四月の初めに山代温泉に1泊で行って来ました、自宅からは車で1時間半か2時間ほどのところです、次の日に直接帰ってくると早すぎる帰宅になりますので、山代温泉の街中にある「魯山人寓居跡、いろは草庵」を見てきました。
現,いろは草庵は1870年に旅館吉野屋の主人吉野治朗の別荘として明治初期に建てられました、当時福田大観と名乗った無名の北大路魯山人を山代の人たちは温かく迎えてくれました、特に旅館吉野屋の主人の吉野治朗は自分の別荘(現,いろは草庵)を提供しました、この別荘で大正4年の秋から約半年間魯山人が生活をした場所です。
山代の旦那衆には、茶人や、書画・骨董などに造詣が深い風雅な人たちが多く、この別荘は文化サロン的な場所でした。
img161 posted by (C)gotyan
北大路魯山人略年譜
1883年 京都上賀茂神社の社家、北大路清操の二男として
誕生。名は房次郎。
うまれるとすぐ里子に出され、不遇な幼少時代を
過ごす。
1886年 義母に背負われ散歩に行った時に見た真赤な
山つつじの美しさに感動。
美に惹かれて行く。
1903年 書家を志して上京。
1913年 京都の豪商、内貴清兵衛の書生を勤め、
このとき京料理の味を覚える。
1915年 「八月」書家、篆刻家としての才能を持つ
魯山人(当時福田大観)は、細野家の食客となり、
燕台と煎茶仲間の初代須田菁華、吉野次郎、
大田多吉に出会い、この煎茶の席で、山代温泉旅館
の看板製作を依頼される。
「十月」細野燕台に伴われて山代温泉に来た大観は、
「吉野屋旅館」の食客として迎えられ提供された別荘
(現いろは草庵)で刻字看板の制作を始める。
「十一月」菁華の刻字看板完成。その見事な出来栄え
に菁華窯の仕事場に入る事が許され、始めて絵付け
を体験する。
書家の大観も最初は、素焼きの上では筆が思うように
滑らず困惑したという。
この日から看板を彫るかたわら菁華窯に通い陶芸に
見せられていく。
初代菁華は大観の大胆で正確な筆運びに驚くと共に、
陶芸に対する才能をこの時見抜いたという。
1916年 「四月」 蕨(わらび)の出る頃まで滞在。
1925年 東京赤坂に高級料亭「星岡茶寮」を開設し、
顧問兼料理長となる。
1936年 星岡茶寮解雇、以来北鎌倉で作陶に専念。
1955年 織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)
の認定を辞退する。
1959年 七十六歳の生涯を終える。
私は魯山人は陶芸家と料理家と思っていたのですが、Wikipediで調べると広い意味で日本の芸術家としてランクされています、篆刻家、画家、書道家、漆芸、もちろん陶芸や料理、美食家でもあったようです。
明治時代に建てられたいろは草庵はベンガラ色の壁でモダンながら落ち着いた佇まいでした。
P1240314 posted by (C)gotyan
1-P1240313 posted by (C)gotyan
2-P1240291 posted by (C)gotyan
3-P1240293 posted by (C)gotyan
P1240312 posted by (C)gotyan
書斎です、ここに座って庭を眺めながら陶芸や篆刻のデザインを考えたり絵を描いていたことでしょう。
6-P1240302 posted by (C)gotyan
img162 posted by (C)gotyanいろは草庵のパンフレットより
この茶室で山代に来て親しくなった旦那衆と茶をたてて親睦を深めたことでしょう。
7-P1240304 posted by (C)gotyan
当時使われていたと思われる電話機が壁に残されていました。
9-P1240301 posted by (C)gotyan
8-P1240307 posted by (C)gotyan
現在のいろは草庵のロビーです、ここの腰をおろして庭を見ながら香りのよい加賀棒茶とお菓子をごちそうになってきました。
4-P1240294 posted by (C)gotyan
ロビーから眺めた黒い玉砂利と苔庭の間に雨だれ受けと思われる物は有りました、瓦と切り炭を並べた様に見えますが切り口の模様が菊の花の様でいかにも茶人好みのように見えました。
12-P1240298 posted by (C)gotyan
11--P1240300 posted by (C)gotyan
山代温泉でひときわ目をひく復活した「古総湯」の建物です、しだれ柳が新緑の芽を吹いて季節感を出しています。
14-P1240315 posted by (C)gotyan
魯山人の絵付けした陶器や直筆の書などが展示されていましたが、写真撮影が禁止されていましたので残念ながら皆さんに紹介出来ません。
魯山人が北陸で楽しみにしていたものが加賀の味覚だったようです、美味しいものに人一倍食欲があった魯山人が開眼させられた食材には、コノワタ(ナマコの卵巣)、クチコ(ナマコの卵巣を干したもの)、香箱蟹、ズワイ蟹、真鱈のちり鍋、鴨鍋、スッポンなどがあります、美食家の魯山人が北陸に来て料理のレシピが広がったことでしょう。
魯山人の絵付けした皿に北陸の味覚を盛りつけた情景が目に浮かぶ様でした。
思いがけなく魯山人の北陸での足跡をたどる事ができました、ご訪問ありがとうございます。
本記事を書くのにあたり「魯山人寓居跡、いろは草庵」のパンフレットを参考にさせて頂きました。
現,いろは草庵は1870年に旅館吉野屋の主人吉野治朗の別荘として明治初期に建てられました、当時福田大観と名乗った無名の北大路魯山人を山代の人たちは温かく迎えてくれました、特に旅館吉野屋の主人の吉野治朗は自分の別荘(現,いろは草庵)を提供しました、この別荘で大正4年の秋から約半年間魯山人が生活をした場所です。
山代の旦那衆には、茶人や、書画・骨董などに造詣が深い風雅な人たちが多く、この別荘は文化サロン的な場所でした。
img161 posted by (C)gotyan
北大路魯山人略年譜
1883年 京都上賀茂神社の社家、北大路清操の二男として
誕生。名は房次郎。
うまれるとすぐ里子に出され、不遇な幼少時代を
過ごす。
1886年 義母に背負われ散歩に行った時に見た真赤な
山つつじの美しさに感動。
美に惹かれて行く。
1903年 書家を志して上京。
1913年 京都の豪商、内貴清兵衛の書生を勤め、
このとき京料理の味を覚える。
1915年 「八月」書家、篆刻家としての才能を持つ
魯山人(当時福田大観)は、細野家の食客となり、
燕台と煎茶仲間の初代須田菁華、吉野次郎、
大田多吉に出会い、この煎茶の席で、山代温泉旅館
の看板製作を依頼される。
「十月」細野燕台に伴われて山代温泉に来た大観は、
「吉野屋旅館」の食客として迎えられ提供された別荘
(現いろは草庵)で刻字看板の制作を始める。
「十一月」菁華の刻字看板完成。その見事な出来栄え
に菁華窯の仕事場に入る事が許され、始めて絵付け
を体験する。
書家の大観も最初は、素焼きの上では筆が思うように
滑らず困惑したという。
この日から看板を彫るかたわら菁華窯に通い陶芸に
見せられていく。
初代菁華は大観の大胆で正確な筆運びに驚くと共に、
陶芸に対する才能をこの時見抜いたという。
1916年 「四月」 蕨(わらび)の出る頃まで滞在。
1925年 東京赤坂に高級料亭「星岡茶寮」を開設し、
顧問兼料理長となる。
1936年 星岡茶寮解雇、以来北鎌倉で作陶に専念。
1955年 織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)
の認定を辞退する。
1959年 七十六歳の生涯を終える。
私は魯山人は陶芸家と料理家と思っていたのですが、Wikipediで調べると広い意味で日本の芸術家としてランクされています、篆刻家、画家、書道家、漆芸、もちろん陶芸や料理、美食家でもあったようです。
明治時代に建てられたいろは草庵はベンガラ色の壁でモダンながら落ち着いた佇まいでした。
P1240314 posted by (C)gotyan
1-P1240313 posted by (C)gotyan
2-P1240291 posted by (C)gotyan
3-P1240293 posted by (C)gotyan
P1240312 posted by (C)gotyan
書斎です、ここに座って庭を眺めながら陶芸や篆刻のデザインを考えたり絵を描いていたことでしょう。
6-P1240302 posted by (C)gotyan
img162 posted by (C)gotyanいろは草庵のパンフレットより
この茶室で山代に来て親しくなった旦那衆と茶をたてて親睦を深めたことでしょう。
7-P1240304 posted by (C)gotyan
当時使われていたと思われる電話機が壁に残されていました。
9-P1240301 posted by (C)gotyan
8-P1240307 posted by (C)gotyan
現在のいろは草庵のロビーです、ここの腰をおろして庭を見ながら香りのよい加賀棒茶とお菓子をごちそうになってきました。
4-P1240294 posted by (C)gotyan
ロビーから眺めた黒い玉砂利と苔庭の間に雨だれ受けと思われる物は有りました、瓦と切り炭を並べた様に見えますが切り口の模様が菊の花の様でいかにも茶人好みのように見えました。
12-P1240298 posted by (C)gotyan
11--P1240300 posted by (C)gotyan
山代温泉でひときわ目をひく復活した「古総湯」の建物です、しだれ柳が新緑の芽を吹いて季節感を出しています。
14-P1240315 posted by (C)gotyan
魯山人の絵付けした陶器や直筆の書などが展示されていましたが、写真撮影が禁止されていましたので残念ながら皆さんに紹介出来ません。
魯山人が北陸で楽しみにしていたものが加賀の味覚だったようです、美味しいものに人一倍食欲があった魯山人が開眼させられた食材には、コノワタ(ナマコの卵巣)、クチコ(ナマコの卵巣を干したもの)、香箱蟹、ズワイ蟹、真鱈のちり鍋、鴨鍋、スッポンなどがあります、美食家の魯山人が北陸に来て料理のレシピが広がったことでしょう。
魯山人の絵付けした皿に北陸の味覚を盛りつけた情景が目に浮かぶ様でした。
思いがけなく魯山人の北陸での足跡をたどる事ができました、ご訪問ありがとうございます。
本記事を書くのにあたり「魯山人寓居跡、いろは草庵」のパンフレットを参考にさせて頂きました。