古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

吉村昭『戦艦武蔵』から引用します。

2023年09月05日 22時06分24秒 | 古希からの田舎暮らし
 吉村昭の『戦艦武蔵』を時間をかけて読みました。300ページの文庫本ですが、数日じっくり読みました。思いはあふれますが、最後の部分だけ引用します。「何かを訴えよう」というのでなく、作家・吉村昭が取材して書いた「事実」をそのまま引用します。


※ アメリカ軍飛行機の執拗な集中攻撃をうけて、浮沈戦艦といわれた戦艦武蔵は、昭和19年の秋、フィリピン沖で沈没します。小説の最後の部分を、長くなりますがおしまいまで引用します。(文庫本は縦書きなので、数字は表記のままにします)。


 (戦艦武蔵が沈没して) 全乗組員二千三百九十九名中千三百七十六名の生存者は、駆逐艦清霜、浜風でマニラへ向ったが、途中で急にコレヒドールへ回航になった。かれらは大部分が、下腹部まで露出した裸身で一人残らず素足であった。かれらがマニラへ上陸することは、武蔵の沈没を知らせるようなもので、それをおそれた海軍中枢部は、かれらをコレヒドールへ向けたのである。
 かれらは、コレヒドールに上陸すると、素足で石だらけの道をのぼらされ、山腹の仮兵舎に収容された。海軍にとってかれらは、すでに人の眼から隔離しておきたい存在だった。武蔵乗組員という名は、かき消したかったのだ。かれらの所属は、どこにもなかった。かれらは副長の姓をとって加藤部隊という名を与えられ、さらにいくつかの集団に分けられた。
 生存者中四百二十名は、同年十一月二十三日マニラ出航の輸送船さんとす丸に乗船、台湾の高雄(たかお)に向かったが、途中バシー海峡で敵潜水艦の魚雷二本をうけて轟沈(ごうちん)、再び海中に投げ出された。かれらは五時間から十九時間泳ぎつづけたが、漂流中、敵潜水艦に味方艦船から投じられる爆雷の衝撃で内臓破裂を起こしたものが多く、救助された後にも五十名が死亡、結局生存者は三〇パーセント弱の百二十名に過ぎなかった。かれらは高雄の警備隊に編入されたが、後には半ば以上が内地に送られ、瀬戸内海の小さな島で軟禁同様の生活を強いられた。
 また他の一隊二百余名は、同年十二月六日改装空母隼鷹(じゅんよう)で内地送還の途中、野母崎(のもざき)南五〇浬の海面で敵潜水艦の雷撃を受け、呉入港予定を変更して艦体傾斜のまま佐世保へ十二月十日に入港した。かれらは所属もないままに佐世保から呉へと移動し、最後には、久浜落下傘部隊の仮兵舎に監視の下に収容され、やがて各地へ散らされた。
 生存者の半ばを占める六百二十名の乗組員は、内地送還も許されず現地軍の要請にもとづいて、その地に残された。一隊百四十六名は、マニラ防衛部隊及び南西方面艦隊司令部に配属され、翌年二月三日マニラ北方より戦車軍を先頭に進出してきた米軍と激戦を展開、百十七名が戦死又は行方不明。また油井国衛中尉以下の乗組員は、マニラ湾口防衛部隊に編入され、鈴木新栄少尉のカラパオ地区隊三十五名は二十三名が戦死、油井中尉、新津清十兵曹長の率いるコレヒドール地区隊三十五名は、「最後の一兵まで戦う」という通信を最後に玉砕、この地区での生存者は、衛生兵長猪俣浩一 一名だけであった。さらに浅井春三少尉の率いる軍艦島地区隊は、それぞれ、自決又は戦死によって全員玉砕。
 またマニラ地区のクラーク飛行場作業員として使役に使われた者三百二十名は、武器を所有していないため突撃隊に編入させられ、棒つき円錐弾(えんすいだん)、ふとん爆弾等の俄か(にわか)づくりの爆薬を手に敵戦車の下に飛びこんで玉砕。この地区での生存者は、佐藤益吉水兵長一名だけであった。


 この小説は、上の文でおわっています。この本は昭和46年に新潮文庫になり、平成29年には80刷、80万部超読み継がれています。感想は書きません。
 
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