彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

小和田哲男先生の講演 その2

2009年04月13日 | 講演
(続き)

以上三成を中心に話をしてきましたが、その三成と『天地人』の主人公である直江兼続の関わり。そんな直江兼続の方に話を移していきます。
 『天地人』では“愛”の兜の前立が一つの主になっていますが、その“愛”という字の由来はいろんな説があります。
 例えばよく言われるのが“愛染明王”、あるいは同じく愛という字の軍神に“愛宕勝軍地蔵”もあります。京都へ行きますと西北に京都市内では一番高い山だったと思いますが、明智光秀が愛宕百韻という連歌会を開いたあの愛宕山があります。そこで祀られているのが愛宕勝軍地蔵です。昔、学生を連れて愛宕山を登ってきましたが麓から1時間半は登り詰めで「明智光秀も苦労したんだな」と思って登りましたが、その愛宕勝軍地蔵は“愛”の字を使っています。
 つい最近学研から実戦兜の本が出まして、そこに前立にどういう物が推し立ているかが解るのですが、かなり軍神が置かれています。上杉謙信の場合には飯縄権現を置いていますし、他にも梵字で神を示している物もあります。しかも“愛”の字の下に雲が描かれています。その雲が描かれてるという事はそこには神が祀られているという事です。ですからNHKの会議の時に「この解釈どうしようか? 単なる“愛”の言葉が今使われている仁愛ではなく、愛染明王か愛宕勝軍地蔵だ」と主張はしているのですが、やはり百姓憐憫や愛民の想いもあるので「そういった物も入れたい」との事でした。入れ方はここで言ってしまうとこれから出た時に面白味が無くなるので、ここで留めておきますが、色んな解釈があるとご理解いただきたいと思います。
 
 直江兼続は上杉家の“執政”と言われています。“執権”という言葉は鎌倉時代によくご存じだと思いますが、言ってみれば同じ意味合いで執政と使っています。つまり「主君に代わって実際に政務を執る」という事です。これは単なる家老ではありません。戦国時代には領国や規模の大小によって多少違いますが、大体どこの大名でも家老クラスが20人くらいは居るのです。『武田二十四将』が代表的だと思いますが、当時の文書にも「北条家の家老20人」と出てきますし、家康の重臣も『徳川十六神将』『徳川二十将』という言い方をするように、大体どこの戦国大名でも家老は20人くら居ますが、その中のトップが直江兼続なのです。
 『天地人』を最初から見ておられる方は分かると思いますが、景勝が子どもの時に5歳であった樋口与六が近習として仕え始め、その二人の絆がそのまま成長してトップとナンバー2の図式が成り立つ訳です。この二人のコンビはある意味では上杉家を守り抜く、戦国大名から近世大名へ生き抜いていく大きなきっかけになると思います。
 
実際に直江兼続はどういう仕事をしていたのか?という事ですが、面白い資料が新潟県史の資料編に載っています。
古いタイプの呪術者という言い方をしますが、占い呪いに関係する占筮術、平安時代で言う陰陽師・安倍清明のような人と景勝の仲立ちをする、つまり占いによって軍をどうするか?を決めるようなやり取りをお坊さんと行った文書が残っています。そう言った意味でいきますと直江兼続は半分は古いタイプの呪術者的な事をやっていたのも伺えます。
それからドラマでも1話2話辺りで出ていました、坂戸城下(南魚沼市)の雲洞庵という禅寺で修行をしています。この禅の教えは戦国武将たちに受け入れられて行ったという側面があります。これは『戦国武将を育てた禅僧たち』という本を書きましたが、私の場合静岡生まれで、親戚の人に臨済宗のお寺の雪斎というお坊さんの話をよく聞かされていました。その雪斎に松平竹千代(後の徳川家康)が軍学を習ったという話をよく聞いていました。今川義元も雪斎が育てています。余談ですが小説家の宮城谷昌光さんと対談する機会があり「軍師として一番優れていたのは誰でしょうね?」という話になった時に奇しくも雪斎で一致しました。
そういう禅僧たちが自ら軍師を買って出る側面もありますし、禅僧が武将を育てるという事で直江兼続の場合には禅と切っても切れない縁にあります。幼い頃に習ったのは曹洞宗ですが、天正16年に上洛して妙心寺で南化玄興という当時の有名なお坊さんに教えを請います。
南化玄興は妙心寺の住職でありますし、一番有名な例では織田信長から依頼を受けて『安土山記』という安土城を讃えた文章を書いた人でもあります。信長は最初に天竜寺の住職だった策彦周良に依頼したのですが、策彦周良は「自分は高齢であるので」と弟子にあたる南化玄興を推薦したという有名なお坊さんなのです。
兼続は南化玄興に師事して、その時に『古文真宝集』という本を借りて書写し、これを返却しますが、その態度に感動した南化玄興が自分の持っていた蔵書の中の何冊かをプレゼントします、そこには『史記』『漢書』『後漢書』などを貰って米沢に戻ります。現在その3つは国宝になっています。中国でも宋代の3つは上海大学かどこかにあるだけの貴重な物です。
そういうのを見ると、如何に戦国時代に学問に触れた武将だったかがわかります。そんな中で世間を見る目が鍛えられていったのですが、世の中の豊臣大名が家康に靡いていく状況が禅の教えからしても納得いかない想いがあったのではないか?それが結果的に『直江状』に反映されて行ったのだと思います。
関ヶ原の戦いは、家康が会津討伐。これは五大老のひとりである上杉景勝が謀反を起こそうとしたのとはちょっと違うと思います、慶長3年(1598)に越後95万石から会津120万石に景勝が移ります。その理由は蒲生氏郷が亡くなった後に、北から徳川家康を監視し伊達政宗や最上義光という大きな大名を把握するという豊臣政権の東北出張所ともいえる重要拠点であった会津に上杉景勝を秀吉が入れました。
移ったのは慶長3年の1月ですが、8月に秀吉が亡くなります。ですから移ったばっかりで城や道路を直したり、武器を揃えたりしていたことが家康にすれば「自分に対する牽制だ」と分かっていて面白くないという事で、いろいろと難癖を付けて攻めて行ったという事になります。
それと同時に、この時の動きとして越後には堀秀政が入るのですが、慶長3年の年貢を上杉が半分持って行って、堀秀政が訴えた事も会津討伐の理由付けになっています。この時家康は秀頼にどのように言ったかは分かりませんが「五大老の一人として相応しくないから懲らしめに行かなければ」という事で秀頼から米と軍資金を貰い家康個人の軍ではなく“豊臣軍”として出掛けて行ったのです。ですから当然豊臣大名がたくさん入って来るので、豊臣政権の一環として五大老の一人として上杉景勝を討つというのが、当時の家康の名目になります。
そこでいろいろと非難をする訳です。そんな家康の非難(詰問)に対して明快な回答を出したのが『直江状』になります。この直江状は10年くらい前までは偽文書で後世に作られた物だと言われてきました。私も文章を読んだ限りではあまりにも過激だし、言葉使いも当時と違うんじゃないかな?と思っていましたが、最近「直江状に関しては当時の文書としていいんじゃないか」という意見で落ち着いてきたように思います。
その突破口を開いたのは吉川弘文館の戦争の日本史の中の『関ヶ原合戦と大坂の陣』という本の中で笠谷和比古さんが詳しく書かれています。結論だけ言いますと直江状の原本はありませんが当時の物としていいと思います。追手書きの部分は後の人が手を加えたかもしれませんが、文章その物は直江兼続が書いた物として良いだろうと思います。
その文章には明らかに家康に対する真っ向からの挑戦が漲っています、そういった意味では“義”を貫く直江兼続らしい文章がそこにはあったのだと思います。
よく質問を受けますが、兼続と三成の関ヶ原を前にしての密約があったのかどうか?ですが、これはちょっと分かりませんが、状況としては事前の連絡は無かったと私は思います。東西呼応してとよく言いますが、結果的に呼応する形になったのではないか?と思いますがこれはもう少し研究してみなければならないと思います。

その関ヶ原の後、会津120万石から米沢30万石に減らされます。その時の直江兼続の差配が、私はやはり直江兼続の真骨頂、素晴らしいところではないか?と思っております。
これはどういう事はと言いますと、所領は1/4になるのでそこで家臣の数を減らす筈です、所謂リストラです。しかしそれをしない関ヶ原合戦の西軍に付いた大名たちは、改易された場合には所領没収なので家臣は路頭に迷う訳ですが、今度は東軍側が加増されますのでそういう人たちはかなりが登用されて行きます。つまりは再就職が可能だったのです。
ですから兼続も家臣たちに「伝手があって仕える武将があるなら行っていいよ、行く当てが無い者は米沢に付いて来なさい」と自らは首を切っていないのです。これは戦国武将として凄い事だと私は思います。
もちろん石高は1/3なり1/4に減ります、その減った家臣をどうするか?といった時に、」例えば城下町の外れに下層家臣を配置して、その家臣の屋敷続きの畑を開放する、つまり一種の屯田兵のアイデアを打ち出す。そういった意味では人を愛する、つまり「誰も路頭に迷わないようにしよう」という想いがあったということと、この時有名な話ですが、普通は新しく入る米沢城を手狭だからと築城工事を最初に始めるのですが、直江兼続の場合は最上川(松川)の氾濫を警戒して石垣造りの土手を作りました。これが“直江石堤”として今も残っています。
そういう事をやっているというところに、やはり私は直江兼続の素晴らしさがあったと思います。


三成と兼続は偶然なんでしょうが、同じ永禄3年生まれという年の近さもあったでしょうし、片や秀吉の片腕、片や上杉景勝の片腕という置かれている共通項。
そして何よりもこれからのドラマでも出てきますが、お互い会う毎にお互いの良い所を摂取しようという事でお互いが高まっていた仲だったのではないかと思います。
ですから、三成だけで語ってもダメだし、兼続だけで語ってもダメというお互いの繋がりがあったというところが、二人が後世こう言う形で名前が残って行ったのだと思います。



《『どんつき瓦版』取材》
(管理人)
いきなり質問からでよろしいですか? 
直江兼続と石田三成は仲が良かった親友として有名ですが、先日『与板町史』を紐解きましたら、石田三成の名前が出てくる物がほとんどありませんでした。豊臣家からの命令状もほとんどが増田長盛の名前になっていたのです。その時にふっと思いましたのが、上杉家と豊臣家の間を取り持っていた一般的に“取次”と言われるのは、石田三成ではなく増田長盛の方なのかな?と思いどうなのかなとお聞きしたいのと、三成と兼続の友情関係は世間で言われますが、どの辺りのものなのかも疑問に思いました。
また別の資料で調べましたら、関ヶ原の合戦の前に石田三成が自分の次女を直江兼続への人質に送っていることが、その次女の旦那さんの岡半兵衛の記録にあると聞きまして、実際は二人の友情関係はどこまでが正しいのでしょうか?
(小和田先生)
 与板の資料は知らないですね。
(管理人)
 『与板町史』をパラパラと読みましたら、ほとんどが増田長盛の名前で、二つだけ長盛の名前の横に三成と書かれていて、あとの十数通(と聞いたのですが、そんなにもありませんでした…ただやはり三成単独の物はありません)は全て長盛だったんです。
 ですから、個人的な友情はあったとしても公的には長盛だったのかな?と…
(小和田先生)
 確かに落水の会見というのも、良質の資料には出てくる訳ではないからね。俗に秀吉と三成それから景勝と兼続の四人で会ったというのもどこまで本当か?というのは厳密には分からなしい、今の話も、増田の方が年齢も上だし取次中心にはなっていたでしょうけど、だたやはり色んなやり取りはさっきも言いましたけど、三成単独で出した物がどこまで残ったかは分からないですよね。
(管理人)
 もう一つ、三成の人間関係で疑問に思った事は、津軽藩に杉山家がありますが、その系図か何かに「津軽信枚の奥さんに三成の三女が嫁いだ時に、北政所が養女にして嫁がしたような記録が残っている」と聞きまして(これは、岡家に残る『岡家由緒書』と『津軽藩旧記伝類』でした)、先ほど先生のお話の淀殿と北政所はそれほど仲が悪くなかった。とお聞きして、先生の著書の中に「淀殿も、もう一人の秀吉の正室だったのではないか?」と書かれたいたと思いますので、そすると三成と淀が仲が良くて北政所とは良くなかったというのは…
(小和田先生)
 というのは嘘です。
(管理人)
 そうなりますと、三成の三女が北政所というのは?
(小和田先生)
 ありうる話ですね。
(管理人)
近江派と尾張派が分かれてて、仲が悪かったというのも…
(小和田先生)
 後になって作られた話だと思います。

(編集長)
 先生は今川家は相当強い軍団で、政治もしっかりしていたと書かれていますが、我々は遠江というと井伊家なのですが、井伊家というと来年(2010)の1月に千年なんです、1010年に…
(小和田先生)
 井戸から拾われたという。
(編集長)
 はい、少年時代に藤原共資の養子に入って、そこから井伊共保が井伊家を築くのですが、来年の2010年が1010年からちょうど千年なんです。そこで井伊家の勉強をしているのですが、彦根に居ますと初代直政ですが、直政は24代当主なんですよね、23代までは遠江なんですが、所謂南北朝の時代に南朝の皇子を匿った井伊家が居て、でも北朝が勝ったので遠江守護が今川家になったのですが、それ以前の1010年から約300年の間には井伊家の覇権がどれくらいの大きさがあったのでしょうか?
 そういうのが彦根に居ると全然見えてこないのですが?静岡に資料はありますか?
(小和田先生)
 いや、井伊家のその頃の資料は、私も色々調べたけどないですね。
(編集長)
 日蓮上人のお父さんが貫名という方が浜松の方の豪族ですが…
(小和田先生)
 井伊家から出たんだよね。
(編集長)
 ですから日蓮の寺紋は井桁の橘という様な物なのですが、井伊谷から浜松というと海の方までずっと広い覇権があったのかな?と思いました。
(小和田先生)
 その辺りは昨年、静岡県文化財団が発行している『しずおかの文化』という雑誌が出ていて、その中に私が“井の国 浜名湖北を照射する(第94号)”書いています。それを取り寄せて貰うといいですよ。
(編集長)
 わかりました、北朝が勝ったから今川家が入っちゃった。勝った方の歴史になると思うので…
(小和田先生)
 あっちに井伊荘(漢字?)という荘園があって、その辺が荘域だろうという事で、江戸時代の地名から追いかけて、だいたいの井伊氏が支配していたのはどの辺かがある程度分かります。それに書いてありますから。
(編集長)
 来年『井伊家千年紀』ですから『どんつき瓦版』で何かをやろうと思いまして、彦根の場合は直政から始まる歴史が多いですから、直政以前の歴史も辿らないと勿体ないと思っています。

(管理人)
 もう一つだけよろしいですか?
 全然話が変わってしまうのですが、戦国時代の彦根で私たちが今年のイベントとして肥田城というお城の水攻めが今年450年という事で、水攻めを調べているんです。
 三成が行った忍城や、紀州太田城・高松城などを見させていただいて、私たちがよく聞くのは高松城の堤防は全部造ったとか、その七倍くらいの堤防を忍で三成が造ったと聞きますが、地元の方の研究を読みますと、高松では300mくらいだったとか、忍でも元々堤防があって、そこに三成が少し手を加えただけではないか?と言われています。
 そうしましたら、安土城が2つくらい建つんじゃないか?と言われているような予算で高松城の堤防を造ったと言われていますので、その高松城よりも20年前に肥田の堤防を造るような力が六角氏にあったのでしょうか?
 私たちが聴いているのは当時の六角氏は「蒲生氏から借金していた」とか「家臣が裏切って城を追い出された」とか「京都の細川氏と応仁の乱以降は戦っていて、将軍から攻められた」などを見ましたら、お金があったのかな?と思いまして。
 そんな大名が6キロくらいの堤防を造ったと聞いていますが、それを造る事が出来たのでしょうか。
 ですから、元々造った外壁を再利用したのではないか?と思い、彦根市の方に聞きましたら、「お城の内側に堀った跡がありその分だけ盛ってある」と言われました。
 城の防備は外に濠がありそれを盛るイメージがありますが。手前から掘り上げる例というのはあるんでしょうか?
(小和田先生)
 あまりないですね。
(管理人)
 全くゼロという事は?
(小和田先生)
 ゼロではないと思う。中にも濠があるから。
(管理人)
 例としては少ないのですね…
 では他所の武将が攻めてきてそこを利用するような、例えば木曾三川の輪中を利用する方法を竹ヶ鼻城で聞いていますが、よく行われる方法だったのでしょうか。
(小和田先生)
 そこを研究した事はありませので…
(編集長)
 水攻めのイメージは、満々と水を入れて溺れさせるイメージがありますが、僕らが思ったのは「馬が早く走れないくらい水があれば、それで抑えた」という位置付けになると思うと1m位の深さの水を入れてしまえば…
(小和田先生)
 所謂“深田”ですね。
(編集長)
 そうすると溺れさせるまで水を入れなくても…
(小和田先生)
 だったら大丈夫です。もうアップアップです。
(編集長)
 じゃあ、簡単な堤防くらいでいいのかな?と思ったのですが。
 彦根はいろんな歴史がありまして面白い場所なんですよ。
(小和田先生)
そうですね。
(編集長・管理人)
 今日は本当にありがとうございました。

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