自然となかよしおじさんの “ごった煮記”

風を聴き 水に触れ 土を匂う

キンカンを寝床にする昆虫

2013-12-14 | 昆虫

キンカンの葉の裏が,このハエの一夜の宿。白菊には昼間ハエやアブがどっさり訪れて,日が傾く頃には姿が見えなくなります。どの昆虫も安全な場所を見つけて,夜を過ごします。

探しても,そうそうあちこちで見つかるわけではありません。よくよく探して,「ほっ,ほーっ! ここにいたか」とうれしくなる程にお目にかかれるだけです。

白菊の脇に植えているキンカンに,クロバエの一種がいました。朝のことですから,夜の間に露が付いてからだがしっかり濡れています。

 

翅や毛に付いた極小の水滴を見ると,環境の影響をしっかり受けていることが窺えます。冷え込むにつれて,そうとうに寒さが身に沁みるでしょう。変温動物ですから,からだが休止状態になります。そうなりながらも,毛がからだを守り,金属光沢を放つ表皮がからだを守っていることが,よくわかります。 

 

ハエはこうして夜を過ごし,日が昇ると蜜源を求めて活動します。越冬態は成虫。冬を越すまで,蜜が口にできるまで,いのち絶えるまで,この日常を繰り返していきます。  

 


“花と実(タネ)”とジャガイモとわたし,よもやま話(4)

2013-12-13 | 随想

その3。タケの花。

わたしが教職に就いた頃,ちょうど竹薮が一斉に開花して枯れるという現象が起こりました。河川敷のタケ,個人所有の竹薮は,ほとんどが枯れるに至りました。わたしの住む地方だけでなく,日本各地でそのような風景が見られました。タケは60年に一度とか,120年に一度開花して枯れるといわれていますが,そのとおり,あちこちの竹薮が枯れ,無残な姿になってしまったのです。ただわたしの生涯からみれば,歴史的で貴重な風景が目撃できたということになります。

これを写真に撮っておこうと思い,何枚か撮ったものが手元に残っています。その中から二枚だけご紹介しましょう。下写真では,タケの花が穂のようになって付いています。枝先はどこも花だらけ。見応えがありました。

 

花から花糸が伸びて,先に葯が錘のようにして垂れ下がっています。なんとも優雅な姿でした。タケの花は,どれもこのスタイルで風の手を借りて受粉が行われます。葉との組み合わせは鳥が舞っている姿に似ている感じがしないではありません。 

 

当時,花を解剖して「これがタケの子房なんだ!」と確認できたわけではありません。どう見てもわかりにくいなあという感じで,あいまいに終わりました。今なら,それで済ますわけはないのですが。惜しいことをしました。ただ,のちに種子についてごく小さな実物を認めることはできました。

そんなわけで,タケが開花すればネズミが増えるというエピソードには納得できました。種子が落ちて,それを餌にするネズミが大量に増えるというわけです。その種子を,地元の人は“野麦”と呼んできました。

花と実についてずっと考えていたお蔭で,タケに関しても開花風景の貴重な画像が得られたのでした。

 


“花と実(タネ)”とジャガイモとわたし,よもやま話(3)

2013-12-12 | 随想

その2。サツマイモの種子を購入。大手種苗会社から『ビッグワン』の商品名で,ごく普通の袋入りで販売されていました。今はどうか,知りません。売られていないとすれば,出来が芳しくなかったということなのでしょう。種はアサガオを一回り小さくした大きさでした。そのときは発芽まで確認した程度。下写真は種子が入って売られていた袋で,見開いたものです。幸い保存していました。

特性の欄にこうあります。「さつまいもは苗から作るのが通例になっていますが,このさつまいもはタネから育てる種類です。初夏にタネをまくと,秋には甘みの強いイモが穫れます。プランターでも作ることができます」と。栽培の記述では「子葉が完全に開いたなら」ということばが見えます。

 

 

ある年の夏休みのこと。Mさんが「ぼくの家の畑で,サツマイモに花が咲いとるよ!」と電話で連絡してくれました。口調はもちろん興奮気味。そして,にこにこしてその花を学校に持って来てくれたのです。Mさんの笑顔と花を見て,わたしはすっかりうれしくなりました。サツマイモの花について学んだ当時,そのことが家族で話題になり,休みに入ってから開花しているのが偶然お父さんの目にとまったということでした。

 

我が家でも,その昔,「畑でサツマイモの花が咲いている」と父に教えてもらったことがあります。わたしが少年だった頃です。父にもかなり珍しかったようで,驚き顔で話してくれた記憶があります。自分の目で見たのは,そのとき以来でした。 

報告されたその花は,大きな葉の間に可憐な花がひっそり付いているといった感じがしました。 今もそのときの風景がよみがえってきます。

 

子どもたちには,登校日に,この花の写真を見せて紹介しました。ともかく,この発見はビッグ発見になったのでした。 

 


“花と実(タネ)”とジャガイモとわたし,よもやま話(2)

2013-12-11 | 随想

教え子と話す機会が,ときにあります。ジャガイモを扱った学習がよほど印象に残っているのか,「ジャガイモの実を探しに行きましたね。忘れられません」「『ジャガイモの花と実』の本が忘れられません」といった類いの記憶が語られることがあります。わたしはその度に,ニンマリします。

 

この本は板倉聖宣さんの著書で,ジャガイモに目を当て,花と実の役割についてたいへん丹念に書かれています。板倉さんの追求心がキラキラしていて,どこまでも真理を解き明かそうとする姿勢がみなぎった好著です。すぐれた児童書はおとなにもすぐれた“知”を提供してくれます。そんなわけで,わたしの宝にもなっています。

それに,取り上げられたトピック中チューリップの実・種子の話もわたしの好奇心をくすぐりました。その周辺の話題については後日取り上げることにしましょう。

この本とは別に,もう一つ決定的な刺激を与えられた資料があります。それは極地方式研究会作成によるテキスト『花と実』『花とたね』です。これは花と実の関係を系統的に,体系的に順序だてて学習プラン化されたものです。おもしろい材料がたっぷり取り上げられ,たのしい問いかけがどっさり詰まっています。わたしにとっては,バイブル的存在になりました。

これら二つから大きな刺激を受けて,『花と実』をわたしなりに教材として仕上げていこうと思い,何年もかかっていろんな植物を相手にしながらあれこれ考えてきました。そして,それらを貴重な材料として蓄積していったのです。その例をいくつか,数回に分けてご紹介しましょう。

まずその1。ジャガイモの市販種子。商品名は『シードポテト』といい,大手種苗会社から販売されていました。ふつうの種と同じように紙袋に入っていました。ただ,扱いが難しいのか,テープに種子が貼り付けてあり,テープ付きの状態で植えるようになっていました。播種したものの,結果は期待外れ。

結局,小さな種子は扱いにくく,発芽期に細かな作業をしなくてはいけないため,普及しなかったのでしょう。今はもう販売されていません。我が国の栽培環境には合わなかったのです。

最終的には,今,発芽の予備的実験観察を試みていること,そして来春本格的実験観察を行うことで,素材としてのジャガイモの価値云々について結論が出るでしょう。ここまでで40年経ったことになります。

 


“花と実(タネ)”とジャガイモとわたし,よもやま話(1)

2013-12-10 | 随想

わたしは今はしごとをリタイヤした身です。現職時代を振り返ると,自然科学をこよなく愛する教師として子どもと向き合ってきたなあと感じます。これはわたしの,生きもの好きという生い立ちと深くつながっているように思います。

それはともかくとして,小学校に勤務していたのですから,すべての教科をそれなりにこなす必要があります。そんななかで,とりわけ自然科学に関心を向けて教材づくり,授業づくりに専念してきたわけです。誰でも得意とする教科ぐらいあって当たり前ですが,わたしの場合はすこし変わっています。というのは,実際は国語科を専攻してきて免許を与えられているのです。そのことを知った人からは,一様に驚かれます。自分で考えてみれば,文系・理系という古臭い感覚でいうと国語生まれの理科育ちという点は,やっぱり風変わりなのでしょうか。

専門性の練磨,教師として育った背景あれこれについては,いずれ書くつもりにしていますので,今回は触れないことにします。とにかく,たくさんの方々から,とりわけ極地方式研究会に集う研究者・教師たちから刺激を受け続け,圧倒され続け,お蔭さまで今があるという点のみ記しておきます。

青年教師の時代,ある教育誌編集部からの求めに応じて,『子どもの考える力を伸ばす理科の授業』と題した実践論を寄稿しました。まったく未熟な感覚しか身に付けていなかった頃ですから,思い返しても恥ずかしい内容です。それでも,ジャガイモとの付き合いにのめり込む経緯に触れていますので,以下,長くなりますが書き出しをそのまま引用しておきます(赤字,原文のまま)。

 

子どもが全力を尽くして課題を追究する授業とは,どういうものなのでしょう。そして,そんな授業をつくり出すには,教師にどんな技量が必要なのでしょうか。このことを考えるきっかけになった一つの事実から書き始めることにします。

新米教師で,「花と実」の教材に取り組もうとしていた時です。ジャガイモに実がなり,播種すれば発芽することを知って,私はひどいショックを受けました。農家育ちでありながら,ジャガイモの実なんて意識したこともなかったのです。この時から,気にとめなかった草木が急に身近な存在に思われ始め,私に何かを語りかけてくるよな不思議な感動を覚えました。なにしろ,漠然としか見えていなかった花と実が,見事につながり出したのですから。

わたしは,生殖器官としての花の役割に確信を持ち,こんなすてきな植物の姿をなんとか子どもたちに知らせたいと願いました。このような思いで提示する課題に,幸い子どもたちは目を見張って取り組んでくれました。まさか花は咲かないだろうと予想した植物がことごとくつぶれていく時の興奮を,今も忘れることができません。その後自然探検に夢中になる中で,知的な世界が大きく開け,新たに生まれる課題がわたしたちをとりこにしました。指導技術は未熟そのものでしたが,授業が終わるごとに,わたしは何とも言えぬさわやかな気分にひたることができました。

まもなく苦労してジャガイモの実を見つけ出した時は,さすがに手がふるえてしまいました。同僚から,「また,からかって。それトマトじゃないの」と言われ,子どもたちが私を取り巻いて「すごい! やっぱり花が咲いたら実ができるんだね」と目を丸くするのを見て,私はジャガイモの実が教えてくれた重みを感じずにはおれませんでした。

 

その頃に撮影したジャガイモのネガ写真が何枚か手元にあります。下はそのうちの一枚です。撮影年は1973年。40年前の懐かしいスナップです。

 

 

どの教科書にも取り上げられているようなアサガオやアブラナ,チューリップといった栽培植物だけに目を向けて,「花は虫のために咲いているんだね」「花壇を彩るために咲くんだね」「春が来たってことを知らせるために咲くんだね」式の,いわば感情・情緒移入の授業像とはきっぱり縁を切りたいと思いました。それに代わって,自然認識をゆたかに広げるのに,自然界に横たわる初歩的で基本的な法則・事実・概念を多くの体験を通してきちんと学ばせたいと願ったのです。その気持ちは今もちっとも変わりません。

一見雑然と見える自然が一定の構造をもっていることがわかりかけると,いろんな事象や現象がバラバラに存在したり,生起したりしているのではないことが理解できかけ,統一的で体系的なしくみのなかで見え始めます。小さな子には小さいなりに,大きな子には大きいなりに,です。どの子も興味をそそられ,前のめりになって学べる世界です。植物学習はその典型だと思います。

こんなことを考えると,ジャガイモの花と実は,「花は子孫を残すために咲く」「花が咲いたあとには実(タネ)ができる」「実(タネ)ができる前には花が咲いていた」といった法則なり事実なりを考えるうえで格好の材料の一つであることが理解できるでしょう。だって,「花は咲くけど,実はまさか生らないだろう(生るはずがない)」という思い込みにズバリ切り込めるのですから。意外性のある例外例なので,子どもの常識を覆すのにピッタリ。 

 


アゲハの幼虫の受難

2013-12-09 | アゲハ(ナミアゲハ)

今年は柑橘類の実りがよく,我が家のレモン・キンカン・スダチともに鈴生りです。

アゲハ庭園のキンカンはわたしの背の高さほどですが,それに生る実が今,黄緑から黄への移行中でとてもきれいな色彩を放っています。今年その葉には,アゲハやらクロアゲハやらが訪れ,盛んに産卵してたくさんのチョウが羽化していきました。

もう霜が降りる季節なので,アゲハの名残りなんてない筈と思っていたら,そうではありませんでした。幼虫が一匹,葉の表にいました。ところが,寒さにやられたのか,無残な姿で死に絶えていたのです。

からだには朝露がかかり,からだから滲み出したと思われる体液が露と混ざって,葉の先に溜まっていました。そして,今にも流れ落ちそうでした。

 

からだの色や様子から判断すると,どうやら最近まで生きていたようなのです。たぶん,霜にダメージを受けてこんなふうになってしまったのでしょう。寒さがやって来る前に,変態を遂げることができずに,いのちを失ったとは,かわいそうでもあるし,自然な成り行きでもあるなあと感じた次第です。

ところがところが,しばらく経って日が当たり始めた頃,別の箇所で元気な幼虫を発見したのです。鮮やかさを失った葉に,くっきりとした体色の幼虫。まだ,いたんだー! 葉の間にいたので,寒さをよけられたのでしょう。さて,無事に蛹になるでしょうか。

 

 

 

 

 

 


キクを訪れたチョウたち

2013-12-08 | 昆虫と花

チョウはキクが大好き。わたしの庭園に咲くキクにも,多くはありませんが,訪れて懸命に吸蜜する姿があります。そっとそっと近づけば,割合気づかないもので,なんとか被写体になってくれます。わたしは望遠レンズをほとんど使わず,接写レンズで虫を追っていますので,慎重さがうんと求められます。

本記事の写真は,おしまいの一枚を除きすべてコンデジで撮影したものです。 撮影しながら近寄る,近寄りながら撮影する,この基本はまたとない撮影チャンスを逃さない心得です。

キタテハがやって来ました。翅の縁の切込みが深いのは秋型。成虫で越冬をします。活動を終える前に,しっかり栄養を吸収したいはず。

 

ツマグロヒョウモンのオスです。お馴染みのチョウ。慌てる様子もなく,のんびりした動きでした。時間をかけて,いくつかの花を巡り,そのうちにいなくなりました。 

  

 

顎が前に突き出した特異な姿はテングチョウです。天狗を連想させるその名は,言い得て妙です。このチョウの仲間は,我が国では他に見られません。口吻が蜜源に伸びているのがわかります。 

 

 

翅を広げて,しばし吸蜜をたのしんでいました。そのうちに,プイッと飛び去りました。じつにあっさりしたものでした。 

 

 

ベニシジミが訪れました。このチョウは,その後何度か 見かけました。キクの蜜が気に入ったのか,時間をかけて吸っていました。

 

 

キクの花が盛りを過ぎても,このように訪れて蜜を吸う姿が見られました。 

 

アブやハエとは数の上では比べものになりませんが,それらと比べると大きな体型なので,ついついカメラで追いかけたくなります。 

 


ジャガイモの真正種子と,その周辺の話(8)

2013-12-07 | 随想

その2。新しい品種一つを世に出すのに,10年もの歳月がかかるという点です。

基本的には植物は近親結婚を避けて,多様な遺伝形質の子孫を残す戦略をとってきました。同一の花の中での受粉を避ける,あるいは同一種内での送・受粉を避ける,そうした自家不和合性を生殖の旨としてきたのです。植物によっては,それでも受粉に至らない場合に備えて,やむなく自家受粉を受け入れる戦略をとっているものがあります。なにしろ,どんな状況が訪れようともとにかく子孫を残すことがそれぞれの花に課せられた大使命なのですから。

そういうふうに考えると,ジャガイモもまた受粉には他品種同士で成立するのが基本であり,その結果結実するとみるのが順当です。実際,調べてみるとそうなのです。その性質を利用して,意図的に異品種の掛け合わせを行い,新しい品種の種をつくるのが品種改良です。

実一個の中には200~300個の種があります。同じ実の中の種子は遺伝的には同一形質を持っていても,実が違えば実毎に遺伝情報は異なってきます。もちろん,他の株の実とははっきり異なってきます。この事実にもとづいて,すぐれた形質を有するイモをつくろうとして,研究者は品種間で人工授粉を行うわけです。先のことばでいえば,自家不和合性を逆手にとっているわけです。

 

資料によれば,北見農業試験場の場合,一年で播種する種子数は5万粒以上。この中から優良な性質を持つ候補品種を選抜し,栽培を繰り返す作業が続きます。最終的にイモを増産して,種イモに仕上げていくのに10年。これだけの手間を掛けて,やっと販売ルートに乗せられるといいます。この10年間に,毎年5万粒以上の種子が蒔かれるわけです。この調子で進んでいって,5年に一つの割合で新品種が世に出るとか。5年に一つというのは,25万粒から選ばれた1粒ということになります。気が遠くなる話です。

                                                                  (左;ミニトマト  右;ジャガイモ)

                                    (ジャガイモの実の断面)

 

そのようにしてつくり出されたジャガイモの品種は驚くような数に達します。たとえば,『じゃがいも品種詳説』を見ると合点できます。研究に従事する人の作業の,なんと地味で地道な話! そこで流された汗が,大きくいえば,人類の食糧危機を救う救世主につながっていくわけです。汗に感謝,感謝。

シリーズをとおしてお読みいただきました皆様,ジャガイモを見る目が前よりちょっと変わってきましたか。わたしは,自然からの贈り物ジャガイモのすばらしさを感じるばかりか,それを人間が自分たちの食にとり込んでいった知恵に圧倒されます。どう考えても,いくら考えても大したものです。「ほっ,ほーっ!」の世界です。  

 


白菊の夜(後)

2013-12-06 | 昆虫

カメムシの吸蜜行動は,昼間もときどき見かけましたが,夜ほど多くはありませんでした。

暗くなると,カメムシが増えました。目立つほどという感じではありません。よくよく探すとあちこちに点在するように,といった感じです。

アカヒメヘリカメムシでしょうか。口吻をぐっと突き刺していました。からだの大きさからすれば,蜜は,汲めども汲めどもなくならないでしょう。 

 

カスミカメムシ科のカメムシです。コアオカスミカメか,ヒメアオナガカスミカメあたりでしょうか。花の大きさとからだを比べると,カメムシがどんなに小さいか,わかります。口吻を突き立てて,吸蜜に集中している模様です。

 

トリミングしてみると,無数の短めの毛がからだを覆っています。複眼は透明感があります。 

 

クモヘリカメムシらしいカメムシもいました。夜露を浴びながら,吸蜜に勤しんでいました。アメンボを連想させる体形です。からだは緑,翅は黒褐色,すらりと伸びた触角を持っています。イネ科植物から吸汁するということで,害虫に指定されているとか。

 

チャバネアオカメムシです。前翅が茶色。それによって,この名が与えられたとか。複眼は赤茶色。まことに,鮮やかな色合いをしています。昼間こんなところにいたら,目立つことでしょう。それは天敵にとって願ってもない話なのでしょうが。

  

ガもカメムシも,夜に強そうです。棲み分けがじつにうまくいっているようにみえます。白菊の花を訪れる昆虫たちの物語には,数え切れないストーリーが詰め込まれているようです。

 


ジャガイモの真正種子と,その周辺の話(7)

2013-12-05 | 随想

これまで,簡単に真正種子・品種改良ということばを使ってきました。その簡単さがちょっと気になっています。このシリーズ話を締めくくるにあたって,すこしだけ,改良にまつわるたいせつな事柄に触れておきましょう。

その1。種子一つひとつにはそれぞれ異なる遺伝的形質が受け継がれているという点です。

播種してできたイモは,見た目にわからなくても株ごとに微妙に形質が異なっているのです。わたしが実験観察しているジャガイモの実生植えもそうです。株ごとに異なった形質が現れることになります。つまり,形や色などにバラツキがあるというわけです。

これは,ジャガイモの種イモを植えることと比べると大きな違いです。種イモはいくつに切って植えても,あるいは同一品種のイモをいくつ植えても,形質(形,色とも!)は揃っています。なにしろ,すべてが一個の芋から始まったクローンで,自分自身だからです。

 

人間が食糧として利用する点を念頭に置いて考えれば,この方が形質が安定していて便利です。しかし,ジャガイモの身になって考えると,単一形質の場合は自然環境の変化や,ウィルスなどが起因して,種族の維持が脅かされる場合が想定されます。そうなると,種が全滅の危機にさらされる事態も起こりうるのです。これに対して形質が多様なら,種としての滅亡が避けられます。いくつかの種は,確実に環境の激変に応じていける,ウィルス感染から逃れることができる,など柔軟に対応していけます。

 

したがって,ジャガイモだけでなく,すべての種子植物にとって,種をつくる営みはとても重要な意味があることが理解できます。