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加賀藩の「安政の泣き一揆」と七稲地蔵(なないねじぞう)

2015年12月24日 | インポート
先日の街歩きでひがし茶屋街に行って来ましたが、その途中に卯辰山寺院群の寺院で浄土宗の寿経寺がありました。
その門前には「安政の泣き一揆」で処刑された町人の墓と、それを弔う「七稲地蔵」が祀られています。
七稲地蔵は明治期に卯辰山の参道に建立されたのですが、1908(明治41)年にここの寿経寺に寄進されて山門前に安置されています。
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ガラス入りの格子戸の地蔵堂に七稲地蔵が祀られています、普段は戸が開かないので格子の間から写真を写させて頂きました。
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地蔵堂の前の立て札に七稲地蔵の事が書かれていました。
百万石の加賀藩でも、その長い歴史の中には町民や農民の一揆や打ちこわし事件は多数発生していますが、庶民2000人以上を巻き込んだ「安政の泣き一揆」は広く後世まで語り継がれています。

幕末の安政5年は2月に飛騨地方を震源とする、北陸地方に強い地震(マグニチュード7.0~7.1と推定される)があって、越中(富山県)を中心に大変な被害が発生し、金沢でも百件以上の家屋が倒壊しました、その上に春からの長雨で冷夏となりました、凶作を予想した商人の米買い占めによる米価の高騰と、藩の銀札の発行によるインフレにより庶民の暮らしは日毎に困窮していました。

因みにその当時の通常の米価は一升約80文でした、ところが泣き一揆が起った7月には一升が130文にまで跳ね上がっていたそうです、その頃の大工や職人の日当は200文程の様でしたから、大家族では米代で稼ぎのほとんどが消えてしまう勘定です。
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この寿経寺から卯辰山に登る道筋に、観音院があります、観音院では7月11日に「四万六千日(しまんろくせんにち)」の後参りが行われていて、深夜に2000人の貧困した人達が当時登ることが禁止されていた卯辰山に登って、
御城に向かって「ひだるいわいヤ〰」 「ひもじいわいヤ〰」 「こめくれまいヤ〰」
翌12日には500人の庶民が大声でシュプレシコールを繰り返しました、その声がお城の殿様や藩の重臣たちのお屋敷ににも届きました。

翌13日に藩の御米蔵から500俵余りの米が米商人に売り渡されました、一升100文以下にせよとのお触れが出て米の値段は安定しました。
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翌年安政6年の4月に首謀者5人は「斬主の上、さらし首」の刑、牢死した二人を加え七人の供養のための地蔵が卯辰山の参道に築かれました。
匕稲地蔵はいずれも稲束を抱えて柔和な表情でした、足元にはお供えされた稲束が供えられていました、庶民の生活の困窮を救うために一命をなげうった人たちの冥福を祈らずにはおれませんでした。
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地蔵堂の前には犠牲になった七人の名前が記された墓石が建っていました。

河原市屋文右衛門
高橋屋弥左衛門
越中屋宇兵衛
能美屋佐吉
原屋甚吉
平田屋彌兵衛
北市屋市衛門
以上の七人の名前が記されていました。
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卯辰山に登る坂道を辿ってみました。
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卯辰山の玉兎ヶ丘(ぎょくとがおか)は広く開放的な散策路になっていますが、開発される前にはここはこぶ状に一段と高くなっていて卯辰山の頂上でした、開発に伴って頂上が10m余り削られて広い松林になっています。
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松の木の根元に庚申塚の石がありました、安政の泣き一揆はこの庚申塚から大声で叫んだ、とゆう説と卯辰山の中腹の日暮ヶ丘から叫んだという2説があります。
日暮ヶ丘には「安政泣き一揆」で群衆がこの場所で叫んだという立て札が建っているそうです。
日暮ヶ丘は観音院から観音坂を登った卯辰山の中腹にあり、集まった群衆は深夜でも行きやすい場所であったと思います、それに御城からも直線で1kmぐらいしか離れていないので、群衆の叫び声は届きやすかったと思います。
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庚申塚の見晴らし台から金沢城を見ますと、周辺に大きな建物があって見分けがつかないので少しズームして見ました、当時は御城の周りには他の建物があまり無かったので良く見えたと思います。
御城からこの山頂までは、直線距離で1.7kmの距離です、現在のように他の騒音が無く、深夜に2000人もの人が叫んだら聞える距離だったと思います。
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金沢城の二の丸橋から卯辰山を望む、御城から見て卯辰の方角に有るので卯辰山と呼んでいますが、庶民の間では向かい山と呼ばれていたようです、当時は御城を見下ろすと云って一般には登ることが禁止されていたようです。(2013/4月、撮影)
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当時の庶民は日当稼ぎでその日暮らしの人が大半を占めていたようで、異常気象や藩が銀札を発行した為のインフレなどで物価が上がると庶民の暮らし向きはとたんに困窮することになります。

武家社会の身分は士、農,工、商、となっていましたが、武家が一番身分が高く、後の農、工、商はひとまとめにして、武家よりさげすまれていた時代だったので身分の高い武家に対して一般の庶民は直接物申す事が難しい社会の仕組みになっていたようです。

そんな社会でも生活苦に耐えかねた庶民が実力行使の一揆や打ちこわしなどの事件は、長い年月の間には何回か起こっています、その都度首謀者は罰せられていたことでしょう、安政の泣き一揆は実力行使がともなわず、大声で泣いて現状を訴えた事に対して、首謀者とされた7人が犠牲になりました。
藩は大衆で徒党を組んで藩の御正道に物申すことを恐れたために、見せしめのために7人を処刑(内2人は獄死)したのでしょう、なんとも哀れな結末でした。

最後までお目を通して頂いて有難うございます。

    本記事を編集にあたり下記の記事の一部を参考にさせて頂きました
                     ※ウィキペディア
                     ※非行中年様のブログ
                     ※金沢ゆめまちづくり支援活動事業様のブログ







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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (サチ)
2015-12-24 15:35:14
こんにちは

いつもありがとうございます。

感慨深く拝読しました。
いつの世も様々な犠牲の上に成り立っている事実があるんですねえ。
勉強になりました。

全ての人々が安心して過ごせる世の中になってほしいですね。

寒さが増してきます。 どうぞ風邪など引かれませんように。
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Unknown (無門)
2015-12-24 18:57:51
こんにちは

半世紀前友人と一緒に
卯辰山に登ったのを思い出しました
七稲地藏は聞いたかもしれませんが
忘れていました
消費税が導入されのほんの不況は
始まりましたね
異常気象の続く昨今
これから次第に増税になるけど
公務員給料はしっかり上がり
軍事予算はうなぎ上りに上昇
国家は安泰になるそうですが
庶民は・・・・・
泣き一揆の声は届いていないようです
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Unknown (go)
2015-12-24 20:51:38
サチ様へ
この時代は自分たちの生活を守りための主張でも命がけでした、現在は世代や立場の応じた意見や主張は自由に出来る世の中になりましたが、安政の泣き一揆の様に主張は通ることが少なくなってきました。
この話をすると「実話ですか」と聞かれることがあります、現在の世の中からすると信じられないようなお話ですが、まぎれもない実話です。
今、日本の将来を考える時、世の流れに不安を感じます、自分たちの去った後の世が心配ですが、後の世代が知恵を出して乗り切って行くと信じています。
コメントを有難うございます、健康に注意して良いお年をお迎え下さい。
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Unknown (go)
2015-12-24 21:09:17
無門様へ
昨今は低階層に負担増の方向に世の流れが進んでいて、私たち年金暮らしの者には将来の不安がのしかかってきます、大企業に優遇して利益を上げて、その利益を従業員の給与を増やして景気を良くするような方策でしょうが、企業の内部留保が増えて政府の考えるストーリー通りには行かないようです。
異常気象による農林漁業の打撃と消費税アップで世の中が不安になってきました、財源の不足は福祉にはね変えてきそうですが、公務員給与の見直しや国会議員の数の削減などにもっていってほしいです、このままですと平成の泣き一揆でも起こしたくなりますね。
コメントを有難うございます、健康で良いお年をお迎え下さい。
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Unknown (幸村)
2015-12-25 08:26:59
「直訴はご法度」という時代に命をかけてみんなのために行動するなんて今の時代でもできないことですね。卯辰山が見える最後二の丸の写真、百万石まつりの時見学した場所のような? 城の防衛上で山に登ることを禁止していたのでしょうか
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Unknown (信徳)
2015-12-25 08:58:58
この時代は今の隣の国のように自由がなかったので泣き寝入り、見せしめの刑だったのですね。
こんな歴史を繰り返して今の生活が生まれてきました。しかしながら庶民の実態を知らない人たちが人気取り人気取りしながら勝手気ままにやっている国政に不安を感じます。
来年の旅行は金沢と輪島に決まりましたので楽しみに少しづつ勉強させていただきます。
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Unknown (つとつと)
2015-12-25 11:50:39
世界初のシュプレヒコールの地 しかも無血一揆というのは特筆ものですね。しかも、藩が即対応したというのも珍しい事例だと思います。今の愚だ愚だと要らぬ人気取りや持って回った政争のような国や県の行政にも見習って欲しい物です。
場所は梅林園がある日暮ヶ丘だとずっと信じていました、実際、金沢城がまじかに見えますからねえ。庚申塚という別の説もあることは初めて知りました。勉強不足でした。
シュプレヒコールには藩内でも同情・減刑嘆願が商家や武家からも多かったようですが、お止め山に徒党で登ったのが見せしめとしての処分になってしまったようです。
七稲地蔵は僕も観たことあるんですが、車を真ん前に路上駐車で、ガラスも曇っていてじっくり見れませんでしたTT処刑や牢死という悲惨な道を辿った七人ですが、それとは思わせないユニークな顔や赤い衣装は、不謹慎ですがクスッとさせるものがありました。
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Unknown (go)
2015-12-25 17:10:09
幸村様へ
こんにちは、温かかった今年の冬も年末には寒波が来るようで寒くなってきましたね、泣き一揆は幕末に起きた騒動ですが、明治が近くなってきているといっても武家は絶対的な権力で統治していた時代ですので、いくら不合理なことがあっても直訴はご法度とされていた時代ですね、命がけで一揆を起こした結果、首謀者は処刑されますが米の値段は一時的かもしれませんが安定した為に、犠牲者を恩人として末永く供養しているのです。
現在の世の中は10人十色の意見を言う事が出来ますが、結果はなかなか叶わない世の中になっていていますが命までは取られませんね、良い世の中になってきたと思えば良いのですかね?。
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Unknown (go)
2015-12-25 17:33:58
信徳様へ
こんにちは、温かかったこの冬も年末ともなれば寒くなってきましたね。
そうですね、その頃の日本は今のお隣の国の様で権力者には絶対服従の時代でした、いよいよ生活が困窮した時は命がけの世の中だったようです、その様な歴史を経て現在の民衆主義の時代が来たのでしょうね。
しかし、現在でも一見して民主的に見える様ですが、物を決める人たちが2世、3世の経済的に豊かな人達が主導しているので、底辺の庶民は切り捨てられているようです、庶民は安酒を飲んで家で「泣き一揆」をするしかないのですかね(笑)
来年の金沢、輪島の旅行が楽しみですね、金沢と関東では食べ物や文化が違うので、良い思い出になると思いますよ。
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Unknown (go)
2015-12-25 18:24:15
つとつと様へ
年末寒波でしょうか今日午後から冷え込んできましたね。
そうですね、この時代に実力行を伴わない一揆は珍しいですね、それと藩が即対応した事もこの時代では例がないようですね。
そうでしたか、藩内でもことを穏便に済ませる様な意見や減刑嘆願書も出たのですか。
藩としたら今後に藩の御正道に庶民が大勢で異を唱えることを恐れての見せしめの刑だったのでしょうね。
泣き一揆が叫んだ場所が私が初めに見た記述に、卯辰山の頂上の庚申塚となっていたので、地図で調べたらお城からの距離も直線で1.7kmでしたの信じていました、しかし実際に行ってみるよ見た目に御城までが離れすぎている様な気がしました、その後に見た記述には日暮ヶ丘に泣き一揆の叫んだ場所であるとの立て札が建っていることを知りました、実際に見たわけじゃないんではっきりとしたことは言えませんが、観音院からの距離などから鑑みると日暮ヶ丘が有力なようですね。
現在の民主主義を提唱する我が国でも、国会前で何万人ものデモ隊が大声で、国会に聞える様なシュプレシコールを繰り返しても、なかなか世の中は庶民の思うようには変りませんね。
もっと庶民の声が暮らしに反映してほしいのですが、それにはこぞって選挙に行って投票率を上げることしかないようですね。
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