私は運動が出来なくなるロコモティブシンドロームにならないようにほとんど毎日ウォーキングを続けています、コースはその日の気の向くままです、今年の春、川岸の桜の花芽が膨らんであわいピンク色になる頃は安原川の川岸の桜並木を歩いていました。
![CIMG0825](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255662263.v1531278132.jpg)
CIMG0825 posted by (C)gotyan
遊歩道の対岸に立派な神社があるのにきずいて橋を渡りました、その神社の前に石碑が建っていました、散歩の歩みを停め其の石碑に書かれている文章をみて驚きました。
竹川リンのことはつとつとさんの記事で読んで知っていましたがこの場所にある事は知りませんでした。
現在では個人情報を人目にさらす事を嫌いこのような石碑に刻む事はおろか人目につく大通りにさらすことは嫌います。
私が考えるに事の内容から個人情報によって故人や家族が後ろ指を指される内容ではなくむしろ立派なことです、この時代に固い意志で決断した事に敬意を表します。
![CIMG0802](http://art5.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/257100084.v1533113047.jpg)
CIMG0802 posted by ;(C)gotyan
![CIMG0828](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329723.v1524560562.jpg)
CIMG0828 posted by (C)gotyan
![CIMG0829](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329726.v1524726027.jpg)
CIMG0829 posted by (C)gotyan
文章が読みにくいのでここに書き記します、昔の文章ですので分かりにくいと思いますが、良く読めば内容は分かると思います。
![CIMG0792](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329683.v1524693881.jpg)
CIMG0792 posted by (C)gotyan
竹川リンハ難病ニ罹リ 本院施療之処
終ニ死亡シ母ソヨ其遺言ニ因リ病屍解剖
ヲ委託ス即チ我院ニ於テ剖観ス 是レ医
術ノ進歩ヲ促シ且后来患者治療ノ開明ヲ
期スルニ至ル 因ッテ彼ノ志ヲ憫量シ有
志相醵シテ此墓碑ヲ建設スルモノ也
石川郡徳丸村私立松江病院長
松江安見
松江安見
弘化元(1844)年~明治22(1889)年 石川県白山市(旧松任市)の出身の医師
石川県で初めて篤志解剖を行った、若くして医学の道を志し、金沢医学所(現金沢大学医学類)で学んだ。
松任市徳丸の自宅で開業したが、明治13(1880)年、彼が37歳の時に石川県病院布達出願手続きが定められたのを機に医院を病院に改めた、石川郡での病院の嚆矢なる。
安見は9人兄弟でその内4人を医師として育てた。
松江安見医師のことはつとつとさんのブログで細かく紹介されています。
https://72469241.at.webry.info/201503/article_1.html
この頃は一般人の解剖は禁止されていました、医院の松江安見医師も解剖の経験はありましたがそれらは監獄の処刑者の遺体でした、難病の解明のため一般人の篤志献体者を解剖するのは石川県で始めての事例でした。
![CIMG0793](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329686.v1524560562.jpg)
CIMG0793 posted by (C)gotyan
石碑の裏面に高橋富兄氏の送稿が記されています。
人として人のため世のためにならずは
人に阿らさるに志かす 加賀の国石川郡矢
木荒屋村に竹川りんといふ女あり 志ぬ
るいまはに云く おのが病は名あるくす
したちも志りかてにせり いかて身をほ
ときてあきらめてよとてつひに明治十六
年四月二十五日によはひ四十三にして身ま
かりぬ志のををしさますら男も志さる
へし あわれ身をほとくしのままあれと
病のためにかかるは此石川県にして此人
を始とす 阿はれ此人なほははあり
世のためにゆるしながらくれない乃
なみだや手にふりかかりけん
人々此おや子のため石ふみものせんと
てこふままにかくいふは
高橋富兄
高橋富兄(高橋とみえ)
文政8(1825)年生まれ 加賀藩士
藩校明倫堂で国学、漢字を学び後に明倫堂の講師となる、廃藩後の晩年は四校(金沢大学の前進)の教授となる、石川歌壇の中心的な人物。 大正3(1914)年没
石碑の近くを流れる春浅い安原川の川岸には”リュウキンカ(立金花)”の金色の花が一面に咲いていました。
![CIMG0800](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329696.v1530788481.jpg)
CIMG0800 posted by (C)gotyan
![CIMG0817](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329701.v1532404844.jpg)
CIMG0817 posted by (C)gotyan
![](https://maps.googleapis.com/maps/api/staticmap?key=AIzaSyAQZUdkLscCYPCJreGcsUZDsFps-Iol_X4¢er=36.552807339149105,136.59215811025433&maptype=map&zoom=15&size=300x300&markers=anchor:bottom|icon:https%3a%2f%2fmap%2ebblog%2ebiglobe%2ene%2ejp%2fimages%2fgicons%2fpin_misc%2epng|36.552807339149105,136.59215811025433)
ここから現在の篤志献体の話になります。
現在では臓器提供も運転免許証の裏面に本人の意思を確認する欄が設けられています、自分の死後に亡骸でお役に立つのであれば役立ててほしいと希望する人は意思表示が出来るようになっています。
又、医術の発展の為に篤志献体のを申し込む人も年々増加していると聞いています、
明治の時代では篤志献体は個人的に勇気のいる大変なことでしたが、現在では医師を志す大学生を育てるために実際に人体の解剖をして医術を高めています。
公益財団法人、日本篤志献体協会によると、献体とは、医学・歯学の大学における解剖学の教育・研究に役立たせるため、自分の遺体を無条件・無報酬で提供することをいいます。
「自分の死後、遺体を医学・歯学の教育と研究のために役立てたい」とこころざした人が、生前から献体したい大学またはこれに関連した団体に名前を登録しておき(「献体登録をするには」参照)、亡くなられた時、遺族あるいは関係者がその遺志にしたがって遺体を大学に提供することによって、はじめて献体が実行されることになります。
公益財団法人
日本篤志献体協会による
金沢市の兼六園からも見える卯辰山に金沢大学医学部の解剖体墓地があります、車道から墓地に通ずる登り口には一本の標識はが立っていますが、普段は訪れる人もなく墓参りでここに来る人以外は見過ごされてしまいます。
私は母方の縁者が献体をしていますので、時折お参りにこの場所を訪れていますから見過ごすこともなく車を停めています。
![P1220225](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329729.v1539856986.jpg)
P1220225 posted by (C)gotyan
![P1220226](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329732.v1532300575.jpg)
P1220226 posted by (C)gotyan
石段を登った先には「解剖屍體之塚」と書かれた石碑が中央にあり、その後方には一つの石碑に約200名前後ぐらいの篤志献体者のお名前が刻まれています、その数が大凡33基ありました、人数はざっと六千数百人になります。
![P1220232](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329788.v1534233893.jpg)
P1220232 posted by (C)gotyan
石碑の横には木札をかけるところがあって、献体者の解剖実習が終わった人のお名前が書かれた木札が掛かっています、大凡200名ぐらいになったら石碑を建ててお名前を刻むのでしょう。
![P1220231](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329785.v1532379784.jpg)
P1220231 posted by (C)gotyan
一番古い石碑には「第四高等学校医学部解剖遺体第一合葬定名」と刻まれています。
第四高等学校医学部は現在の金沢大学医学部の前進です。
![P1220239](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329827.v1537128110.jpg)
P1220239 posted by (C)gotyan
一番古い石碑の日付が”自明治21年、至明治29年なっていました、前出の松江安見が明治16年の4月に石川県で初めてとなる篤志献体の竹川りんを解剖してから5年後の明治21年には第四高等学校の医学部において篤志献体の解剖が行われていた事になります。
![P1220237](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329790.v1532325797.jpg)
P1220237 posted by (C)gotyan
![P1220241](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329833.v1532156473.jpg)
P1220241 posted by (C)gotyan
![P1220240](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329830.v1532041270.jpg)
P1220240 posted by (C)gotyan
平成3年に建てられた石碑の中に私の縁者の名前を見つけてその石碑の前に燈明と線香を供えて冥福を祈ってきました。
![P1220234](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/256672393.v1531213304.jpg)
P1220234 posted by (C)gotyan
一番新しく建てらた石碑は平成28年6月の日付けが入っていました。
![P1220242](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329838.v1532354488.jpg)
P1220242 posted by (C)gotyan
医学の研修の為に解剖をした学生の代表が「献体の諸霊に」と題して献体者の霊にささげる送稿を掲げています、読みにくいので文章を列記します。
![P1220245](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329843.v1532174472.jpg)
P1220245 posted by (C)gotyan
献体の諸霊に
半年間の解剖学実習を終えた今、おじいちゃん、おばあちゃんと初めて対面した日の緊張感や、毎回の実習作業など、思い出の数々が鮮やかに甦ってきます。
実習中は、山田先生や指導の先生を困らせたことも何度もありましたが、学生が一番苦労したのはまずレポートでした。
誤りが指摘され、厳しく練られればこそ、記録としての価値が生まれました、また「所見発表」は復習の場として十分活用されました。
脈絡のない知識が系統たてられ、それまで別々と思っていた現象の間に思いがけない関連がある事に気づいて驚いたりもしました。
「実習調査」では、各自が個性と才能を発揮し、果敢にも作業仮説を立てて人体の謎に挑戦しました。
独創性を磨いたり、議論を戦わす場となった事が忘れられません、この実習を通して学生は医師の基本姿勢を模索し、解剖学の知識を越えて実に多くの事を学びました。
人間とは、生命とは、といった根源的な問いかけにはまだ答えは出ていませんが、良医が育つように願って播かれた献体の種は、私たちと共に芽生え育って、近い将来必ずや見事に結実するに違いありません。
その事を今ここで固くお約束したいと思います。
昭和62年4月 金沢大学医学部学生代表
新井田 要
![](https://maps.googleapis.com/maps/api/staticmap?key=AIzaSyAQZUdkLscCYPCJreGcsUZDsFps-Iol_X4¢er=36.57302236442056,136.67782070054844&maptype=map&zoom=17&size=300x300&markers=anchor:bottom|icon:https%3a%2f%2fmap%2ebblog%2ebiglobe%2ene%2ejp%2fimages%2fgicons%2fpin_misc%2epng|36.57302236442056,136.67782070054844)
献体という個人の決断が医学、薬学の向上に大変な成果を上げています、今日の高度医療や優れた医師の輩出に大きく貢献しています、卯辰山でひっそりと供養されている六千余名の篤志献体者のほかに全国では大変大勢の篤志献体者がおられると思います、今日私たちが高度医療を受けられるのも優れた医師の診察を受けられるのも影に篤志献体者がいることを忘れてはいけないと思います。
年の暮れが迫っています、おそらく本年最後の更新になると思います、少し早い年末の挨拶になりますが、来るべき新しい年も皆様におかれましては健康で飛躍の年になりますように祈っています、今年一年ありがとうございました。
![CIMG0825](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255662263.v1531278132.jpg)
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遊歩道の対岸に立派な神社があるのにきずいて橋を渡りました、その神社の前に石碑が建っていました、散歩の歩みを停め其の石碑に書かれている文章をみて驚きました。
竹川リンのことはつとつとさんの記事で読んで知っていましたがこの場所にある事は知りませんでした。
現在では個人情報を人目にさらす事を嫌いこのような石碑に刻む事はおろか人目につく大通りにさらすことは嫌います。
私が考えるに事の内容から個人情報によって故人や家族が後ろ指を指される内容ではなくむしろ立派なことです、この時代に固い意志で決断した事に敬意を表します。
![CIMG0802](http://art5.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/257100084.v1533113047.jpg)
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![CIMG0828](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329723.v1524560562.jpg)
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![CIMG0829](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329726.v1524726027.jpg)
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文章が読みにくいのでここに書き記します、昔の文章ですので分かりにくいと思いますが、良く読めば内容は分かると思います。
![CIMG0792](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329683.v1524693881.jpg)
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竹川リンハ難病ニ罹リ 本院施療之処
終ニ死亡シ母ソヨ其遺言ニ因リ病屍解剖
ヲ委託ス即チ我院ニ於テ剖観ス 是レ医
術ノ進歩ヲ促シ且后来患者治療ノ開明ヲ
期スルニ至ル 因ッテ彼ノ志ヲ憫量シ有
志相醵シテ此墓碑ヲ建設スルモノ也
石川郡徳丸村私立松江病院長
松江安見
松江安見
弘化元(1844)年~明治22(1889)年 石川県白山市(旧松任市)の出身の医師
石川県で初めて篤志解剖を行った、若くして医学の道を志し、金沢医学所(現金沢大学医学類)で学んだ。
松任市徳丸の自宅で開業したが、明治13(1880)年、彼が37歳の時に石川県病院布達出願手続きが定められたのを機に医院を病院に改めた、石川郡での病院の嚆矢なる。
安見は9人兄弟でその内4人を医師として育てた。
松江安見医師のことはつとつとさんのブログで細かく紹介されています。
https://72469241.at.webry.info/201503/article_1.html
この頃は一般人の解剖は禁止されていました、医院の松江安見医師も解剖の経験はありましたがそれらは監獄の処刑者の遺体でした、難病の解明のため一般人の篤志献体者を解剖するのは石川県で始めての事例でした。
![CIMG0793](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329686.v1524560562.jpg)
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石碑の裏面に高橋富兄氏の送稿が記されています。
人として人のため世のためにならずは
人に阿らさるに志かす 加賀の国石川郡矢
木荒屋村に竹川りんといふ女あり 志ぬ
るいまはに云く おのが病は名あるくす
したちも志りかてにせり いかて身をほ
ときてあきらめてよとてつひに明治十六
年四月二十五日によはひ四十三にして身ま
かりぬ志のををしさますら男も志さる
へし あわれ身をほとくしのままあれと
病のためにかかるは此石川県にして此人
を始とす 阿はれ此人なほははあり
世のためにゆるしながらくれない乃
なみだや手にふりかかりけん
人々此おや子のため石ふみものせんと
てこふままにかくいふは
高橋富兄
高橋富兄(高橋とみえ)
文政8(1825)年生まれ 加賀藩士
藩校明倫堂で国学、漢字を学び後に明倫堂の講師となる、廃藩後の晩年は四校(金沢大学の前進)の教授となる、石川歌壇の中心的な人物。 大正3(1914)年没
石碑の近くを流れる春浅い安原川の川岸には”リュウキンカ(立金花)”の金色の花が一面に咲いていました。
![CIMG0800](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329696.v1530788481.jpg)
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![CIMG0817](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329701.v1532404844.jpg)
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ここから現在の篤志献体の話になります。
現在では臓器提供も運転免許証の裏面に本人の意思を確認する欄が設けられています、自分の死後に亡骸でお役に立つのであれば役立ててほしいと希望する人は意思表示が出来るようになっています。
又、医術の発展の為に篤志献体のを申し込む人も年々増加していると聞いています、
明治の時代では篤志献体は個人的に勇気のいる大変なことでしたが、現在では医師を志す大学生を育てるために実際に人体の解剖をして医術を高めています。
公益財団法人、日本篤志献体協会によると、献体とは、医学・歯学の大学における解剖学の教育・研究に役立たせるため、自分の遺体を無条件・無報酬で提供することをいいます。
「自分の死後、遺体を医学・歯学の教育と研究のために役立てたい」とこころざした人が、生前から献体したい大学またはこれに関連した団体に名前を登録しておき(「献体登録をするには」参照)、亡くなられた時、遺族あるいは関係者がその遺志にしたがって遺体を大学に提供することによって、はじめて献体が実行されることになります。
公益財団法人
日本篤志献体協会による
金沢市の兼六園からも見える卯辰山に金沢大学医学部の解剖体墓地があります、車道から墓地に通ずる登り口には一本の標識はが立っていますが、普段は訪れる人もなく墓参りでここに来る人以外は見過ごされてしまいます。
私は母方の縁者が献体をしていますので、時折お参りにこの場所を訪れていますから見過ごすこともなく車を停めています。
![P1220225](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329729.v1539856986.jpg)
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![P1220226](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329732.v1532300575.jpg)
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石段を登った先には「解剖屍體之塚」と書かれた石碑が中央にあり、その後方には一つの石碑に約200名前後ぐらいの篤志献体者のお名前が刻まれています、その数が大凡33基ありました、人数はざっと六千数百人になります。
![P1220232](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329788.v1534233893.jpg)
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石碑の横には木札をかけるところがあって、献体者の解剖実習が終わった人のお名前が書かれた木札が掛かっています、大凡200名ぐらいになったら石碑を建ててお名前を刻むのでしょう。
![P1220231](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329785.v1532379784.jpg)
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一番古い石碑には「第四高等学校医学部解剖遺体第一合葬定名」と刻まれています。
第四高等学校医学部は現在の金沢大学医学部の前進です。
![P1220239](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329827.v1537128110.jpg)
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一番古い石碑の日付が”自明治21年、至明治29年なっていました、前出の松江安見が明治16年の4月に石川県で初めてとなる篤志献体の竹川りんを解剖してから5年後の明治21年には第四高等学校の医学部において篤志献体の解剖が行われていた事になります。
![P1220237](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329790.v1532325797.jpg)
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![P1220241](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329833.v1532156473.jpg)
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![P1220240](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329830.v1532041270.jpg)
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平成3年に建てられた石碑の中に私の縁者の名前を見つけてその石碑の前に燈明と線香を供えて冥福を祈ってきました。
![P1220234](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/256672393.v1531213304.jpg)
P1220234 posted by (C)gotyan
一番新しく建てらた石碑は平成28年6月の日付けが入っていました。
![P1220242](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329838.v1532354488.jpg)
P1220242 posted by (C)gotyan
医学の研修の為に解剖をした学生の代表が「献体の諸霊に」と題して献体者の霊にささげる送稿を掲げています、読みにくいので文章を列記します。
![P1220245](http://art1.photozou.jp/pub/751/3204751/photo/255329843.v1532174472.jpg)
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献体の諸霊に
半年間の解剖学実習を終えた今、おじいちゃん、おばあちゃんと初めて対面した日の緊張感や、毎回の実習作業など、思い出の数々が鮮やかに甦ってきます。
実習中は、山田先生や指導の先生を困らせたことも何度もありましたが、学生が一番苦労したのはまずレポートでした。
誤りが指摘され、厳しく練られればこそ、記録としての価値が生まれました、また「所見発表」は復習の場として十分活用されました。
脈絡のない知識が系統たてられ、それまで別々と思っていた現象の間に思いがけない関連がある事に気づいて驚いたりもしました。
「実習調査」では、各自が個性と才能を発揮し、果敢にも作業仮説を立てて人体の謎に挑戦しました。
独創性を磨いたり、議論を戦わす場となった事が忘れられません、この実習を通して学生は医師の基本姿勢を模索し、解剖学の知識を越えて実に多くの事を学びました。
人間とは、生命とは、といった根源的な問いかけにはまだ答えは出ていませんが、良医が育つように願って播かれた献体の種は、私たちと共に芽生え育って、近い将来必ずや見事に結実するに違いありません。
その事を今ここで固くお約束したいと思います。
昭和62年4月 金沢大学医学部学生代表
新井田 要
献体という個人の決断が医学、薬学の向上に大変な成果を上げています、今日の高度医療や優れた医師の輩出に大きく貢献しています、卯辰山でひっそりと供養されている六千余名の篤志献体者のほかに全国では大変大勢の篤志献体者がおられると思います、今日私たちが高度医療を受けられるのも優れた医師の診察を受けられるのも影に篤志献体者がいることを忘れてはいけないと思います。
年の暮れが迫っています、おそらく本年最後の更新になると思います、少し早い年末の挨拶になりますが、来るべき新しい年も皆様におかれましては健康で飛躍の年になりますように祈っています、今年一年ありがとうございました。