彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

8月15日、徳川斉昭死去

2008年08月15日 | 何の日?
萬延元年(1860)8月15日、水戸藩前藩主・徳川斉昭が死去しました。61歳。

徳川斉昭は個性の強い人物として幕末史の中でも賛否両論ですが、その個性から幕府をかき回したときもあれば、時には幕府の重責を担って進めていくこともあったのです。

その激しさは「烈公」という呼び名にも表されています。

水戸藩は『尊王攘夷』の総本山と言われている場所で、そんな水戸藩で藩政を握っていた斉昭は極端な異国嫌いの攘夷派としてドラマや小説で描かれますが、実は西洋の品々には大変な興味を持っていて、幕府に命じられて西洋船建造にも着手していたのです。

そんな斉昭にとって自慢の息子が七男で御三卿の一橋家に養子に入った一橋慶喜だったのです。
一橋家に入った事で、水戸家では認められていなかった将軍継嗣の権利を持つことになった慶喜を将軍に据えるために様々な政事工作を行いました。
まずは13代将軍継嗣で徳川家定と争わせ、そして14代将軍継嗣では紀州慶福とも争い、どちらにも敗北したのです。

特に慶福との争いには納得がいかなかった斉昭は、その後に行われた『日米修好通商条約』締結問題で責任者の井伊直弼を追及する事で直弼を辞任に追い込み、勢いで慶喜を14代将軍に就任させようとしましたが失敗。

続く安政の大獄で永蟄居を命じられ、この報復が桜田門外の変に繋がったといわれています。


桜田門外の変が起こったおよそ半年後・・・
水戸城内で中秋の名月を楽しむ月見の宴(新暦の9月29日)を楽しんだ斉昭は厠に立った後に俄かに斃れこみ、そのまま亡くなったのです。
心筋梗塞と伝わっています。61歳でした。

しかし、斉昭の死には不審な点も多く、当時から彦根藩士の報復という噂が絶えませんでした。
その最終力候補と言われているのが、第一次大隈重信内閣で司法大臣を務めた大東義徹だと言われています。
(この話は、信原潤一郎さんの『修羅の武士道』という小説にもなっていますので、桜田門以降の彦根藩を知る物語にもなります)

ちなみに、この水戸斉昭暗殺説は滋賀県民の研究対象にもなりやすいようで、元内閣総理大臣。宇野宗佑さんもこの説の支持者だったそうです。


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