古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

電気柵に防草シートを敷きました。

2012年09月25日 02時27分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 何度も同じアングルの写真をアップしてごめんなさい。電線の下に防草シートを敷きました。まず土手の草を刈り、電線を張り、途中伸びる草を刈りながら足場をつくり、その足場に乗って土手の草を上まで刈ることができました。そしてきのう、やっと50センチ幅の防草シートを敷くことができたというわけです。夕方の写真でわかりにくいですが、左上の田んぼは山田錦で、10月中頃の稲刈りになります。
 この土手は上の田んぼの水が滲み出て一番勢いよく草が伸びます。電線に草がふれないように毎日気をつけていました。その心配がなくなり「ヤレヤレ」。裏山の竹を切り、ナタで割り、細い幅の竹でシートを地面にとめて草を防ぎます。
 親切にしていただいてた村の方の訃報が回覧連絡でまわってきました。
「山田錦の田んぼは泥が深いです。ふつうの米をつくっても口吉川の米はうまいです」と話してくださった方でした。「なかでも『ヒノヒカリ』が一番うまい」と聞いてこちらに引っ越して5年余り、ずっといただいてきました。バーベキューで<焼きおにぎり>を来客に食べてもらうときは「どうです。うまいでしょう」と我が米のように自慢したものです。
『ゴパン』でお米のパンを焼いたときは、「お宅のヒノヒカリで焼いたパンです」と食べていただきました。孫が夏休みの自由研究で「<米づくりの歴史>を調べようかな」といったときは、取材をお願いしようと思ったこともあります。(そのテーマにしませんでしたが)
 圃場整備で機械の入る大きいサイズの田んぼになるまでは「うちは田んぼが51枚ありました」と話されたことがあります。水を見てまわるだけで大仕事です。米づくりの80余年の生涯は、江戸時代から現代までの<米づくり歴史絵巻>を見るような激変の時代でした。そんな話を孫といっしょにじっくり聞いてみたいと思っていました。「どの家もみんな藁屋根で、どの家にも牛がおりました。牛を川に連れていって洗いました」と話されたこともありました。
 牛に引かせて代かき。田植え。田の草とり。稲刈り。干して脱穀。足踏み式稲こき。そんなものが次々と機械に変っていく時代を、米づくりに専念して、一番しっかり受け止めてこられた世代の方でした。文字通り<最後まで現役>で米をつくり草を刈っておられました。
 去年、裏山の『愛宕さん』・『祇園さん』のお祭りは、その方の当番でした。妻とお参りしてみたら、当番のお二人だけでした。村の昔の様子を聞きながら、しばしおしゃべりしたことも思い出されます。
 葬儀に並んで、<立派なお百姓さん>を偲びたいと思います。
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