虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

一揆は山奥から 野村騒動

2006-04-01 | 一揆
一揆の始まりは山奥から。信州の一揆もそうだし、武左衛門一揆もそうだ。
たしか百姓一揆の数では信州が一番だったと思うが、宇和島藩もトップクラスに入るだろう。

宇和島藩最大の百姓一揆は、城川町の土居、古市、中津川村から始まる。1870年、今から136年前。明治3年3月の野村騒動だ。宇和島藩全領域をまきこみ、参加した農民1万5000人から3万ともいわれる。最高責任者は、中津川村の塩崎鶴太郎(38歳)と川津南村の大石和田治(32歳)。

山国では櫨(はぜ、うるし科)や楮(こうぞ)を栽培する。櫨はろうそくの原料、楮は和紙の原料だ。江戸時代は二つとも藩の特産品で専売制をしていた。

ここで、一揆の原因など詳しいことは書けないけど、きっかけは、櫨実の買い入れ価格を値上げしろ、と蝋座に要求。維新以来、物価は高騰し、宇和島藩は、税金(年貢)を銀(大豆銀納)で払うことになっているが、櫨実の価格を上げてもらわないととても銀ではらえない。もちろん、これだけではなく、税金(銀納)を免除しろ、昨年の未収分の税金も免除しろ、庄屋は不正な利益を得ているから、庄屋を是正しろ、貧しいものを助けろ、といろいろある。生活は限界にきていた。世直し一揆ともいわれる。

山奥から出た農民たちは、当時、藩の民生局がおかれていた野村(現野村町)に進み、そこの大庄屋緒方家を取り囲んで、要求書を投げ入れる。他の村からも続々と参加してくる。民生局の役人が来る。藩庁から幹部が来る。家老の桜田亀六が来る。4月はじめ、農民たちの要求の1部を受け入れてやっと帰村させることができる。

藩は小銃隊2隊、大砲2門をもちだし、殿様である藩知事自ら出馬しようとさえした。農民たちの威勢に恐れをなし、仮病を使って出馬しない重役たちも続出したり、乗馬の役人も落馬をくりかえしたりした。武士たちは、狸と罵倒され、一揆の恐ろしさを武士は目の当たりにする。

このとき、たまたま親の病気見舞いで故郷に帰っていた市村敏麿(当時新政府民部省の役人)も藩知事から説得を命じられ、古市村が最初に帰村することになる。

騒動の首謀者2人は処刑の判決がでるが、10年の遠島の刑に減刑される。これは、一揆の首謀者が市村敏麿の親友であったため、市村の努力による。野村騒動のあと、藩は藩政改革を余儀なくされる。

江戸時代の人と、「民主主義社会」の今の人とどちらが政治に真剣な目を向けているのだろうと思わざるをえない。江戸時代の人は、年貢率の引き上げから他のさまざまの施策など、藩の政治に敏感に対応している。自分たちの願い、要求を団体で訴える力があった。一揆を起こした日本人たちも、また忘れられた日本人なのかもしれない。



宮本常一「忘れられた日本人」と城川町

2006-04-01 | 宇和島藩
宮本常一の名著「わすれられた日本人」(岩波文庫)。
その中で最も忘れがたい印象を与えるのが、「土佐源氏」。たしかジャーナリストの佐野真一も、この「土佐源氏」には強いショックをうけたと書いてあったような気がする。
梼原村の橋の下に住む80過ぎの盲目の乞食老人の女遍歴談。最高級のポルノ談。

「あんたはどこかな?はぁ長州か、長州かな、そうかなァ、長州人はこのあたりへはえっときておった」と始まるばくろうの人生遍歴。この文庫の中にばくろうが歩いた村のひとつとして、東宇和郡惣川村の写真が出ているが、ここも今は城川町です。

どうも、この語り手は奥伊予、城川町の生まれのようだ。隣村が梼原村なので、古市、土居あたりかもしれない。「土佐源氏」の語りの中でも最も有名で、それが原因で目がみえなくなったという庄屋さんの奥さんとの恋話も、奥伊予での話だ。
題名は「土佐源氏」だけど、この人は「伊予源氏」だ。

実際は、もっときわどいことが書かれてあったそうだが、発売禁止になることをおそれて、あの程度にまとめたそうだ。

城川町の昔の村のようすもこの本で少しわかります。

城川町の風景を画像でアップしようと思ったけど、どうしても無理。景色はいろんな色素があるので、アップできないのだろうか。アップできるのとできないのがある。不思議。機械音痴です。この画像は城川町の桜。5分咲きといったところか。