go の let's goシニア

リタイヤ・・何でもヤリタイヤ
登山、渓流釣りを卒業して四季の花を愛でています

金沢くらしの博物館

2016年12月26日 | インポート
金沢くらしの博物館は以前にも何回か記事にした事が有りますが、昨年より耐震改修の為に約1年間お休みをしていました、10月9日にリニューアルオープンしたので12月19日に訪問してきました。
改修前は無料で見学が出来ましたが、リニューアルオープンの後は入場料が掛かるようになりました、普通は大人¥300のところ、65歳以上の¥200を払って入場しました。
外観は以前とまったく変っていませんでした、建物全体写真を写したいのですが敷地内に大きな樹木が有って全体の撮影は無理ですので、入場券に建物全体の絵が載っていたので記事にのせました。

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門の正面から写しました、正面に入り口が有るのですが雪吊りをした大きな松の影に隠れて入口の玄関が見えません、松の木が正面のロータリーになっています。
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博物館の建物は明治32年(1899)完成の、「石川県第二中学校」(後に金沢二中)を再利用しています。
木造瓦葺き二階建ての入り組んだ屋根、玄関の車寄せ、上げ下げ窓、胴蛇腹、ランプ吊り、おが屑をつめた防音床など、明治時代の洋風木造学校建築の姿を今にとどめています。
左右両翼の銅板葺の尖塔と、正面玄関の上の屋根を尖塔と見立てて、学校時代から「三尖塔(さんせんとう)校舎」として親しまれてきました。(県有形文化財、暮らしの博物館パンフレットより)
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中に入ると中央に長い廊下が印象的でした、廊下に沿って昔の教室があります。
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現在では事務室になっていますが、学校当時は職員室の窓口です、職員室に用がある人はこの窓口で要件を伝えた事でしょう。
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戦前の暮らしの再現
町家の座敷が再現されていました、古い町家の座敷壁は、ベンガラを混ぜた深みのある落ち着いた赤色が塗られていました、これは江戸時代に京都に始まる室内装飾の伝播とも見られ、ハレの場である座敷の色壁として金沢に広まったと思います。
大きな城下町として栄えた金沢は、藩主前田家が「京文化」を熱心に取り入れ、様々な伝統文化を発展させていきました、その一方で人口の半分を武家が占め、江戸の影響を受けた「武家文化」がのこります。
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真宗王国の名がのこる金沢は仏壇を供える部屋を普段使う部屋とは別に仏間という別の座敷を設けていました。
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明治時代から昭和初期のキッチンの再現です、井戸から手押しポンプで水をくみ上げて、流しで洗いものをするようになっています、横にはかまどや鍋をかける炉がありますが、このような設備を設け家は上流家庭でしょう、一般の家庭ではもっと貧しい生活をしていたと思います。
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天神堂です、男の子が生まれると贈る習慣がありました、天満宮のミニチュアです、年末から正月に床の間に飾った物です、学問の神様の天神様を崇めることにより子供の成長を願ったのだと思います。
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天神様の人形です。
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昔、大勢の人に愛された民具の土人形です。
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旗源平
江戸時代後期に金沢で考案された正月遊びです、二つのサイコロを振って旗やマトイを取り合う遊びです。
前田家の家紋に因んで「ウメガイチ」(5と1)が最も良い目とされています。
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お雛様に備える「キンカトウ」です、砂糖菓子ですがお目出たい造り物になっています。
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戦後の生活の再現です
昭和の時代の居間を再現しています、最近でも見られる光景のように思います。
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戦後といっても昭和40年代ぐらいの子供の勉強部屋を再現しています、机にエレクトーンがあってかなり裕福な家庭でしょうか。
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戦後といっても昭和40年代でしょうか、キッチンを再現しています、この頃盛んに三種の神器、電気洗濯器、真空掃除機、電気冷蔵庫が話題になった時代でした。
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戦後に使われていた家庭用品や玩具などが展示されていました、、"そういえばこんな道具を使っていたな!”  ”こんな物も家にあったな!”どの品もgoには懐かしく拝見しました。
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階段も明治時代のレトロな感じです。
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学校だった頃の教室の様子を再現しています。
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現在はこの場所が金沢市立紫錦台中学校となっています、中学校の敷地内に創建当時の校舎が”金沢くらしの博物館”として保存されているわけです。
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場所は兼六園の近くの飛梅町にあります、兼六園の裏門(お城と反対側)から出て、徒歩5分程の所にあります。
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金沢くらしの博物館がリニューアルオープンしたので尋ねてみましたが今年最後の記事になりました。
今年一年を振り返ってみますと、皆様のblogにお寄せいただいて、たいへん役に立つ情報や皆様の貴重な体験等を読ませて頂いて有意義な一年を贈る事が出来ました、誠にありがとうございます。
来るべき新しい年は皆様方にとってより良い年でありますようにお祈りします。
来年も本年同様に宜しくお願いします。







出作り小屋に同行して

2016年12月20日 | インポート
この季節になると初雪が降って、いつのドライブしている林道や峠道にも雪が積もり通行できなくなりました、以前に出作り小屋の方の山菜取りに同行した時の画像が有ったので記事にします。

小屋から山菜をとる場所へ行く道は、一般の人が通行しない山道でブッシュの中にわずかの踏み跡となって辛うじて道筋が分かる嶮しい道です、崖が切り立って下に流れる谷川が細く見えます。

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小屋から1時間30分ほど歩くと、山頂近くのブナなどの広葉樹の広がる森に出ました、このあたりで山菜を収穫します。
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小屋に帰ってから収穫したゼンマイの綿毛をとって、加工します。
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外でカマドを据えて湯を沸かします。
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ゼンマイを沸騰した湯で湯がきます、ゼンマイからアクが出て湯が茶色になりますが、ゼンマイは綺麗な緑色になります。
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湯がいたゼンマイを天日で干します。
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天日に干して乾き始めでシットリとした頃に手で揉みます、完全に乾くまでに繰り返し何回か揉みます、この揉み方によって出来上がりの品質が左右されるらしいです。
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今回の予定は小屋で二泊して三日の予定です、2日目も好天に恵まれ収穫してゼンマイが良く干し上がったようです、完全に干し上がると生のゼンマイの約1/5以下の量になるそうです。
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ゼンマイ加工は経験不足であまり手手伝う事もなく、2日目になると小屋から登った源流に釣りに出かけました、熊除けの鈴を鳴らして行きましたが、鬱蒼と谷を覆うように茂っていて1人ではちょっと不気味でした。
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渓流の水量も丁度良くて2時間ほど釣って帰りました、岩魚の大きなサイズも含めてまあまあの釣果でした。
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釣った岩魚は調理してから小屋のストーブの上でじっくりと時間をかけて燻製状に焼きます、燻製状にカラカラに
焼き上げるて紙に包んで山の土産に持ち帰りました。
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小屋の近くに咲いていたツバメオモトの花です。
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ラショウモンカズラ(羅生門蔓)
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サンカヨウが群生していました。
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幹に棘が有るハリギリの新芽です、新芽の柔らかい物を摘んでウドの新芽とてんぷらにして食べました、小屋の夕飯は焼いた岩魚、山菜の天ぷらと焼き肉でした。
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ウドも丁度良い伸び具合で帰りの土産用に収穫しました。
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谷筋にはワサビがみずみずしい緑の葉に白い花が咲いてとても綺麗でした。
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山菜取りに同行して3日間深い山に入りました、山の木々も萌える季節なので緑一色のブナの林に木々の息吹を感じました、草花もいきいきと茂って綺麗な花が沢山咲いていました。

ご訪問ありがとうございました。






大日ダムー幻の金名線?(国道416号線)

2016年12月08日 | インポート
昨日、12月7日は24節気の「大雪(たいせつ)」にあたります、季節的には中冬でこの頃から雪が激しく降り始める頃となっています。
既に北海道や東北地方の一部では年内では記録的な大雪になっている所もあるようですが、雪国の石川県の平野部では未だ初雪を観測されていますん、それでもタイヤを冬タイヤにしたり、樹木の冬囲いをして雪に備えています。

今日の記事は秋が深まった11月4日に白山麓へドライブした時の様子を書きます。
いつもは加賀方面から大杉谷を通って峠越えをして大日ダム方向へ下って帰るコースを辿っているのですが、今日は反対に大日ダムを通って大杉谷方面に抜けるコースを辿ることにして出掛けました、雲は多い物の陽も射すドライブ日和で田園の中の道を快適に走り大日ダムに着きました。

ダムのゲートの上を通って対岸の道を峠方向に走るのですが、ダムは放水していていつもより湖面が下がっていました。
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山裾をダム湖に沿って道が延びています、しばらく進んだ所に東屋と小屋が立っていました、車から降りてみたら大きな自然石に「小原のふる里」と彫られていました。
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大日ダムを建設する時にダムの底に沈んだ小原集落の事は聞いたことが有りましたが、旧の小原集落の方々がふるさとを偲んで集落の高台に造った碑の様です。
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ダム湖の水位が下がって昔の集落の跡が見えました、段々畑の畦の様な仕切りや、住宅の跡の様なます目の平地と屋敷の周りの樹木の切り株などが見えます、深く掘れた流れは大日川の本流です。
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ほぼ同じ場所に満水時の画像です、手前の支流よりの導水管から放流されている水の位置でわかります。
(小松市のHPの「小松だよ! 全員集合!!」より画像をお借りしました)
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コンクリートの丸い枠は井戸の跡のようです。
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山側には小さな地蔵堂が有ってその横から綺麗な清水が流れていました。
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「湖底に故郷小原あり」の碑が昔の住人の連名で立派な石碑が建っていました。
ここで小原集落の事を調べたので紹介します、小原集落の歴史は古く、古老の言い伝えによれば、養老二(718)年には人が住み着いていたといわれています。
集落の起りは、源平合戦の頃に兵士の残党の伊藤孫左衛門、近藤甚右衛門の二氏が住み着き、その地形から小原の地名になったと伝えられています。
歴史ある集落も戦後の食糧難ため平野部の農業用水確保が主目的の「大日川ダム建設事業」という国営事業が実施され、やむなく、全町民212名が離村式を行い、それぞれが新天地を求めて小原集落を後にして旅立ち、閉村となったそうです。
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「分校のざわめき 夏の湖底より」 今は亡き竹下桃月氏の碑も立っていました。
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その後、ダム湖に沿って峠に向かいましたが、牛首峠に来た時に今日行こうと思っていた直進の大杉谷方面は土砂崩れの復旧工事の為に通行止めになっていました、横ぎる道は国道416号線ですが右に下ると小小屋鉱山方面に向かいますが、私は急遽予定を変更して左に曲がって国道416号線を登って行く方向に進みました。
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左に曲がってなだらかな登り勾配の道は舗装はされていますが両側から雑草やススキが蔽いかぶさって車がやっとすれ違えるほどの道が、時には鬱蒼と茂る杉林をぬけて先に伸びています。
途中で杉の伐採作業をしている所が有りましたが、対向車にも出逢いませんでした。
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道が分岐していて標識によると左が「花立町」右が「新保町」となっています。花立町方向は行ったことが無いのですが、既に廃村になっているそうです、新保町の方に進みました。
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新保町に着きましたが、この集落も廃村になった集落のようですが、一部の住民が家を建て直して季節の良い期間だけここにきて畑作や山菜とりをしているようで、おそらく雪が降って途中の道路が通行できなくなる頃には町に降りるのでしょう、集落には何軒か真新しい家が有りました。
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集落の裏手には大日川の清流が流れていました。
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集落の中心に新保町の鎮守の「新保神社」が有りました、廃村になった集落のようですが神社の立派な鳥居や石灯篭、のほか社殿は建てて間が無いような新しい神社でした。
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神社の入り口には「国道昇格記念碑」がたっていました。
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小松からここまでの道は昭和57年以前は小松・勝山・福井線の県道に指定されていました。

国道昇格記念碑の横に黒御影石の立派な碑が建っています。

碑文を要約すると
1982(昭和57)年に住民の長年の願いがかなって、国道416号として国道に昇格しました、偲べば明治29年以前より金名線(金沢と中京圏の名古屋と結ぶルート)として開通を成し遂げるのが先人の宿願でありました。
このたびの国道昇格の喜びを後世に伝え、全線整備促進を願いを込めて、宿題を達成して両県、市の発展に寄与する事を確信して碑文とします。

私はここより先にはいっていませんが、国道416号線は新保町の先で今でも建設中で石川・福井県境を挟んで工事が行われています、福井県側は平成30年の完成の予定ですが、石川県側の完成予定年度は不明である。

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新保神社の鳥居と右側に国道昇格記念碑、碑文が建っています。
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豪雪地帯なので鳥居や石灯篭は雪によって倒されないように鉄パイプで補強がされています。
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石段の上の社殿は最近建築されたようで真新しい白木の建物でした。
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社殿横の石の「明治御大典記念」の石は流れに穿たれた穴のあいた自然石でした。
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山奥の新保町が住人が、山を越えて隣の福井県を経由して中京圏に通じる道路を造るのが、長年の夢であったと思います、年月が流れて新保町も高齢化で廃村になり、現在では北陸自動車道が出来るなど、世の中の情勢が大変変ってきています、変わらないのはこの集落を取り巻く自然だけです。
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しばらく写真を撮ったり散歩をしたりして、来た時と同じ山道を下って帰りました、国道といっても林道の様な道です、所々に交差スペースが有りますが、狭いところでは車の交差もままならない道でした。
国道として貫通してもどれだけの交通量が有るのでしょうか、まして冬は通行できない可能性が有ります、正に幻の金名線です、時代が変わって石川から福井に抜ける道は他にも整備されたルートがいくつか出来ています。

御訪問ありがとうございます。