go の let's goシニア

リタイヤ・・何でもヤリタイヤ
登山、渓流釣りを卒業して四季の花を愛でています

鳳凰殿の紅葉

2020年11月19日 | インポート
3年程前までは紅葉のこの時期は山に登ってブログの写真を写していま
したが、登るときは大丈夫なのですが下りの足取りがしっかりしません、
一度下りの時に足がもつれて転んだ事がありました、幸い怪我もなかっ
たのですが転ぶ場所が悪かったら怪我をしていたと思うと、人に迷惑を
かけないうちに登山はやめようと思いました。
そんな訳で紅葉は車で行ける範囲で楽しむことにしました、先週に
鳳凰殿の紅葉を見に行ってきました、正式には倶利伽羅不動尊西之坊
鳳凰殿(くりからふどうそんにしのぼうほうおうでん)といいます。





昔、このあたりには弘法大使が建てた七堂伽藍と十二ヶ寺があったと
いうことです、その復興の最初に鳳凰堂が1998(平成10)年に
建てられました。
モミジの紅葉も丁度良く寺の白壁に映えて綺麗でした。













一足早く色着いたモミジは散っているものもありました、散ったモミジ
の葉もきれいで踏みつけるのを躊躇いました。









寺の横に古墳がありました、階段を上って古墳の上より下の伽藍を見ると
紅葉したモミジなどに寺全体が包み込まれて良い眺めでした。
















庭園のあちらこちらに大理石で作った等身大の七福神が祀られていました、
5体迄探せたのですが、恵比寿と大黒天が見当たりませんでした。
毘沙門天の像



福禄寿の像



布袋尊の像



弁財天の像



寿老人の像



見事な自然石を使った泉水か手水鉢がありました、中央のお仏像の周りに
季節のモミジの葉があしらわれて絵になっていました。









こちらは手水鉢ですが、コロナの関係か? 子爵がありません。



春には若緑の葉をつけて、夏にはその葉を茂らせていたモミジが最後の
装いをしています、散る前の美しい姿です。


私は不動信仰をしている訳ではありませんんが、綺麗な紅葉をみせて
頂き感謝しています、こうしてこのシーズンに訪れるようになって
2年になります、紅葉のシーズンだけですがこうして寄せていただけ
るのはご本尊様の思紙召かもしれませんん、ありがとうございます。

きょうも皆さんご訪問くださってありがとうございます。







秋の那谷寺

2020年11月16日 | インポート
11月12日(木)は朝から青空の良い天気でした、モミジの真っ赤な
紅葉を見たくて那谷寺に行ってきました、例年を想像して行ったのです
がGOTOでかなり広い駐車場も県外ナンバーの車で満車状態でした。
入場券を買い求める人が列を作っていました、さすがに私を含めて皆
さんマスクをしていましたが屋外とは言え密にならない様にソーシャル
デスタンスを取って列につきました。


一番最初の金堂華王殿の中の十一面千手観音を参拝する人が集まってま
いましたが、密になりやすいのでスルーしました。


モミジが丁度良く色着いていましたが、通路を足早に歩いて園内を循環
しました。


奇岩遊仙境の下の池にモミジの紅葉が映えてきれいでした。


奇岩遊仙境は松の緑と赤く色着いたモミジやドウダンつつじがコラボして
一番美しいシーズンです。





モミジやドウダンツツジが紅葉した園内をめぐってきました。





俳聖松尾芭蕉が元禄2(1689)年にこの寺を参拝
し、奥の細道にて
”石やまの 石より白し 秋の風”と詠んで那谷寺を
表現しました、句碑は風化のために文字がよく読み取
れません、天保14(1843)年に芭蕉の150回
忌に建立して177年も経っています。
句の内容からすると秋の深まって紅葉も散った頃の
ような気がします。

小高い山手に三重の塔がありました、パンフレットに
よると加賀藩の確か三代目の前田利常が建てたとのこと
です。



高い舞台に上がり奇岩遊仙境を上から見ました、ここからの眺めが一番
那谷寺らしい景色のように思えます、自然の岩山に洞穴をほり、修行の
場所としていたようです。





大悲閣(本殿)に上る階段です。





あとはは園内をめぐって写真を写してきました。




14-P1260706
14-P1260706 posted by (C)gotyan






モミジが綺麗に紅葉して時期的には良いタイミングでした。





私が帰る頃にも入場する人たちで賑やかでした。


何年かこのシーズンに来ていますが今年のような混雑は
初めてです、GOTOトラベルで加賀の温泉地(山中、山代、
粟津、片山津)来た人たちが多かったようです、私を含を
ほとんど全員がマスクをしていましたが、田舎者にはこの
人ごみは苦手です、一時間くらいで園内をめぐって退散
しました。






犀鶴林道(さいかくりんどう)秋

2020年11月10日 | インポート
今日は11月10日になりますが10日前の11月1日の日曜日に自宅近くの
林道に行ってきました、別に何の目的もなかったのですが秋の山の景色を
見て日ごろの憂さ晴らしが出来たらよいと思って出かけました。
この林道は白山麓の鶴来から金沢市を流れる犀川の上流をつなぐ林道です、
途中はカーブが連続していますが全線舗装がされています。
獅子吼山(ししくやま)と三国山の二つの峰を超えるので登りあり下りあり
それにカーブか多くなかなかスリリングな林道です。




紅葉には少し早い時期ですが山は秋の様相を見せています、この山はモミジが
無い山なので赤く紅葉する景色は見られませんが山全体が秋色に染まっています。





















沿道に野菊の花が咲いていました、この花が咲いて北風が吹き、やがて白一色で
山は人を寄せ付けない季節になってゆくのですね。






夏も終わりアザミの花が首を垂れ最後の装いを見せています。




ヨウシュヤマゴボウの花も終わって実がなっています、この植物は平地に
自生しているのですがこんな山奥でこの植物を見るのは初めてです、
人為的に何かに紛れて種子が来たのでしょう。




今日は獅子吼山を超えて菊水地区で引き返して、林道に入った鶴来に戻って
きました、獅子吼山から手取川の扇状地が真下に見えます、真下の家が密集
しているところが鶴来の街です。手取川に架かっている青い橋が二つ見えます、
お天気が良いと遠くの日本海まで見えるのですが、今日は曇り空で海は見え
なかったです、これからこの山を降りてあの橋を渡って自宅に帰ります。


ほんの変わった日常をブログネタにしました、これから北陸も紅葉のシーズンに
なります、綺麗な紅葉風景を写真に収めて、もっときれいな紅葉のブログを書き
たいと思っています、本日はご訪問頂きましてありがとうございます。



橋立にドライブ

2020年11月03日 | インポート
コロナの蔓延で出掛ける事が少なくなって、生活必需品や食料の買い出し
とウォーキングが日課になっています、それに月一の薬を取りに医院と
薬局に行くぐらいで貴重な時間を平々凡々と過ごしています。
そんな時間にメリハリをつけようとお天気の良い日にドライブに出掛け
ました、以前にもブログで紹介したことがあります橋立に北前船の資料
館がありますが今回は資料館には入らずに北前船で栄えた橋立の街を散策
してみたいと思いました。
橋立に行く途中に安宅の関跡があります、そこで小休止をしました。
駐車場には弁慶のモニュメントがあります、平日のせいか関跡に向かう
松林の遊歩道は静かなたたずまいでした。






松林のなかに関跡の石碑が立っています。



海辺の砂丘側の門の横に与謝野晶子が詠んだ短歌の石碑が立っています、
  ”松たてる 安宅の砂丘 その中に清きは 文治三年の関”




今では安宅の関のシンボルとなっています、義経一行が関守の富樫左衛門の
審判を受けるシーンです、歌舞伎勧進帳の弁慶、義経、富樫の像です。


安宅関跡を出発して今日の目的地の橋立に着きました、橋立港です。
現在は漁業基地として沢山の漁船が係留されています、北前船盛んな頃は
木造の和船のペザイ船や洋風の帆船が出入りしていたことでしょう。


北前船の里の駐車場は資料館の裏手になります、季節柄、塀に絡んだツタ
の葉が紅葉して綺麗でした。



資料館の横手の板塀は北前船盛んな頃は船虫に食われて穴が開くので何年
かに一度船の底板を張り替えるのでその廃材を利用していたようです、船
の底板は樫の木や水に浸かっても耐久性のある木材を使用していたので板
塀の材料としては適していました。
現在は真新しい板塀になっていました。
塀の下の石積は福井の足羽山の近くでとれる”笏谷石(しゃくたにいし)”
で積んであります。
笏谷石は火山礫灰岩でぬれると青い色に変色して比較的柔らかく加工が
しやすいので石積や建物の土台、瓦などに利用しています。



北前船の里資料館の外観です、この建物は旧北前船主の酒谷家の7代目
酒谷長兵衛が明治9年(1876)に建てたものです、その後加賀市が
譲り受け、昭和58年から北前船の里資料館として一般に公開している
ものです。





さすが北前船の巨万の富で栄えた街です、高台の上に屋敷を構えて、擁壁は
笏谷石で積み上げて、板塀に囲まれた立派な屋敷が目立ちます。





街なかを散策していたら旧北前船主の西出家の屋敷跡の表札が目に入りま
した、橋立には北前船主は何軒かありますが西出家といえば久保家と並ん
で1、2を争う北前船主です、明治22年には和船5隻と汽船1隻を持っ
ていました、なお同家では11代孫左衛門の時に函館に支店をつくり北洋
漁業に進み、大正初期には千島に移り定置網を成功させ、昭和13年には
北洋水産を創立しています。
その先見性により現在でも函館で13代目が活躍をしているそうです。


そのように栄えた北前船の時代が過ぎて、西出家の屋敷跡が林に囲まれて
寂しく残っていました、当時を偲ばれる井戸の跡が見えます。



右の石段を上がれば西出家の屋敷跡があります、両側の擁壁は笏谷石で
積まれています、年数を感じさせないしっかりとした石積です。





石積がずれない様に鉄のクサビが打たれています、石積技術の確かさが
偲ばれます。





板塀と笏谷石のすっきりとした街並みでした。




石積のあいだからツワブキの花が咲いていました、日照りには水分もない
のにその強さには感服します。



北前船は現在のような単なる物を運送する船ではありません、各寄港地で
商売をしながら航海をする商船です、大阪で仕入れた品物を東北や北海道で
販売し、北海道の昆布やニシンを仕入れて大阪などの寄港地で販売しする、
いわば動く商社です、商才にたけた船主はそのようにして巨万の富を得ま
した、橋立は北前船で成功を収めた船主や乗組員が住んだ街でした。
江戸時代末期、1艘の船で1千両の利益があったそうです、北前船が衰え
が目立ってきた明治31年(1898)の石川県小松税務署の申告所得に
よれば、温泉旅館の最高所得者で326円、有名酒造家で813円、有名
医師で800円、有名呉服商で400円などに対し北前船主大家七兵衛
(瀬越町)が26.500円でトップ、西出孫左衛門が3.239円で他の
職業と比較にならないような利益を得ていました。

北前船の里資料館の以前のブログです、御時間があったら見てください。
北前船とそのふる里ー加賀橋立
https://naka-go.at.webry.info/201509/article_1.html

ご訪問ありがとうございます。