go の let's goシニア

リタイヤ・・何でもヤリタイヤ
登山、渓流釣りを卒業して四季の花を愛でています

さらば2011、ありがとう2011

2011年12月31日 | インポート
今年は東日本大震災があって日本の国が何百年、何千年に一度の国難の年になりました。
そんな中で、この老僕が何もなかった様な日々を過ごさせて頂いています、有り難いやら被災した皆さんに申し訳ない気持ちで一杯の年でした。
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どうか神様、愛する家族を失って今も仮設住宅で暮らしている人に慰めの光で照らして生きる力を与えてください。
私のつたない記事に声援を送ってくださった皆さんに改めてお礼を申し上げます、ありがとうございました。


積雪、速報(25日正午現在)

2011年12月25日 | インポート
遂に降りました、クリスマス前から天気予報では北陸は大雪になる予報でしたがイブの夜にも雪がなく安心していました。ところが今朝、7時ごろから降り出して見る間に10cmぐらい積もりました。私の住んでいる地区は比較的海に近いのであまり積もっていませんが、金沢の兼六園や寺町あたりの高台ではここの倍ぐらい積雪が有ると思います。

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以前は庭の松の木は家内と2人で何日かかけて雪吊りをしていましたが、2年ほど前から高い木に登るのが危なくなってきたので雪吊りは省略しています、その分、雪の朝は竹ざおで松の枝の雪を落としています。
今日ぐらいの積雪では枝の雪を落とす程ではないのですが、明日の朝には出動しなくてはならないようです。


思い出のSL その後記

2011年12月23日 | インポート
若かりし頃の一時代、SLに魅せられてカメラを担いで友人と撮影に飛びまわっていた時代が有りました。
その頃は今日のように「撮り鉄」と称する人は少なかったので、沿線でカメラを構える人は僕たちの他にあまりいませんでした。私がSLの写真を撮影していたころは、戦後の復興期から昭和30年代にかけて日本の発展のために走り続けたSLが昭和30年代後半から40年代にかけて、合理化、近代化のために廃止されてゆく運命の時代でした。
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1968(昭和43)年飯山線を走る18688 この機関車は8620型(ハチロク型)としてかなり多くの機関車が日本全国で走っていました。
写真の18688は1919(大正8)年に汽車製造大阪工場で産声を上げました。
その後各地を転々として1963(昭和38)年に長野機関区に転属になり1971(昭和46)年まで飯山線を走り続けました。長野を引退して廃止処分になり銚子市の市立体育館前に展示されていましたが、2002(平成14)年に解体処分になりました。その当時の写真を見ましたら、赤錆びの体が痛々しい。
(18688保存車 検索 を参照)
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1968(昭和43)年小海線を走るC1266 ローカル線用に開発された機関車です、煙突が長く、アメリカ西部開拓時代の機関車を想わせる風貌をしています。
このC1266は1933(昭和8)年に日立製作所笠戸工場で生産されました。
各地転属になって、1944(昭和19)年に長野県上諏訪機関区に転属になり小海線を走りました。
日本の鉄道で海抜の一番高い路線の小海線を走るのは彼にとってハードワークだったと思います。
1972(昭和47)年まで小海線を走り続けたのですがディーゼル車両に切り替えの為、廃止となり展示の目的で会津若松へ転送され、1990(平成2)年まで会津若松で保存展示していましたが、JR大宮工場で復原され息を吹き返しました。
彼は今でも走りつづけています、立派に変身して、この頃の真っ黒になって走っていた姿とは別人のようになって。
平成6年より栃木県真岡鉄道で現役で活躍しています。著作権の問題もあり彼の活躍している雄姿はお見せできませんが  (C1266検索または真岡鉄道(モウカテツドウ)検索で彼の雄姿を見てください)
彼は現在78歳です、私より大先輩でまだ現役です、わたしは現役引退して保存展示中ですが、廃止解体処分もまじかです。

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飯山線をを走るC56109型、峠の前で撮影して峠道を猛スピードで車を運転して峠の反対側のトンネルの出口でギリギリとらえた一コマです。
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その頃、使用していたカメラと望遠レンズ、トプコンREスーパーとオートトプコール200mmの望遠レンズその他です
トプコンブランドは東京光学が製造していましたがカメラ部門が撤退して久しく、現在は販売していません。
その頃の安給料ではカメラを買うことができず、夏のボーナスをはたいて購入した思い出が有ります、今でも私の宝物として大切に保存しています。





倶梨伽羅峠 歴史街道を行く(2)

2011年12月18日 | インポート
その2、倶梨伽羅不動寺

富山県と石川県をつなぐ国道8号線の県境に倶梨伽羅トンネルが有ります、全長約1kmのトンネルです。
この国道より峠道に入り天田峠を越して旧北陸道の街道に入ります。古代より北陸道の砺波峠とよばれていたようですが、倶梨伽羅不動寺が開山してからこの地を倶梨伽羅峠と呼ぶようになったと伝えれれています。
倶梨伽羅不動寺は、成田不動尊(千葉県)と大山不動尊(神奈川県)とともに日本三大不動尊の一尊といわれています。

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倶梨伽羅不動寺への階段、倶梨伽羅不動寺は奈良時代の初期の養老2年(718)に中国より渡来したインドの高層が村人や旅人に災いをかける魔物を退治するために倶梨伽羅竜王に頼み、その不動明王を祀って開山したと伝えられています。

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境内へ通ずる階段の途中に水かけ不動尊が祀られています、案内の立て札には、ご本尊にお詣りする前に自分の身代りに不動尊に水をかけ、身も心も清めてからお詣りするようにと書かれていました、私も不動尊に水をかけて手を合わせました。

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倶梨伽羅不動寺の境内と五重の塔、この時期に訪れる人が少なく、般若心経の読経の声が閑散とした境内に流れていました。毎月25日の縁日の護摩法要、お花見には参拝客が多いのですが、特に正月の初詣の時は石川県や富山県の信者で込み合って狭い峠道を交通規制するほどです。

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峠で一番標高の高い国見山より伽藍を望む、

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峠より金沢方面を望む、今日は遠くがかすんでいますが天気の良い日には加賀平野の向こうに日本海まで見渡せます。

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参道に住職の揮毫で意味ありげな言葉が刻まれた石碑が有りました、意味がよくわからず帰ってから調べたら一休禅師の詠んだものだと解りました。

極楽は西にあれども、東にも、北道(来た道)さがせ、南(皆、身)にぞある

北道=来た道、 南=皆、身
さすが一休禅師の掛け言葉です。

極楽浄土は仏教の教えでは西にあるといいますが、東にも北にも南にも極楽はありますよ、
自分の来た道を探してみなさい、皆、身、自分の心の中にあります、自分の心の持ちよう次第と教えています。

何気なくドライブに行ったところで何かと教えられることが有りました、これも不動尊の御利益かも知れません。



倶梨伽羅峠、歴史街道を行く(1)

2011年12月15日 | インポート
その1、源平合戦 ”倶梨伽羅峠(クリカラトウゲ)の戦い

雨と風のち雷、先週からの北陸はそんな天気でした。今日13日は久しぶりに青空がのぞく好天に恵まれました、最近は家に籠ってばかりで山にも行けない日が続いていましたので気晴らしにドライブに出かけました。
倶梨伽羅峠は金沢から30~40分で、石川県と富山県の県境になります。

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倶梨伽羅峠(砺波峠)は古代より北陸道とよばれ越中の国(富山県)と加賀の国(石川県)をつなぐ大事な街道が通っていました、峠に上る道は急勾配の曲がりくねった道が続いています、道の端には桜並木が続いています。
この峠の桜は八重桜で約7000本も植えられているそうです、この桜を植えた人は”昭和の花咲爺さん”とよばれた高木勝己さん、高木さんは倶梨伽羅峠で車もろとも崖下に転落する大事故にあいました、ところが奇跡的に怪我もなく倶梨伽羅不動さんの木の御守りが真二つに割れていたそうです。それから倶梨伽羅不動さんに続く峠に桜を植えたと伝えられています。
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八重桜は開花時期が遅いのと、ここ倶梨伽羅峠は加賀平野より海抜が高いので5月ゴールデンウィークの頃に見頃になります。(小矢部市広報より)


倶梨伽羅峠は源平の古戦場として有名です、平安時代の末期の寿永2年(1183)に以仁王の平家追討の命に応じて信州木曽山中で兵を挙げた源義仲(木曽義仲)は、京都をめざして北陸路を進軍、これを阻止しようと平家は平維盛を総大将とする10万の大軍を北陸路に差し向けました。義仲軍は越前の国(福井県)の火打城の戦いで敗れ、越中の国(富山県)へ後退を余儀なくされ、これを追う平家軍と倶梨伽羅峠で合戦になりました。
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古戦場を記す石碑
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平家軍の本陣跡
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平家本陣軍略図
寿永2年5月11日平家軍が寝静まった夜半に義仲軍4万の兵は平家軍に夜襲をかけた、400~500頭の牛の角に松明をつけた火牛を放って突撃、太鼓を鳴らし、ホラ貝を吹き鬨の声上げて平家軍に突入した。長旅でまどろんでいた平家軍は総崩れになり1万8千騎余りが倶梨伽羅の深い地獄谷になだれのように落ち込み谷を埋め尽くしたと源平盛衰記に記されているそうです、これが源平合戦で有名な”火牛の計”である。
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火牛のモニュメント(小矢部市広報より)
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この地は冬には日本海からの季節風をまともに受けてかなりの積雪が有るのでこの時期の火牛のモニュメントは藁で丁寧に包んで雪に備えていた。
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源平合戦の案内図、巴軍とあるのは義仲の愛妾で巴御前率いる軍団で、巴御前は勇敢な武将でもあった。
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源氏、平氏の霊を供養する供養塔
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平為盛塚、倶梨伽羅の戦いで総大将の平維盛の武将として出陣、5月11日の源氏の夜襲で敗れ、加賀の国に逃れ翌12日に未明手兵50騎をひきいて源氏軍を襲ったが源氏の武将に首をはねられた、勇敢な為盛を弔うための鎌倉時代に立てられた五輪の塔で、地、水、火、風、空を表しているといわれています。
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木曽義仲軍が陣を布いた黒坂口を見下ろす、源氏の笹竜胆(ササリンドウ)家紋の入った白旗なびくところ。
この戦いで大勝した源義仲は京に向けて進軍し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家は安徳天皇を伴って京より西国に落ち延びたと伝えられています。
さて、さてここで皆さん質問です、源氏の旗は白地に笹竜胆(ササリンドウ)、平家の旗は赤地に何の紋章でしょうか?(一部地域の平氏で違いが有りますが代表的な)