軍(鎌倉殿)に迎える予定でしたが叶わず、鎌倉で預かっていた九条道家の子三寅を元服させて藤原頼経と名乗らせ、その正当性を維持する為に媄子が嫁いだのでした。

頼経13歳、媄子29歳だったのです。


四年後、媄子33歳で懐妊。

今でも30代の妊娠は慎重に進められますが、登場では超高齢の初産ということになり、媄子は男児を死産して自身も亡くなってしまったのです。

こうして、頼朝の血を残す者は歴史から消滅したのです(庶子はいると思います)。


媄子の母については諸説語られますが、竹御所は比企谷にあり、墓も比企一族が眠る妙本寺にあることから、母は比企能員の娘・若狭局ではないか?とも言われています。


源媄子之墓








比企一族の墓(妙本寺) 訪問

2022年08月13日 | 史跡
比企谷と呼ばれいる、比企能員屋敷跡に建立された妙本寺





ここに比企能員一族の墓があります。



源頼朝の乳母に比企尼という人物がいて、比企尼は頼朝が蛭ヶ小島に流されたあとには自らが20年に渡って援助し、長女・丹後内侍の夫である安達盛長を頼朝に従わせるなどの貢献をしました。
(丹後内侍の前夫との子が島津忠久とも言われています。また盛長との間の娘が源範頼に嫁いでいます)

この功績から、比企尼の甥を比企尼の養子にして比企氏を頼朝の重臣とします。これが比企能員です。
能員自身も頼朝に従って活躍し、頼朝の嫡男頼家の乳母夫にも選ばれたのです。
やがて、能員の娘・若狭局が頼家の側室となり長男・一幡が誕生します。

頼朝の死後、頼家補佐のための十三人の合議制が形成されますが内情は、比企能員と北条時政の権力争いだったのです。

この時点で、北条時政は頼朝の正室の父に過ぎず、比企尼をバックに控えた比企能員の方が実力者であったと考えられます。

やがて頼家が病に倒れ、その隙をついて時政が能員を暗殺しました。
『吾妻鏡』では、仏事の相談に時政の屋敷に呼ばれた能員は、平服で時政邸に入り、武装した天野遠景と仁田忠常に殺害されたとされています。
この話がどこまで本当かはわかりませんが、史実に近いならば、能員にとっては時政は自分より遥か下の存在だったと見ていたのではないでしょうか?

こうして、主を失った比企一族は北条軍に攻められ、一幡の住む小御所に籠って戦いましたが小御所に火を放って自害したのです。この時に若狭局と一幡(数え6歳)もその場で焼死したと言われています、建仁3年(1203)9月2日のことでした。
遺体は発見されず、焼け跡に残った小袖の切れ端を乳母が確認したために、墓代わりの供養塔として後に妙本寺に袖塚が作られました。




しかし『愚管抄』では若狭局と一幡は小御所から逃げていて北条義時に捕まり11月3日に刺し殺されたとも記されています。


妙本寺の御朱印





世界水泳パブリックビューイング

2022年06月26日 | イベント

東京五輪で2個の金メダルを獲得した彦根市出身の大橋悠依選手が出場する世界水泳のパブリックビューイングが彦根市役所で行われました。


市役所一階の会場



大橋選手のサイン


国体に向けたひこにゃんグッズ

市長のご挨拶



会場が午前1時半

レースが行われたのは3時すぎ

という深夜のパブリックビューイングでしたので、参加者はそれほど多くはありませんでしたが、400mリレーに出場する大橋選手を熱く応援しました。


結果は5位。

レース中は3位争いを演じる場面もありましたし、世界の5位なのですから素晴らしい結果だったと思います。


五輪の時はコロナ禍でパブリックビューイングも出来なかったのですから、世の中が少し落ち着いてきたのかもしれませんね。


『大河への道』

2022年05月26日 | その他
『大河への道』を観ました。

舞台は千葉県香取市役所。
観光誘致のために、大河ドラマを誘致しようという公務員が考えそうなノリで始まります。
その主人公が、初めて詳細な日本地図『大日本沿海輿地全図』を作成した伊能忠敬。
千葉県知事がこれに乗り、自らの任期中(残り3年)に指名した脚本家加藤に書いてもらうという条件で活動が始まったのでした。

最初は渋っていた加藤がやる気になり、調べたところ、忠敬は地図が完成する三年前に亡くなっていたことを指摘するのです。

そして、忠敬の死から三年間にどんな物語があったのか天文方高橋景保を軸とした物語が加藤から語られたのでした。


と、そんなストーリー
立川志の輔さんの落語が原作で、現代の役所と忠敬の弟子たちの物語があります。落語ですからテンポ良く笑と涙も含んだ話になっていました。

伊能忠敬を大河ドラマにしたい話なのに、生きている忠敬は出てこないというのも面白いですね。

ちなみに、忠敬が亡くなっているので大河ドラマは無理との話なのですが『炎立つ』や『いだてん』みたいに途中で主人公を変えたり、それこそこの作品の脚本をされた森下佳子さんが『おんな城主直虎』で直虎没後の井伊直政を描いたような方法ならばできるとは思いました。

水無瀬神宮 訪問

2022年05月07日 | 史跡

承久の乱で北条義時追討の院宣を出し敗れて隠岐に流された後鳥羽院が離宮としていたのが、水無瀬でした。


隠岐で生涯を終えることになった後鳥羽院は、崩御の14日前に水無瀬信成と親成親子に自らの手型を押した置文(国宝『後鳥羽天皇宸翰御手印置文』)を書き、水無瀬離宮跡で後生を弔うように願ったのです。

これを受けた水無瀬親子は藤原信実が描いた後鳥羽院の御影を祀った水無瀬御影堂を離宮跡に建立したのが水無瀬神宮の始まりとされています。



本殿は、明正天皇の内侍所を移築した物

客殿は、豊臣秀吉献納、福島正則造営




神門は、安土桃山時代の建築

茶室「燈心席」は、御水尾上皇の遺構


神宮の周囲は土塁や堀



そして、手水舎の水は大阪府下唯一の名水「離宮の水」

という、見所に恵まれた場所です。


御朱印は、自ら装飾を加える事も可能です。



また、最寄り駅であるJR島本駅前の島本町立歴史文化資料館では、後鳥羽天皇宸翰御手印置文の複製が展示されていて、手の大きさを比べることもできました。


これで、大きさを比べられます。



同館に展示されている後鳥羽院御影の複製



時代は少し変わりますが、同館に展示されていた戊辰戦争で樟葉台場から放たれた砲弾は興味深い物でした。





大阪城90年

2022年05月06日 | 史跡

昨年2021年は、大阪城天守閣復興90周年だったそうです。

北川央さん『大坂城』によれば、昭和天皇即位御大典記念事業として昭和6年(1931)11月7日に竣工され、大阪市民の寄付で賄われた建設資金150万円は半年で集まったくらいに大阪市民待望の復興になったようです。


大阪城には、豊臣秀吉の時代や徳川政権初期にも天守が建ちましたが90年も残ったのは現在の天守が初めてなので、大阪城の象徴と言っても過言ではないかもしれないです。




太平洋戦争時の空襲にも耐え抜いた建物として、10年後の百周年も楽しみですね。


90周年のファイルもありました。


中に、昔の入城券や記念の御城印もありました。

90周年とは関係ないですが、城内の豊国神社で受けることができた春限定(4月28日に受けました)の切り絵御朱印もよい記念になりました。

裏の紙の色を替えると雰囲気変わります。