go の let's goシニア

リタイヤ・・何でもヤリタイヤ
登山、渓流釣りを卒業して四季の花を愛でています

2015年に想うこと

2015年12月30日 | インポート
今年も間もなく暮れようとしています、この一年間に皆さまに励ましの気持玉やコメントを沢山頂きまして誠にありがとうございます。
また、皆さまのblogに訪問させて頂いてすばらしい記事や綺麗な写真を沢山見せて頂きました、お陰様で有意義な時間を過ごすことが出来ましたことを心より感謝しています。
画像


今年の締めくくりに私の一年間を振り返ってみますと、リタイヤしてこの夏で丸5年になりましたが、毎日が変りなく平穏に過ごせることを喜ぶべきでしょうが、変化のない一年でした。
年末に思うことは、来るべき新しい年は貴重な時間をもっと有意義に過ごさなくてはと思っています。
画像



2年ほど前から足腰の衰えから高い山には登っていません、最近は日帰りの近くの山に登っています、春に5回、秋に2回登りましたが、山の景色や山野草を見ている時は本当に満たされた時間で、日ごろの変化のない時間にアクセントをつけてくてました。
画像




画像




画像




画像




画像



渓流釣りは、現役の頃はシーズンなると殆どの休日には釣りに出かけて源流部まで行っていましたが、最近は同世代の釣友とは釣果のこだわらず安全な釣りを楽しんでいます、4月から9月までのシーズン中に4~5回ほど出掛けました。
画像




画像




画像



現役時代から時々訪れていた、黒部の秘湯へ今年も釣友と出掛けました、お世話になった前のオーナーが引退してから二代目のオーナーともすっかりなじみになり、周りの自然と共に心の安らぐ所になりました。
画像



今年の思い出に残った事は、関西電力様の応募に当選して欅平から黒四ダムまでの黒部ルートを見学させて頂いたことです、秘境黒部の地底深く造られた作業トンネルを工事用車両に乗って移動して、途中で芳村昭の小説「高熱隧道」で有名になった高熱隧道を実際に通過してこの目で見ることが出来たことと、くろよん発電所を見学出来た事は貴重な体験でした。
画像




画像




画像



2015年は戦後70年の節目になった年でした、今年の世相を表す漢字に「安」が選ばれましたが、「安」に秘められた国民の思いは複雑なものがあります、もはや戦後ではないとつぶやかれて久しくなりましたが、これからの日本がどうしたら平和を保ってゆけるか国民が考えさせられた一年でした。

来年も平和な日本であることと、皆様方のご健勝をお祈り申し上げます、良いお年をお迎えください。
一年間ありがとうございました。








加賀藩の「安政の泣き一揆」と七稲地蔵(なないねじぞう)

2015年12月24日 | インポート
先日の街歩きでひがし茶屋街に行って来ましたが、その途中に卯辰山寺院群の寺院で浄土宗の寿経寺がありました。
その門前には「安政の泣き一揆」で処刑された町人の墓と、それを弔う「七稲地蔵」が祀られています。
七稲地蔵は明治期に卯辰山の参道に建立されたのですが、1908(明治41)年にここの寿経寺に寄進されて山門前に安置されています。
画像




画像



ガラス入りの格子戸の地蔵堂に七稲地蔵が祀られています、普段は戸が開かないので格子の間から写真を写させて頂きました。
画像



地蔵堂の前の立て札に七稲地蔵の事が書かれていました。
百万石の加賀藩でも、その長い歴史の中には町民や農民の一揆や打ちこわし事件は多数発生していますが、庶民2000人以上を巻き込んだ「安政の泣き一揆」は広く後世まで語り継がれています。

幕末の安政5年は2月に飛騨地方を震源とする、北陸地方に強い地震(マグニチュード7.0~7.1と推定される)があって、越中(富山県)を中心に大変な被害が発生し、金沢でも百件以上の家屋が倒壊しました、その上に春からの長雨で冷夏となりました、凶作を予想した商人の米買い占めによる米価の高騰と、藩の銀札の発行によるインフレにより庶民の暮らしは日毎に困窮していました。

因みにその当時の通常の米価は一升約80文でした、ところが泣き一揆が起った7月には一升が130文にまで跳ね上がっていたそうです、その頃の大工や職人の日当は200文程の様でしたから、大家族では米代で稼ぎのほとんどが消えてしまう勘定です。
画像




この寿経寺から卯辰山に登る道筋に、観音院があります、観音院では7月11日に「四万六千日(しまんろくせんにち)」の後参りが行われていて、深夜に2000人の貧困した人達が当時登ることが禁止されていた卯辰山に登って、
御城に向かって「ひだるいわいヤ〰」 「ひもじいわいヤ〰」 「こめくれまいヤ〰」
翌12日には500人の庶民が大声でシュプレシコールを繰り返しました、その声がお城の殿様や藩の重臣たちのお屋敷ににも届きました。

翌13日に藩の御米蔵から500俵余りの米が米商人に売り渡されました、一升100文以下にせよとのお触れが出て米の値段は安定しました。
画像




画像




画像



翌年安政6年の4月に首謀者5人は「斬主の上、さらし首」の刑、牢死した二人を加え七人の供養のための地蔵が卯辰山の参道に築かれました。
匕稲地蔵はいずれも稲束を抱えて柔和な表情でした、足元にはお供えされた稲束が供えられていました、庶民の生活の困窮を救うために一命をなげうった人たちの冥福を祈らずにはおれませんでした。
画像



地蔵堂の前には犠牲になった七人の名前が記された墓石が建っていました。

河原市屋文右衛門
高橋屋弥左衛門
越中屋宇兵衛
能美屋佐吉
原屋甚吉
平田屋彌兵衛
北市屋市衛門
以上の七人の名前が記されていました。
画像



卯辰山に登る坂道を辿ってみました。
画像




画像




画像



卯辰山の玉兎ヶ丘(ぎょくとがおか)は広く開放的な散策路になっていますが、開発される前にはここはこぶ状に一段と高くなっていて卯辰山の頂上でした、開発に伴って頂上が10m余り削られて広い松林になっています。
画像




松の木の根元に庚申塚の石がありました、安政の泣き一揆はこの庚申塚から大声で叫んだ、とゆう説と卯辰山の中腹の日暮ヶ丘から叫んだという2説があります。
日暮ヶ丘には「安政泣き一揆」で群衆がこの場所で叫んだという立て札が建っているそうです。
日暮ヶ丘は観音院から観音坂を登った卯辰山の中腹にあり、集まった群衆は深夜でも行きやすい場所であったと思います、それに御城からも直線で1kmぐらいしか離れていないので、群衆の叫び声は届きやすかったと思います。
画像



庚申塚の見晴らし台から金沢城を見ますと、周辺に大きな建物があって見分けがつかないので少しズームして見ました、当時は御城の周りには他の建物があまり無かったので良く見えたと思います。
御城からこの山頂までは、直線距離で1.7kmの距離です、現在のように他の騒音が無く、深夜に2000人もの人が叫んだら聞える距離だったと思います。
画像



金沢城の二の丸橋から卯辰山を望む、御城から見て卯辰の方角に有るので卯辰山と呼んでいますが、庶民の間では向かい山と呼ばれていたようです、当時は御城を見下ろすと云って一般には登ることが禁止されていたようです。(2013/4月、撮影)
画像



当時の庶民は日当稼ぎでその日暮らしの人が大半を占めていたようで、異常気象や藩が銀札を発行した為のインフレなどで物価が上がると庶民の暮らし向きはとたんに困窮することになります。

武家社会の身分は士、農,工、商、となっていましたが、武家が一番身分が高く、後の農、工、商はひとまとめにして、武家よりさげすまれていた時代だったので身分の高い武家に対して一般の庶民は直接物申す事が難しい社会の仕組みになっていたようです。

そんな社会でも生活苦に耐えかねた庶民が実力行使の一揆や打ちこわしなどの事件は、長い年月の間には何回か起こっています、その都度首謀者は罰せられていたことでしょう、安政の泣き一揆は実力行使がともなわず、大声で泣いて現状を訴えた事に対して、首謀者とされた7人が犠牲になりました。
藩は大衆で徒党を組んで藩の御正道に物申すことを恐れたために、見せしめのために7人を処刑(内2人は獄死)したのでしょう、なんとも哀れな結末でした。

最後までお目を通して頂いて有難うございます。

    本記事を編集にあたり下記の記事の一部を参考にさせて頂きました
                     ※ウィキペディア
                     ※非行中年様のブログ
                     ※金沢ゆめまちづくり支援活動事業様のブログ







縄文の郷、桜町遺跡

2015年12月18日 | インポート
例年ならば11月の末には初雪が観測されるのですが、金沢では昨日17日に例年より18日遅い初雪が観測されたようです。
今年は秋から気温が高めに推移していますが、さすがに12月の中旬ともなれば北陸独特の空は鉛色の雲で覆われて、前夜から雪や霰混じりの雨が断続的に降っています。
現役時代ならば、そんなお天気の朝でも時間通りに起床して渋滞の道を職場に向かったものですが、リタイヤしてからはそんな寒い日は家に籠ってパソコンの前に座っている時間が長くなります、昨日は年賀状の図案を考えて印刷したりで1日が終わってしまいました。
そんな訳でこの時期は出掛ける所もなくてblogのネタの無くなったので、今日は11月の初めにドライブで行って来ました、小矢部市の桜町遺跡のことを少し書きます。

桜町遺跡は石川県から富山県に向かう県境の倶梨伽羅峠を越えた小矢部市に有ります、国道8号線の峠のトンネルを越えて桜町に入ります、そこにはJOMONパークの看板が目に入りました。
画像



JOMONパークは発掘した遺物を展示しているプレハブの展示場がありますが、発掘現場の様子を見たくて100mほど離れた現地に行ってみましたが、すでに発掘が終わって埋め戻されていました、右側には国道8号線を走る車が見えます、発掘の跡には背丈ほどの雑草が茂っています、その昔、この地は山から川が流れて、その岸辺に縄文時代の集落がありました、ここの桜町遺跡は年代測定によるとおよそ8000年前の縄文早期から、弥生時代に移るおよそ2300年前までの5700年もの間、狩猟や自然の恵みを採集して生活していた痕跡が発掘されています。
画像


現地の表示板です、私は左下の看板の前にいますが、右側の道路は国道8号線です、この山間に川が流れていて水にも恵まれ、周囲は栗やドングリの林に囲まれていた様です、秋には木の実を採集し、森で狩りをしたり川で魚を取って暮らしていたのでしょうが、縄文人には住みよい場所だったようです。
そんな場所でも5700年の間には気候変動も有ったと思います、それを知恵を出して乗り越えて持続的に対応してきた古(イニシエ)の人達の生活力には感服します。
画像



平成9年(1997)の発掘の様子です、上の道路が国道8号線です。
画像



木の実の貯蔵に使った貯蔵穴は岸辺に数か所掘られていて、中にはクルミなどが残った状態でした、秋に収穫した木の実を冬に蓄えて計画的に消費していたようです。
画像



ドングリや栃の実はアクを抜くために水の中に木材で囲った貯蔵庫を作って、水につけて貯蔵していたようですが、長期間水につける事でアクを抜いていたのでしょう。
画像



出土した山菜のコゴミの拡大写真です、発掘された時は緑色の色彩が残っていたようです、春には山菜を食べていたのでしょう。
画像



展示館には沢山の土器が展示されていました、色々な形のものがありましたが、用途によって使い分けたのでしょう、前にテレビで見た事がありますが土器がすすけて黒く変色しているものは火の上に乗せて中の物を煮焚きするのに使用した形跡のようです、最初は狩猟や採集で得た物を生で食べていたものを5700年もの間に食べ方も変わったのでしょう、、魚や動物の肉、山菜等を調理して食べるようになったと想像できます。
画像




画像




狩猟に使用した石斧です、一つ一つ手造りした物で石の質や形状の違ったものが沢山出土したようです。
画像



展示場とは別の工作室に市民の方が造った桜町遺跡のジオラマがありました、発掘された資料を元に当時の縄文の人たちの暮らしを復元したものです、ジオラマを見てから改めて出土物を見たら、縄文の人達が残した出土物が蘇って8000年前が身近に感じられました。
画像




画像




画像




画像



同じ展示場に展示されていた桜町遺跡の近くで小矢部川の支流の渋江川左岸の臼谷岡村遺跡の縄文土器です、今から5000年~4000年前の縄文中期の土器ですが、ほぼ同じ年代の桜町遺跡の土器にはみられない模様が施されていて芸術性に富んだ土器です。
画像





画像





この土器は形状が変っていて現在でもグットデザイン賞をもらえそうな土器です、果物などを盛りつけたら素晴らしい器になりますが、中が黒く変色しているので上から吊るして火にかけて調理をしたか、吊るして燈明をともしたのかな?、想像が膨らみます。
画像




先日、NHKのスペシャル番組で「アジアの巨大遺跡」という番組が放送されていました、カンボジアのアンコールワット、ミャンマーのバガン遺跡、中国の秦の始皇帝稜と兵馬俑、それに我が日本の三内丸山遺跡、を見ましたが、三内丸山遺跡の縄文文明が世界的に驚かれていることは、本格的な農耕を行わづ狩猟と採集を生活の基盤としながら縄文時代という一万年もの持続可能社会を築いたことです。
ここ桜町遺跡も5700年も同じ場所で生活を持続したことは驚くべきことだと思いました、5700年ということは当時の縄文人の平均寿命が何年だったか分かりませんが、仮に50年とすれば114代の間、生活基盤を築いていたことになります。

暇つぶしにドライブで行ったところで思っていなかった縄文時代のことを知ることが出来ました。

ご訪問ありがとうございます、コメント欄は誠に勝手ながら閉じさせていただきます。











金沢街歩きー大手町~ひがし茶屋街

2015年12月06日 | インポート
先日、寺島蔵人邸を訪れた時に、久し振りに金沢の街歩きをしてみたくなって、歩きはじめていました。
大手町から浅野川にかかる天神橋を渡り橋詰の天神橋バス停から左の小路に入りました。
画像



画像



東山の小路には町家や寺院が昔のままに残されていて金沢らしい町並みを感じました。
道路中央の等間隔に丸く見えるのは道路に積もった雪を溶かす融雪装置のノズルです。
画像



今ではすっかり見かけなくなった丸型のポストが周辺の古い街並みの演出に一役かっているようです。
画像



海鼠壁(なまこかべ)の蔵の前に人力車と車夫の姿が、観光客目当てなのでしょうが、一昔前の光景を見た様な感じがしました。
画像



明治時代の西洋式建築の○○軒、食堂のようですが今ではレトロな感じがします。
画像



金沢ひがし茶屋街の通りに出ました、相変わらずこの通りは観光客が沢山訪れています、最近は海外の観光客が多いようです。
金沢にはここの他に、にし茶屋街、主計町(jかずえまち)茶屋街の三か所の茶屋街がありますが、ひがし茶屋街が最も規模が大きく、江戸時代から明治時代に建てられた茶屋様式の建物が城下町の風情を残している茶屋街として、兼六園に続いて金沢観光の人気スポットになっています。
画像




石畳の通りの左右には木虫籠(きむすこ)という紅殻格子の茶屋造りのお茶屋が並んでいましたが、最近になって観光客目当てのお土産屋や喫茶店なども多く目につくようになりました。
画像


お茶屋さんは、上層階級の旦那衆が、舞や三味線など芸姑たちの優美な芸を楽しんだ社交場です。
今でもお茶屋さんが8件ほど営業をしていて芸子や芸者が20人ほどいるそうです、今でも一見さんお断りの厳しいしきたりをまもっているようです。
画像




画像




画像




画像




画像




画像




画像




画像



ここの東山地区は卯辰山の山麓に寺院が点在する卯辰山寺院群と、泉鏡花の滝の白糸の舞台となった地元では女川とも呼ばれている浅野川に面した歴史的にも古い地域です、狭い小路の裏通りが幾筋もあって歩いていても一昔前にタイムスリップした様な感覚になります。
画像



二階から謡曲が聞こえそうな・・
♪謡曲(うた)がふるふる加賀宝生の~ 木漏れ日青い石畳〰 あぁぁ~金沢は♪金沢は,,,そんな雰囲気でした。
画像




画像




画像




画像



東山から来た道を戻って、天神橋を渡った町に、行く時には気が付かなかった掘割に小さな橋が掛かっていました。
画像



橋のたもとには石柱が建っていて「旧 東外惣構掘」と記されていました,惣構掘(そうがまえほり)は江戸期に城下町を囲い込んだ掘りや土居(どい=土を盛り上げた土手)等、城の防御ために造られた要害であります。
金沢城には慶長4年に内惣構掘りが造られて、同15年には外惣構掘りが造られて、城下を二重に囲い込んでいました。
画像



今では町の中を小さな川が流れています、現状からは当時の惣構掘りは想像も出来ませんが、城下町の歴史を今に保存をしているようです。(下流側)
画像



上流側の惣構掘りの跡です。
画像



大手町に近付き、「武家屋敷」の表示に導かれて裏通りに入ると土塀をめぐらした大きな屋敷がありました、中では植木職人が樹木の剪定をしている姿が見えました、ここのお屋敷は一般公開をしていないようですが、昔の武家屋敷を保存することは、庭の樹木の管理や建物の管理など大変なことでしょう。
画像




画像




寺島蔵人邸を出てから1時間半程歩きました、この街は通りが狭く車で気軽に来られる所ではないので、私も久し振りに来ましたが随分変わっていました、建物や通りの様子は昔のままのようですが、観光客を目当てにした土産物の店や喫茶店、軽食店などが沢山出来ていて驚きました、一昔前と比べて茶屋に通うような客層が減ったのでしょうか?、時代に合わせて街の様子も変って行くのでしょう。

今日は予定していなかったのですが、金沢の下町を散歩することが出来て心身ともにリフレッシュしました。
お終いまでお目を通していただきまして、ありがとうございます。