彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:下関事件(5月10日)

2013年05月10日 | 何の日?
文久3年(1863)5月10日、下関事件が起こりました。
これは、幕府が定めた攘夷期限となる5月10日に合わせて長州藩が下関でアメリカ商船ペムブローク号を砲撃した事件です。

そもそも、攘夷実行は不可能でありあくまで空手形でした。
幕府としても攘夷期限だけを決めてしまえば朝廷が納得するというだけのものであり、これを以て攘夷を実行する藩などないとの見方だったのです。
しかし長州藩では、幕府が攘夷期限を決める前から藩兵を下関に派遣していたのです。下関には大砲57門砲兵500人歩兵2500人が配置されました。
これとは別に久坂玄瑞が光明寺に50人ほどで入りました(光明寺党)。


5月10日夕方(16時頃)、アメリカ商船ペムブローグ号が下関近くて待機しているのを長州兵が発見し、藩兵を預かっている毛利元美が使者を派遣すると、長崎奉行宛の手紙を神奈川奉行から預かっていて、潮の流れを待って進むために投錨中との返答だったのです。
5月10日になっても周囲の藩から攘夷が行われたとの連絡もなく焦っていた光明寺党の面々に対して、攘夷決行を控えるように元美が伝えたのですが、久坂玄瑞はこれを良しとせず、近くに停めていた藩の軍艦である庚申丸と癸亥丸に兵を乗せて待機し、日が変わった2時頃にペムブローク号に一斉射撃を行ったのです。
相手に気付かれずに船を近付け、軍艦2隻が商船1席を狙って12発発射したのですが、当たったのは3発(1発説もある)で、しかも相手を逃がすという結果になったのですが、久坂は攘夷決行を藩主毛利敬親に伝え、同時にこの決行を止めた毛利元美を失脚に追い込んだのです。


冷静に考えれば、武装した武士が丸腰で眠っている町人に対して真夜中に乗り込んで切ろうとしたのに、失敗して逃げられたという恥ずかしいことだったのですが、それを自慢して大きな問題となるのです。