1月21日の首洗い池、このシーズンは殆ど訪れる人もなく、水面に映る冬枯れの梢と岸辺の枯れた芦が静かな水辺をいっそう閑散としています。
今から、さかのぼること830年前の寿永二年に、この地で今日まで語りつがれるドラマが有ったことを忘れたかのように静まり返った水面が青くしずんでいます。
池のほとりに石碑がひっそりと立っています。
芭蕉の句碑です、 ”むざんやな 兜のしたの きりぎりす” 多太神社の実盛の兜を見て詠んだ句です。
池の中”首洗い池”の石柱が立っています。
人影のない池の向こうに当時を偲ぶ義仲主従の銅像が
実盛と義仲、二人の運命の糸はどこで繋がったのでしょうか。
相模の国(神奈川県)を本拠地とする源義朝と上野の国(群馬県)に進出してきた弟の義賢の両勢力が対峙していた、実盛の武蔵の国長井の庄(埼玉県熊谷)はその二勢力の間の緩衝地帯にあった、実盛は初めは義朝に従っていましたが、地理的や政策的な判断から義賢にご機嫌伺いをするようになりました。
こうした武蔵衆の動きに危機感を感じた義朝の子、源義平は義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)。
実盛は再び義朝、義平父子の直々の家来に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れていませんでした、義平から義賢の遺児で2歳の駒王丸を殺害するように命令されていた畠山重能から駒王丸を預かり、駒王丸の乳母の郷の信濃の国の中原兼遠のもとに送り届けて逃がしました。
この駒王丸こそ後の旭将軍、木曽義仲であります、木曽義仲にとって実盛は命の恩人であります。
実盛は源義朝の忠実な武将として、保元の乱、平治の乱には上洛して奮戦しますが、義朝が滅亡した後は、自領の武蔵の国に落ち延びて、それから以後は平氏に仕え、その後、源頼朝が挙兵した後も平氏方にとどまり、かつては同じ源氏方の木曽義仲と敵味方で戦うことになりました。
総崩れとなった平家軍の中でただ一騎残った実盛は、「この戦、もはやこれまで」と、日頃より最期は若々しく散りたいと言っていた実盛は、髭や髪の毛を墨で染め、平宗盛より拝領の錦の直垂(したたれ)に、げに平氏のものにあらずの菊唐草に鍬形の兜に、火威しの鎧のいで立ちで出陣しました、手塚太郎光盛の呼びかけに応じて決戦に挑みました、馬上で何回か刃を交えたそのときに実盛の馬が稲の切り株につまずき体制を崩してひるむそのときに手塚光盛の刃が実盛を討ち取りました、時に実盛公は七三歳の老齢と云う。
打ち取った武将が命の恩人の実盛とわかって悲しむ義仲主従
実盛の首を抱いて悲しむ義仲
人目をはばからず涙を流して悲しむ義仲
手塚太郎光盛は信州上田の手塚地区本拠地としていた、先祖は諏訪神社下社の神職という、討ち取った武将が義仲将軍の命の恩人の実盛とわかり、沈み込む光盛。
樋口次郎兼光、2歳の駒王丸(義仲)が預けられた木曽の樋口兼遠の長男で駒王丸(義仲)と一緒に育てられた、首を洗ってみると黒髪はみるみるうちに白髪に、「あなむざんやな~、実盛にて候」と号泣した。
実盛の兜を前に、悲しみにくれる手塚太郎光盛と樋口兼光の像。
池のほとりには小高い丘(手塚山公園)が有ります、遊歩道を登ってみました。
丘の上には神社と云うには小さな祠が有りました。
近くで見ると祠は雨風で朽ちて見るも哀れな姿になっています、後でわかったのですが実盛を祀った神社のようです。
扉は壊れていて中の様子が見えました、奥に石で造られた兜が無造作に置かれていました、首洗い池の実盛の霊を慰めるために造られた祠のようですが、あまりに荒れ果てた姿に芭蕉が現世にいたならば、ここで一句詠みそうな状景でした。
首洗い池古戦場の休憩室には、壁に地元大聖寺高校元教諭の画家石田成瑜先生の「篠原の戦い絵詞」の絵巻が書かれています、とても分かりやすいのでアップします、説明文は絵の横に書かれていた通りですが、画像では文字が小さくなるので原文をそのままに書き加えました。
12世紀の初頭まで、諸国の大半は平氏一門の支配下にありました、治承四年(1180)に、源頼朝や木曽義仲らが挙兵すると、能登や加賀でも平氏の支配下に不満を持つ者たちがあいついで兵をあげました。
寿永二年(1183)加賀、越中の国堺の倶梨伽羅峠では、平氏の大群が、義仲の奇襲を受け大敗しました、勢いづいた源氏の軍勢は、北国街道を手取川から能美、江沼へと追いかけました。
迎え撃つ平氏の軍勢は加賀篠原にかかる海浜の松林に陣を立て直し、義仲軍と決戦を図りました、しかし、義仲軍の勢いは予想以上に強く、しっかりとした布陣もできず四散しました。
このとき、平氏の武将斎藤実盛は「この戦い、もはやこれまで」と、赤地錦の直垂(したたれ)、黒糸威しの鎧で着飾り、さらに老武者とあなどられては平氏の恥と白髪を黒く染めて出陣しました。
敗走する兵士の軍勢の中で、ただ一騎踏みとどまった実盛は、義仲軍の武将、手塚太郎光盛の呼びかけに応じ、斬り合うこと数回、ついに手塚太郎の刀により討ち取られました。
手塚太郎光盛とその仲間、樋口次郎兼光は、高貴な衣装を身に付けた黒髪の武将を不審に思い、近くの池でその首を洗ってみました、すると黒髪はたちまち白髪となりました、それはまぎれもなく平氏の武将斎藤実盛の姿でした。
驚いた光盛と兼光は、その首をすぐに木曽義仲に差し出しました、義仲は、幼い頃、斎藤実盛に命を助けられたことを思い出し、さめざめと涙を流しました。
義仲は、実盛の亡きがらを近くの松林に手厚く葬りました、かっての恩にすがることなく、その名を秘して武士らしく立派な最後を遂げた実盛は、現在もない多くの人々から畏敬の念で慕われています。
義仲が実盛の亡骸を手厚く葬った場所は、ここ篠原の砂浜に続く松林だったようですが、現在の実盛塚は大きな道路から民家の間をぬけた砂浜の松林の中にあります。
民家の裏は一面の松林が続いています、その昔、民家や道路もなくそこは絵巻に出てくるような砂浜の中の松林が広がっていたのでしょう。
実盛を弔った実盛塚は、四方を石の塀で囲まれて一段高くなっています、塚の中には見事な枝ぶりの老松が茂っています、季節がらきれいに雪吊りがほどこされていました。
遠くから眺めると二つに分かれた松の幹が、実盛の菊唐草に鍬形の兜に似ています。
戦国時代より後は、よほどのことが無いかぎり仕える主君を変えるような事がなかった時代ですが、実盛が生きた平安時代は地理的や政策的な判断から従う主君を変えることは珍しくない時代でした。
実盛も73年の生涯に時代の流れに翻弄され、主君を源義朝→源義賢→源義朝→平清盛→平宗盛と変えて生きてきました、その結果、最期は最初の仕えた義朝の子、頼朝や、一時仕えた義賢の忘れ形見で自らが命を助けた義仲と対峙して戦うことになったのです。
最期は義仲に恩を売ることなく、老将の哀れみを乞うことなく、その名を語ることなく、武士らしく散って行った斎藤別當実盛は現在でも武士の鑑として大衆から畏敬の念で語り継がれています。
実盛と芭蕉のゆかりの地を訪ねて 「多太神社」、「首洗い池と実盛塚」、これで終わります、わかりにくい記事でしたが、お終いまで読んで頂いて有難うございました。
※この記事を書くのにあたりフリー百科事典のウィキペディアや多太神社のパンフレットなどを参考にしました。
今から、さかのぼること830年前の寿永二年に、この地で今日まで語りつがれるドラマが有ったことを忘れたかのように静まり返った水面が青くしずんでいます。
池のほとりに石碑がひっそりと立っています。
芭蕉の句碑です、 ”むざんやな 兜のしたの きりぎりす” 多太神社の実盛の兜を見て詠んだ句です。
池の中”首洗い池”の石柱が立っています。
人影のない池の向こうに当時を偲ぶ義仲主従の銅像が
実盛と義仲、二人の運命の糸はどこで繋がったのでしょうか。
相模の国(神奈川県)を本拠地とする源義朝と上野の国(群馬県)に進出してきた弟の義賢の両勢力が対峙していた、実盛の武蔵の国長井の庄(埼玉県熊谷)はその二勢力の間の緩衝地帯にあった、実盛は初めは義朝に従っていましたが、地理的や政策的な判断から義賢にご機嫌伺いをするようになりました。
こうした武蔵衆の動きに危機感を感じた義朝の子、源義平は義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)。
実盛は再び義朝、義平父子の直々の家来に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れていませんでした、義平から義賢の遺児で2歳の駒王丸を殺害するように命令されていた畠山重能から駒王丸を預かり、駒王丸の乳母の郷の信濃の国の中原兼遠のもとに送り届けて逃がしました。
この駒王丸こそ後の旭将軍、木曽義仲であります、木曽義仲にとって実盛は命の恩人であります。
実盛は源義朝の忠実な武将として、保元の乱、平治の乱には上洛して奮戦しますが、義朝が滅亡した後は、自領の武蔵の国に落ち延びて、それから以後は平氏に仕え、その後、源頼朝が挙兵した後も平氏方にとどまり、かつては同じ源氏方の木曽義仲と敵味方で戦うことになりました。
総崩れとなった平家軍の中でただ一騎残った実盛は、「この戦、もはやこれまで」と、日頃より最期は若々しく散りたいと言っていた実盛は、髭や髪の毛を墨で染め、平宗盛より拝領の錦の直垂(したたれ)に、げに平氏のものにあらずの菊唐草に鍬形の兜に、火威しの鎧のいで立ちで出陣しました、手塚太郎光盛の呼びかけに応じて決戦に挑みました、馬上で何回か刃を交えたそのときに実盛の馬が稲の切り株につまずき体制を崩してひるむそのときに手塚光盛の刃が実盛を討ち取りました、時に実盛公は七三歳の老齢と云う。
打ち取った武将が命の恩人の実盛とわかって悲しむ義仲主従
実盛の首を抱いて悲しむ義仲
人目をはばからず涙を流して悲しむ義仲
手塚太郎光盛は信州上田の手塚地区本拠地としていた、先祖は諏訪神社下社の神職という、討ち取った武将が義仲将軍の命の恩人の実盛とわかり、沈み込む光盛。
樋口次郎兼光、2歳の駒王丸(義仲)が預けられた木曽の樋口兼遠の長男で駒王丸(義仲)と一緒に育てられた、首を洗ってみると黒髪はみるみるうちに白髪に、「あなむざんやな~、実盛にて候」と号泣した。
実盛の兜を前に、悲しみにくれる手塚太郎光盛と樋口兼光の像。
池のほとりには小高い丘(手塚山公園)が有ります、遊歩道を登ってみました。
丘の上には神社と云うには小さな祠が有りました。
近くで見ると祠は雨風で朽ちて見るも哀れな姿になっています、後でわかったのですが実盛を祀った神社のようです。
扉は壊れていて中の様子が見えました、奥に石で造られた兜が無造作に置かれていました、首洗い池の実盛の霊を慰めるために造られた祠のようですが、あまりに荒れ果てた姿に芭蕉が現世にいたならば、ここで一句詠みそうな状景でした。
首洗い池古戦場の休憩室には、壁に地元大聖寺高校元教諭の画家石田成瑜先生の「篠原の戦い絵詞」の絵巻が書かれています、とても分かりやすいのでアップします、説明文は絵の横に書かれていた通りですが、画像では文字が小さくなるので原文をそのままに書き加えました。
12世紀の初頭まで、諸国の大半は平氏一門の支配下にありました、治承四年(1180)に、源頼朝や木曽義仲らが挙兵すると、能登や加賀でも平氏の支配下に不満を持つ者たちがあいついで兵をあげました。
寿永二年(1183)加賀、越中の国堺の倶梨伽羅峠では、平氏の大群が、義仲の奇襲を受け大敗しました、勢いづいた源氏の軍勢は、北国街道を手取川から能美、江沼へと追いかけました。
迎え撃つ平氏の軍勢は加賀篠原にかかる海浜の松林に陣を立て直し、義仲軍と決戦を図りました、しかし、義仲軍の勢いは予想以上に強く、しっかりとした布陣もできず四散しました。
このとき、平氏の武将斎藤実盛は「この戦い、もはやこれまで」と、赤地錦の直垂(したたれ)、黒糸威しの鎧で着飾り、さらに老武者とあなどられては平氏の恥と白髪を黒く染めて出陣しました。
敗走する兵士の軍勢の中で、ただ一騎踏みとどまった実盛は、義仲軍の武将、手塚太郎光盛の呼びかけに応じ、斬り合うこと数回、ついに手塚太郎の刀により討ち取られました。
手塚太郎光盛とその仲間、樋口次郎兼光は、高貴な衣装を身に付けた黒髪の武将を不審に思い、近くの池でその首を洗ってみました、すると黒髪はたちまち白髪となりました、それはまぎれもなく平氏の武将斎藤実盛の姿でした。
驚いた光盛と兼光は、その首をすぐに木曽義仲に差し出しました、義仲は、幼い頃、斎藤実盛に命を助けられたことを思い出し、さめざめと涙を流しました。
義仲は、実盛の亡きがらを近くの松林に手厚く葬りました、かっての恩にすがることなく、その名を秘して武士らしく立派な最後を遂げた実盛は、現在もない多くの人々から畏敬の念で慕われています。
義仲が実盛の亡骸を手厚く葬った場所は、ここ篠原の砂浜に続く松林だったようですが、現在の実盛塚は大きな道路から民家の間をぬけた砂浜の松林の中にあります。
民家の裏は一面の松林が続いています、その昔、民家や道路もなくそこは絵巻に出てくるような砂浜の中の松林が広がっていたのでしょう。
実盛を弔った実盛塚は、四方を石の塀で囲まれて一段高くなっています、塚の中には見事な枝ぶりの老松が茂っています、季節がらきれいに雪吊りがほどこされていました。
遠くから眺めると二つに分かれた松の幹が、実盛の菊唐草に鍬形の兜に似ています。
戦国時代より後は、よほどのことが無いかぎり仕える主君を変えるような事がなかった時代ですが、実盛が生きた平安時代は地理的や政策的な判断から従う主君を変えることは珍しくない時代でした。
実盛も73年の生涯に時代の流れに翻弄され、主君を源義朝→源義賢→源義朝→平清盛→平宗盛と変えて生きてきました、その結果、最期は最初の仕えた義朝の子、頼朝や、一時仕えた義賢の忘れ形見で自らが命を助けた義仲と対峙して戦うことになったのです。
最期は義仲に恩を売ることなく、老将の哀れみを乞うことなく、その名を語ることなく、武士らしく散って行った斎藤別當実盛は現在でも武士の鑑として大衆から畏敬の念で語り継がれています。
実盛と芭蕉のゆかりの地を訪ねて 「多太神社」、「首洗い池と実盛塚」、これで終わります、わかりにくい記事でしたが、お終いまで読んで頂いて有難うございました。
※この記事を書くのにあたりフリー百科事典のウィキペディアや多太神社のパンフレットなどを参考にしました。