わたしは今はしごとをリタイヤした身です。現職時代を振り返ると,自然科学をこよなく愛する教師として子どもと向き合ってきたなあと感じます。これはわたしの,生きもの好きという生い立ちと深くつながっているように思います。
それはともかくとして,小学校に勤務していたのですから,すべての教科をそれなりにこなす必要があります。そんななかで,とりわけ自然科学に関心を向けて教材づくり,授業づくりに専念してきたわけです。誰でも得意とする教科ぐらいあって当たり前ですが,わたしの場合はすこし変わっています。というのは,実際は国語科を専攻してきて免許を与えられているのです。そのことを知った人からは,一様に驚かれます。自分で考えてみれば,文系・理系という古臭い感覚でいうと国語生まれの理科育ちという点は,やっぱり風変わりなのでしょうか。
専門性の練磨,教師として育った背景あれこれについては,いずれ書くつもりにしていますので,今回は触れないことにします。とにかく,たくさんの方々から,とりわけ極地方式研究会に集う研究者・教師たちから刺激を受け続け,圧倒され続け,お蔭さまで今があるという点のみ記しておきます。
青年教師の時代,ある教育誌編集部からの求めに応じて,『子どもの考える力を伸ばす理科の授業』と題した実践論を寄稿しました。まったく未熟な感覚しか身に付けていなかった頃ですから,思い返しても恥ずかしい内容です。それでも,ジャガイモとの付き合いにのめり込む経緯に触れていますので,以下,長くなりますが書き出しをそのまま引用しておきます(赤字,原文のまま)。
子どもが全力を尽くして課題を追究する授業とは,どういうものなのでしょう。そして,そんな授業をつくり出すには,教師にどんな技量が必要なのでしょうか。このことを考えるきっかけになった一つの事実から書き始めることにします。
新米教師で,「花と実」の教材に取り組もうとしていた時です。ジャガイモに実がなり,播種すれば発芽することを知って,私はひどいショックを受けました。農家育ちでありながら,ジャガイモの実なんて意識したこともなかったのです。この時から,気にとめなかった草木が急に身近な存在に思われ始め,私に何かを語りかけてくるよな不思議な感動を覚えました。なにしろ,漠然としか見えていなかった花と実が,見事につながり出したのですから。
わたしは,生殖器官としての花の役割に確信を持ち,こんなすてきな植物の姿をなんとか子どもたちに知らせたいと願いました。このような思いで提示する課題に,幸い子どもたちは目を見張って取り組んでくれました。まさか花は咲かないだろうと予想した植物がことごとくつぶれていく時の興奮を,今も忘れることができません。その後自然探検に夢中になる中で,知的な世界が大きく開け,新たに生まれる課題がわたしたちをとりこにしました。指導技術は未熟そのものでしたが,授業が終わるごとに,わたしは何とも言えぬさわやかな気分にひたることができました。
まもなく苦労してジャガイモの実を見つけ出した時は,さすがに手がふるえてしまいました。同僚から,「また,からかって。それトマトじゃないの」と言われ,子どもたちが私を取り巻いて「すごい! やっぱり花が咲いたら実ができるんだね」と目を丸くするのを見て,私はジャガイモの実が教えてくれた重みを感じずにはおれませんでした。
その頃に撮影したジャガイモのネガ写真が何枚か手元にあります。下はそのうちの一枚です。撮影年は1973年。40年前の懐かしいスナップです。
どの教科書にも取り上げられているようなアサガオやアブラナ,チューリップといった栽培植物だけに目を向けて,「花は虫のために咲いているんだね」「花壇を彩るために咲くんだね」「春が来たってことを知らせるために咲くんだね」式の,いわば感情・情緒移入の授業像とはきっぱり縁を切りたいと思いました。それに代わって,自然認識をゆたかに広げるのに,自然界に横たわる初歩的で基本的な法則・事実・概念を多くの体験を通してきちんと学ばせたいと願ったのです。その気持ちは今もちっとも変わりません。
一見雑然と見える自然が一定の構造をもっていることがわかりかけると,いろんな事象や現象がバラバラに存在したり,生起したりしているのではないことが理解できかけ,統一的で体系的なしくみのなかで見え始めます。小さな子には小さいなりに,大きな子には大きいなりに,です。どの子も興味をそそられ,前のめりになって学べる世界です。植物学習はその典型だと思います。
こんなことを考えると,ジャガイモの花と実は,「花は子孫を残すために咲く」「花が咲いたあとには実(タネ)ができる」「実(タネ)ができる前には花が咲いていた」といった法則なり事実なりを考えるうえで格好の材料の一つであることが理解できるでしょう。だって,「花は咲くけど,実はまさか生らないだろう(生るはずがない)」という思い込みにズバリ切り込めるのですから。意外性のある例外例なので,子どもの常識を覆すのにピッタリ。