コロナの蔓延で出掛ける事が少なくなって、生活必需品や食料の買い出し
とウォーキングが日課になっています、それに月一の薬を取りに医院と
薬局に行くぐらいで貴重な時間を平々凡々と過ごしています。
そんな時間にメリハリをつけようとお天気の良い日にドライブに出掛け
ました、以前にもブログで紹介したことがあります橋立に北前船の資料
館がありますが今回は資料館には入らずに北前船で栄えた橋立の街を散策
してみたいと思いました。
橋立に行く途中に安宅の関跡があります、そこで小休止をしました。
駐車場には弁慶のモニュメントがあります、平日のせいか関跡に向かう
松林の遊歩道は静かなたたずまいでした。
松林のなかに関跡の石碑が立っています。
海辺の砂丘側の門の横に与謝野晶子が詠んだ短歌の石碑が立っています、
”松たてる 安宅の砂丘 その中に清きは 文治三年の関”
今では安宅の関のシンボルとなっています、義経一行が関守の富樫左衛門の
審判を受けるシーンです、歌舞伎勧進帳の弁慶、義経、富樫の像です。
安宅関跡を出発して今日の目的地の橋立に着きました、橋立港です。
現在は漁業基地として沢山の漁船が係留されています、北前船盛んな頃は
木造の和船のペザイ船や洋風の帆船が出入りしていたことでしょう。
北前船の里の駐車場は資料館の裏手になります、季節柄、塀に絡んだツタ
の葉が紅葉して綺麗でした。
資料館の横手の板塀は北前船盛んな頃は船虫に食われて穴が開くので何年
かに一度船の底板を張り替えるのでその廃材を利用していたようです、船
の底板は樫の木や水に浸かっても耐久性のある木材を使用していたので板
塀の材料としては適していました。
現在は真新しい板塀になっていました。
塀の下の石積は福井の足羽山の近くでとれる”笏谷石(しゃくたにいし)”
で積んであります。
笏谷石は火山礫灰岩でぬれると青い色に変色して比較的柔らかく加工が
しやすいので石積や建物の土台、瓦などに利用しています。
北前船の里資料館の外観です、この建物は旧北前船主の酒谷家の7代目
酒谷長兵衛が明治9年(1876)に建てたものです、その後加賀市が
譲り受け、昭和58年から北前船の里資料館として一般に公開している
ものです。
さすが北前船の巨万の富で栄えた街です、高台の上に屋敷を構えて、擁壁は
笏谷石で積み上げて、板塀に囲まれた立派な屋敷が目立ちます。
街なかを散策していたら旧北前船主の西出家の屋敷跡の表札が目に入りま
した、橋立には北前船主は何軒かありますが西出家といえば久保家と並ん
で1、2を争う北前船主です、明治22年には和船5隻と汽船1隻を持っ
ていました、なお同家では11代孫左衛門の時に函館に支店をつくり北洋
漁業に進み、大正初期には千島に移り定置網を成功させ、昭和13年には
北洋水産を創立しています。
その先見性により現在でも函館で13代目が活躍をしているそうです。
そのように栄えた北前船の時代が過ぎて、西出家の屋敷跡が林に囲まれて
寂しく残っていました、当時を偲ばれる井戸の跡が見えます。
右の石段を上がれば西出家の屋敷跡があります、両側の擁壁は笏谷石で
積まれています、年数を感じさせないしっかりとした石積です。
石積がずれない様に鉄のクサビが打たれています、石積技術の確かさが
偲ばれます。
板塀と笏谷石のすっきりとした街並みでした。
石積のあいだからツワブキの花が咲いていました、日照りには水分もない
のにその強さには感服します。
北前船は現在のような単なる物を運送する船ではありません、各寄港地で
商売をしながら航海をする商船です、大阪で仕入れた品物を東北や北海道で
販売し、北海道の昆布やニシンを仕入れて大阪などの寄港地で販売しする、
いわば動く商社です、商才にたけた船主はそのようにして巨万の富を得ま
した、橋立は北前船で成功を収めた船主や乗組員が住んだ街でした。
江戸時代末期、1艘の船で1千両の利益があったそうです、北前船が衰え
が目立ってきた明治31年(1898)の石川県小松税務署の申告所得に
よれば、温泉旅館の最高所得者で326円、有名酒造家で813円、有名
医師で800円、有名呉服商で400円などに対し北前船主大家七兵衛
(瀬越町)が26.500円でトップ、西出孫左衛門が3.239円で他の
職業と比較にならないような利益を得ていました。
北前船の里資料館の以前のブログです、御時間があったら見てください。
北前船とそのふる里ー加賀橋立
https://naka-go.at.webry.info/201509/article_1.html
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