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実盛と芭蕉ゆかりの地を訪ねてー首洗い池、実盛塚

2015年01月31日 | インポート
1月21日の首洗い池、このシーズンは殆ど訪れる人もなく、水面に映る冬枯れの梢と岸辺の枯れた芦が静かな水辺をいっそう閑散としています。
今から、さかのぼること830年前の寿永二年に、この地で今日まで語りつがれるドラマが有ったことを忘れたかのように静まり返った水面が青くしずんでいます。

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池のほとりに石碑がひっそりと立っています。
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芭蕉の句碑です、 ”むざんやな 兜のしたの きりぎりす” 多太神社の実盛の兜を見て詠んだ句です。
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池の中”首洗い池”の石柱が立っています。
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人影のない池の向こうに当時を偲ぶ義仲主従の銅像が
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実盛と義仲、二人の運命の糸はどこで繋がったのでしょうか。

相模の国(神奈川県)を本拠地とする源義朝と上野の国(群馬県)に進出してきた弟の義賢の両勢力が対峙していた、実盛の武蔵の国長井の庄(埼玉県熊谷)はその二勢力の間の緩衝地帯にあった、実盛は初めは義朝に従っていましたが、地理的や政策的な判断から義賢にご機嫌伺いをするようになりました。
こうした武蔵衆の動きに危機感を感じた義朝の子、源義平は義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)。
実盛は再び義朝、義平父子の直々の家来に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れていませんでした、義平から義賢の遺児で2歳の駒王丸を殺害するように命令されていた畠山重能から駒王丸を預かり、駒王丸の乳母の郷の信濃の国の中原兼遠のもとに送り届けて逃がしました。
この駒王丸こそ後の旭将軍、木曽義仲であります、木曽義仲にとって実盛は命の恩人であります。

実盛は源義朝の忠実な武将として、保元の乱、平治の乱には上洛して奮戦しますが、義朝が滅亡した後は、自領の武蔵の国に落ち延びて、それから以後は平氏に仕え、その後、源頼朝が挙兵した後も平氏方にとどまり、かつては同じ源氏方の木曽義仲と敵味方で戦うことになりました。

総崩れとなった平家軍の中でただ一騎残った実盛は、「この戦、もはやこれまで」と、日頃より最期は若々しく散りたいと言っていた実盛は、髭や髪の毛を墨で染め、平宗盛より拝領の錦の直垂(したたれ)に、げに平氏のものにあらずの菊唐草に鍬形の兜に、火威しの鎧のいで立ちで出陣しました、手塚太郎光盛の呼びかけに応じて決戦に挑みました、馬上で何回か刃を交えたそのときに実盛の馬が稲の切り株につまずき体制を崩してひるむそのときに手塚光盛の刃が実盛を討ち取りました、時に実盛公は七三歳の老齢と云う。

打ち取った武将が命の恩人の実盛とわかって悲しむ義仲主従
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                実盛の首を抱いて悲しむ義仲
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                人目をはばからず涙を流して悲しむ義仲
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手塚太郎光盛は信州上田の手塚地区本拠地としていた、先祖は諏訪神社下社の神職という、討ち取った武将が義仲将軍の命の恩人の実盛とわかり、沈み込む光盛。
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樋口次郎兼光、2歳の駒王丸(義仲)が預けられた木曽の樋口兼遠の長男で駒王丸(義仲)と一緒に育てられた、首を洗ってみると黒髪はみるみるうちに白髪に、「あなむざんやな~、実盛にて候」と号泣した。
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実盛の兜を前に、悲しみにくれる手塚太郎光盛と樋口兼光の像。
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池のほとりには小高い丘(手塚山公園)が有ります、遊歩道を登ってみました。
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丘の上には神社と云うには小さな祠が有りました。
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近くで見ると祠は雨風で朽ちて見るも哀れな姿になっています、後でわかったのですが実盛を祀った神社のようです。
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扉は壊れていて中の様子が見えました、奥に石で造られた兜が無造作に置かれていました、首洗い池の実盛の霊を慰めるために造られた祠のようですが、あまりに荒れ果てた姿に芭蕉が現世にいたならば、ここで一句詠みそうな状景でした。
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首洗い池古戦場の休憩室には、壁に地元大聖寺高校元教諭の画家石田成瑜先生の「篠原の戦い絵詞」の絵巻が書かれています、とても分かりやすいのでアップします、説明文は絵の横に書かれていた通りですが、画像では文字が小さくなるので原文をそのままに書き加えました。
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12世紀の初頭まで、諸国の大半は平氏一門の支配下にありました、治承四年(1180)に、源頼朝や木曽義仲らが挙兵すると、能登や加賀でも平氏の支配下に不満を持つ者たちがあいついで兵をあげました。
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寿永二年(1183)加賀、越中の国堺の倶梨伽羅峠では、平氏の大群が、義仲の奇襲を受け大敗しました、勢いづいた源氏の軍勢は、北国街道を手取川から能美、江沼へと追いかけました。
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迎え撃つ平氏の軍勢は加賀篠原にかかる海浜の松林に陣を立て直し、義仲軍と決戦を図りました、しかし、義仲軍の勢いは予想以上に強く、しっかりとした布陣もできず四散しました。
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このとき、平氏の武将斎藤実盛は「この戦い、もはやこれまで」と、赤地錦の直垂(したたれ)、黒糸威しの鎧で着飾り、さらに老武者とあなどられては平氏の恥と白髪を黒く染めて出陣しました。
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敗走する兵士の軍勢の中で、ただ一騎踏みとどまった実盛は、義仲軍の武将、手塚太郎光盛の呼びかけに応じ、斬り合うこと数回、ついに手塚太郎の刀により討ち取られました。
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手塚太郎光盛とその仲間、樋口次郎兼光は、高貴な衣装を身に付けた黒髪の武将を不審に思い、近くの池でその首を洗ってみました、すると黒髪はたちまち白髪となりました、それはまぎれもなく平氏の武将斎藤実盛の姿でした。
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驚いた光盛と兼光は、その首をすぐに木曽義仲に差し出しました、義仲は、幼い頃、斎藤実盛に命を助けられたことを思い出し、さめざめと涙を流しました。
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義仲は、実盛の亡きがらを近くの松林に手厚く葬りました、かっての恩にすがることなく、その名を秘して武士らしく立派な最後を遂げた実盛は、現在もない多くの人々から畏敬の念で慕われています。
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義仲が実盛の亡骸を手厚く葬った場所は、ここ篠原の砂浜に続く松林だったようですが、現在の実盛塚は大きな道路から民家の間をぬけた砂浜の松林の中にあります。
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民家の裏は一面の松林が続いています、その昔、民家や道路もなくそこは絵巻に出てくるような砂浜の中の松林が広がっていたのでしょう。
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実盛を弔った実盛塚は、四方を石の塀で囲まれて一段高くなっています、塚の中には見事な枝ぶりの老松が茂っています、季節がらきれいに雪吊りがほどこされていました。
遠くから眺めると二つに分かれた松の幹が、実盛の菊唐草に鍬形の兜に似ています。
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戦国時代より後は、よほどのことが無いかぎり仕える主君を変えるような事がなかった時代ですが、実盛が生きた平安時代は地理的や政策的な判断から従う主君を変えることは珍しくない時代でした。

実盛も73年の生涯に時代の流れに翻弄され、主君を源義朝→源義賢→源義朝→平清盛→平宗盛と変えて生きてきました、その結果、最期は最初の仕えた義朝の子、頼朝や、一時仕えた義賢の忘れ形見で自らが命を助けた義仲と対峙して戦うことになったのです。

最期は義仲に恩を売ることなく、老将の哀れみを乞うことなく、その名を語ることなく、武士らしく散って行った斎藤別當実盛は現在でも武士の鑑として大衆から畏敬の念で語り継がれています。

実盛と芭蕉のゆかりの地を訪ねて 「多太神社」、「首洗い池と実盛塚」、これで終わります、わかりにくい記事でしたが、お終いまで読んで頂いて有難うございました。


※この記事を書くのにあたりフリー百科事典のウィキペディアや多太神社のパンフレットなどを参考にしました。






実盛と芭蕉ゆかりの地を訪ねてー多太神社

2015年01月25日 | インポート
平安時代の末期の治承四年(1180)から元歴二年(1185)にかけて六年間にわたる内乱がありました、世にゆう治承、寿永の乱です、後白河法皇の皇子以仁王(ともひとおう)の平家討伐の令旨に応じ、平清盛を中心とした平氏政権に対する反乱が各地で起こりました。

治承四年(1180)に信濃の国で挙兵した源義仲は破竹の勢いで信濃から北陸路に進軍して京を目指しました、これを阻止しようと寿永二年(1183)四月、平家は平維盛(たいらこれもり)を総大将とする10万騎の大群を北陸路に差し向けました。

両軍が越中と加賀の国堺の倶梨伽羅峠(砺波山)で対峙しました、世にゆう倶梨伽羅峠の戦い(砺波山の戦い)です、倶梨伽羅峠の古戦場を訪ねたblogは 2011/12のhttp://naka-go.at.webry.info/201112/article_3.htmlをご覧になって下さい。
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この戦いで大敗した平維盛軍は10万の軍勢の大半を失い、総崩れとなって西に敗退しました。
そして加賀の国の江沼の篠原で残った軍勢を再陣して対峙したが義仲軍の勢いにかなわず総崩れとなって敗走した、これが世に云う篠原の戦いです。

このときに唯一騎踏みとどまった武将が居ました、その武将は錦の直垂(したたれ、鎧の下に着る着物)を着用して火縅の鎧(ひおどしのよろい)、菊唐草の鍬形の兜のいで立ちに、対峙した手塚太郎光盛は、みなりからすると唯物の武将ではないし、身分の高い武将にしては傍に従う家来の武将もいないけれど、”きっと名のある武将に違いない”光盛は名乗りあげてから相手の武将に名乗るように即しました、「いかなるお方か、名乗られよ」しかしその武将は「わけあって名乗られんが、木曽殿はご存じである」といって名乗りませんでした。
そしてその武将は手塚太郎光盛にうたれました、うちとった武将の首を池で洗ったら黒髪を染めていた墨が落ちて白髪がに変わりました、実盛を知る樋口{中原)兼光は「あな無残やな、実盛公にあらせられるぞ」、実盛公は、かって幼い義仲将軍の命を救った恩人で、老いた身を侮られまいと白髪を染めていました。
義仲将軍は人目をはばからず涙の対面の後、懇ろ(ねんごろ)に弔いその兜と着具を多太八幡宮に納めました、ときに実盛公は73歳の老齢であった。


現在の小松市街にある多太神社の鳥居と参道、喧騒な街中から少し外れた場所にあって、普段はあまり訪れる人もなく私が行った時も、他の参拝者には会いませんでした。
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参道の入り口に石造りの兜のモニュメントと由緒書きが有ります。
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参道の途中に松尾芭蕉翁の石像と実盛の兜の句を詠んだ「吟」の石碑。
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奥の参道には斎藤別當実盛石蔵が有ります、左手に鏡を持ち右手には筆を持っています、篠原の戦の出陣前に髪や髭を染めている姿でしょう。
実盛公は出身は越前の国(福井県)河合の庄ですが、13歳のときに同族で武蔵の国(埼玉県)の長井の庄の斎藤実直の養子になって、のちに斎藤別當実盛と名乗って、源義朝の配下になります。
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実盛公縁起と題して、実盛公の生い立ちが記された石碑が建っていました。
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参道に芭蕉の詠んだ句碑の石碑がありました、「むざんやな 甲の下の きりぎりす」の名句です、 義仲が実盛の兜をこの多太神社に納めたのが寿永2年(1183年)、芭蕉が奥の細道の道中に此の地を訪れたのは、元禄2年(1689年)と大凡500年後になります。
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神社の正面です、右に皇紀2675年、左に鎮座1512年の掛札が掛かっていいます。
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手水舎の水盤には加賀百万石の梅鉢の紋どころが彫られていました。
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芭蕉と曽良の一行が多太神社に詣でたのは元禄二年(1689)七月二十五日(新暦九月八日)になります。
今からおおよそ320年前になりますが、その折にそれぞれ次の句を奉納しています。

あなむざん甲のしたのきりぎりす   芭蕉
幾秋か甲にきへぬ鬢(びん)の霜   曽良

神社の片隅に芭蕉が奉納した頃の句碑が建っていました、石碑には「あなむざん 甲のしたの きりぎりす」と彫られています。
初めは実盛の首実検ををした樋口兼光がはっした「あな無残やな 実盛公にあらせられるぞ」から 「あなむざん 甲のしたの きりぎりす」と詠っていましたが、芭蕉が途中から「むざんやな 甲のしたの きりぎりす」に直しています。
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多太神社の宝物館です、宝物館の前で一輪車で砂を運んでいる方が居ました、goがいろいろと神社の事を尋ねると、ガラ携をとりだし、何処かに電話をしています、会話を聞いていますと「あんた今忙しいけ、此処に熱心に興味を持った人が来ておられるんで、来て説明してくれんけ」と電話していました、電話を切った其の人は「かあちゃんが車に乗って出掛けちゃったので今から歩いてきますので、5分ほど待って下さい」といって、作業を続けていました。
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三分ほど待つと1人の方が急ぎ足で参道の方からやってきました、お忙しいところを来ていただいて有難うと挨拶をしてお話を聞くと、この宝物館の管理をなされているお方でした。
宝物館のカギを開けて準備をしてから、中を観覧させて頂きました、正面のガラスケースの中には金色に輝く兜が展示されていました、斎藤別當実盛公敬仰会が奉納された実物大のレプリカでした。
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甲の横には松平定信が編集した「集古十種」の写本が有りました。
集古十種は古美術や骨とう品を十種のジャンルに分けた木版図録集です、其の図録集の兜甲冑の項に実盛の兜が掲載されています。
編集された年代は寛政12年(1800)です、芭蕉が多太神社を訪ねたのは元禄二年(1689)年ですので集古十種が編集されるおおよそ110年前です、芭蕉が訪れた時の兜はこの絵の様な状態であったと推定されます、芭蕉も朽ちた兜の姿に栄枯盛衰の哀れみを感じて句を詠んだと思います。
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兜についての説明を聞いた後に、奥の遮光カーテンを開けて本物の兜を見せて頂きました、フラッシュを光らせないと云う事で写真をとらせて頂きました。
神社のパンフレットの説明によると、
重文 実盛之兜 中央の祓立には八幡大菩薩の神号を浮き彫りする。
高さ15.2㎝ 鉢廻り71.2㎝ 総体廻り139.4㎝ 重さ4.4㎏
 
集古十種の図の様な状態からのちに修復をされていますが着用したときに耳の所にくる吹き返しの部分は、革の上に錦の絹布を貼ってあったと思われますが、絹布が剥がれて下の革が見えた状態です、説明によると先の大戦の折に、軍による金属供出の省令は寺社にも例外が無く、釣鐘等も供出させられた話を良く聞きます、その時に由緒あるこの兜を守ろうと蝋紙に包んで地中に埋めて隠したそうです、そのために保存状態が悪く傷んだようです。
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甲のほかに左右のケースには実盛が最期に着用していた錦の直垂(したたれ、兜の下に着る着物)と手前には金属製の臑当(すねあて)が展示されていました。
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こちらの陳列ケースには南無阿弥陀仏と書かれた塔婆の様な板が古いものから並べて展示されています、これは室町時代の応永二十一年(1414)に加賀の国江沼の潮津(現石川県加賀市潮津)で七日七夜の別時念仏を催した4日目のこと、滞在布教中の時宗の遊行14世太空のもとに白髪の老人が現われ、十念を受けて諸人群衆の中に姿を消したということです。
これは実盛の霊が迷っているのだと思って、遊行太空上人は多太神社の兜を供養されました。
其の時以来、時宗の総本山神奈川県藤沢市清浄光寺(遊行寺)の歴代の遊行上人が多太神社を参っています、その時に奉納された南無阿弥陀仏と記された板を展示してありました。
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こちらの展示は加賀藩からの奉納品が展示されていました、神社の由緒書きによると、加賀藩三代藩主前田利常は、寛永十七年(1640)に社地を寄進し、慶安二年(1649)の制札(規則や決まり事を書いた立て札をお寺や神社に建てること)には、能美郡全体の総社に制定し、能美郡総中として神社の保護と修理にあたるべきことを決めています。
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奉納された前田中納言利家所蔵した長刀(なぎなた)と前田利常の束帯着用時に使用する笏(しゃく、板状の物)
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宝物館をみせて頂いてから帰るときにおせんべいを頂きました、おせんべいには実盛の甲の焼印が押されていました。
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日和を見てふらっと来た多太神社で実盛や芭蕉にまつわる事を沢山知る事が出来ました、特に思いがけなく宝物館を見せて頂いて詳しい説明を聞くことが出来て今日は大いなる収穫です、突然訪問したにも関わらず、お忙しい中をわざわざ歩いて来ていただいた係りの方に心より感謝します、ありがとうございます。

実盛と芭蕉ゆかりの地を訪ねての次回の記事は首洗い池と実盛塚を書く予定です、ご訪問ありがとうございます。

※この記事を書くのにあたりフリー百科事典のウィキペディアや多太神社のパンフレットなどを参考にしました。







合掌の郷、冬景色ー五箇山菅沼集落

2015年01月13日 | インポート
2015年の正月が明けたと思ったら早くも1月中旬になりました、東北や北陸の豪雪地帯ではすでに3mを超える積雪が有るようです、今日紹介する富山県南砺市の五箇山も積雪の多い地域です、雪国独特の雪下ろしの必要のない急こう配の合掌造りで知られている地域です、昔は養蚕を営んでいた関係で2階と天上裏の3階を備えた大きな家が多くあります、もう一つ、家が大きい訳は2世代、3世代の大家族で生活していた事も起因しているようです。
現在でも合掌作りの家が集落ごとに集まっています、それは雪の多いこの地域の自然環境に最適な建物だからです。
岐阜県の白川地区と五箇山地区の合掌の集落は、1995年12月にユネスコの世界遺産に登録されています、日本では6件目の登録になっています。
世界遺産に登録された地域の住民は現在も合掌造りの家を生活の場にしているのです。

今日ここで紹介する写真は2004年の1月に菅沼集落を写したものです、その頃は真冬でもカメラを持って出掛けていましたが、最近では日和をみて出掛ける様にしていますので、寒い時期の写真は以前に撮影した映像を利用させて頂いております。


菅沼集落は山あいを流れる庄川と並行して走る国道156号線沿いに有ります、この集落には合掌造りの建物が9棟有ります。
国道と庄川の小原ダム湖との間の菅沼集落は、国道から見ると一段低い位置になりますので集落の様子が良くわかります。

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手のひらを合わせて合掌するような形の合掌造りは、雪国に対応するように茅葺で勾配がきつい為、積もった雪が自然に下に落ちて建物を守ります。
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建物の2階,3階の明りとりの窓はすべて障子になっています、障子だけで外と隔てています、雨戸やサッシは有りません、私も障子だけの家に住んだ経験上、和紙で張られた障子は、はた目で見るより保温性が有ります。
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家の周囲を萱や波板で雪囲いをして屋根から落ちた雪から守っています。
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この季節には出歩く人影も有りませんが、幼児の手をひいて歩いている方がいましたので写させて頂きました。
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雪の中の生活が3カ月ほど続きます。
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五箇山の合掌集落は、ここより山手に入った所に相倉集落が有ります、相倉集落は合掌造りの建物が24棟有ります、この地区の人達は冬の間の3か月ほどは雪の中で生活しますが、現在では道路事情も良くなったのと除雪機による除雪もされますので車が使えるのでさほど不便はないと思いますが、徒歩による以外に交通の便が無かった時代に自給自足の生活は大変だったと思います。








今日は特別におまけが付きます、
地元石川県の星陵高校が第93回全国高校サッカー選手権大会で輝く優勝をしました、おめでとうございます
それぞれの地元大会を勝ち抜いた全国48校の頂点にたちました、これまで選手を指導された監督が交通事故により不在の中で、選手一人ひとりがそれぞれの持ち場で最大限努力した賜だと思います。

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雪が多い事で知られている石川県も今日までは例年に比べて雪が少ないようです、皆様の所はいかがでしょうか、1月20日の大寒を過ぎて2月4日の立春が待ち遠しい季節です、全国的にインフルエンザが流行しています、手洗いやうがいの励行でインフルエンザにかからないように注意してお過ごしください。
ご訪問ありがとうございます。






白山(しらやま)さんへ初詣

2015年01月06日 | インポート
北陸のお正月三が日は雪と風で荒れ模様のお天気でしたが昨日は何日ぶりかの青空の良い天気でした、毎年、2日に白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)へ初詣に参るのですが今年は昨日の5日に行って来ました。
例年のように手取川を挟んだ道の駅に車を停めてそこから歩いて神社に向かいました。
道の駅から神社までは歩いて約12~3分程かかります、手取川に架かる200mほどの長い歩道橋を渡って神社に向かいます、橋の下には白山を源流として流れる手取川の青々とした流れが見えました。

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神社の鳥居の前にも何台か駐車できるようになっていますがすでに満車でした、こちらが表参道になるのですが人通りはまばらでした、歩くのが嫌な人は直接神社の横の駐車場まで渋滞で時間がかかっても行くようです。
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長い坂道の参道が続きます、参道の途中の手水舎で清めてから石段を登って神社に行きました。
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神社の前は三ヶ日程の人ごみもなく参拝が済んだ人たちの焚き火を囲む姿もありました、今日は仕事始めの日の為でしょうか、紺のスーツにネクタイ姿の何人かのグループも参拝していました。
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帰りの表参道の店舗では甘酒を店先に並べて販売していました。
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白山比咩神社は白山麓の入り口の鶴来に有ります、参拝が済んでから白山麓のセイモアスキー場の近くの「おぼこ水」に水を汲みに行きました、スキー場は例年より雪が少ないようでした、リフトは運転していましたが、駐車場の車の台数に比べて滑っている人の姿が少なく感じました、雪が少ないので上の方のコースで滑っているのでしょうか。
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今日の午前中の気温が12℃もありました、この時期としては異常なほど高い気温です、先ほどから雨に混じって強い季節風(西風)が電線を鳴らしています、予報によると今週中ごろから強い寒波に見舞われて雪や北風で荒れた天気が続くようで、本格的な冬はこれからのようです。

ご訪問ありがとうございます。
     (勝手ながらコメント欄は閉じさせて頂きます)





年賀

2015年01月01日 | インポート
新年明けましておめでとうございます

  皆様方にはお変わりなくお過ごしのことと思います
  本年も宜しくお願いします

 ご来光(2012/07/24 燕岳にて
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                 獅子頭(2012/04/24 パーク獅子吼ワールド館
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