稲穂が黄色く色付く9月10日に白山麓の鳥越城跡を訪れてきました。
鳥越城跡はテレビや観光案内等でその存在は知っていました、その気になれば自宅から車で約1時間弱で行けるところですが機会がなくてこれまで一度も行ったことは有りませんでしたが空が高くなった好天に誘われて訪ねる事が出来ました。
鳥越城跡は霊峰白山を源として日本海にそそぐ手取川とその支流の大日川の合流部に、二つの流れに挟まれた丘陵の先端部に築かれた山城です。
主郭部の標高は312mで、頂上の400m×1200mに7ヶ所の平坦部を造成して、本丸、二の丸、三の丸、中の丸、後二の丸、後三の丸を配し、自然の地形をたくみの利用して空掘りや土塁を配置して守りを固めています。
正確な築城の年代は定かでは有りませんが、天正初年(1573)頃に白山麓門徒組織の山内惣庄の旗本の鈴木出羽守(重泰)を初代城主として築かれたと伝えられています。
織田信長の加賀一向一揆討滅に白山麓門徒衆が抵抗した加賀一向一揆の最後の砦となった城です。
大日川方向から見た城山と呼ばれている丘陵です、頂上部の平坦な部分に城が築かれていた。
城跡へはクネクネと曲がった道をたどる。
山頂の駐車場からは後二の丸が建っていた法面が目の前に見える。
本丸と後二の丸の間の空掘り跡、一向一揆が鎮圧された時にここで処刑されてと伝えられている。
駐車場の案内看板に城址の平面図が表示されている、昭和52年より発掘調査が行われ、掘立建物跡、礎石建物跡、本丸門、桝形門、中の丸門、土塁、空掘、柵列等が復元整備されています。
本丸に登る坂道、左手に本丸に巡らされた空掘りが有りました。
本丸へ続く桝形門が復元されている。
復元された桝形門を正面から見ると、左右に石垣が巡らされて守りを固めている。
桝形門を抜けると正面を本丸の法面がふさぎ、右手へ本丸へ登る通路が鉤の手にジグザグと続く、本丸は一段高い位置にある。
本丸門を正面から見る、左右に土塁が築かて本丸を守っている。
本丸門より桝形門を振り返る、桝形門と本丸との通路は鉤の手にジグザグになっていて攻め入った敵を石垣や左右の土塁の上から攻撃出来るように配置されていて本丸には容易に攻め入れない。
本丸跡には発掘した掘立建物跡や礎石建物跡が復元されている、左手には守りの為の柵列が復元されている。
井戸の跡です。
本丸門の左側には上部が平らな土塁が有り、この上に物見櫓が築かれていた。
本丸より手取川方面を望む、中段左側の鉄塔の先のあたりで大日川が合流している。
中の丸より大日川方面を望む、典型的な山城で下から攻めてくる敵が一目瞭然に見えるようになっている。
中の丸の柵列と中の丸門。
中の丸門に続く道は傾斜の強い山道になっている。
廻りを土塁に囲まれた二の丸跡。
”一揆敗れて 山河あり” モニュメントが有りました、
ここ鳥越城は、天正8年(1580)に織田方の柴田勝家軍に攻められて頑強な対抗も虚しく落城し、主領の鈴木一族は滅ぼされました。
その後も一揆勢の抵抗は続き、一時は城を奪還したものの、天正10年(1582)に織田方の佐久間盛政によって鎮圧され三百余人が磔に処せられた、ここに加賀一向一揆は壊滅したことになっています。
帰路の手取川流域より見返す城山、頂上付近が平らになっていて城の有った当時を偲ばれる。
今は平和な田園風景が広がる山里ですが430年間前には壮絶な攻防戦がこの里山で繰り広げていたのです、
一向一揆が鎮圧されて処刑された後の白山麓の里にはしばらくの間は人影も消えたと伝えられています。
![](https://maps.googleapis.com/maps/api/staticmap?key=AIzaSyAQZUdkLscCYPCJreGcsUZDsFps-Iol_X4¢er=36.36655179896196,136.60169820005763&maptype=map&zoom=15&size=300x300&markers=anchor:bottom|icon:https%3a%2f%2fmap%2ebblog%2ebiglobe%2ene%2ejp%2fimages%2fgicons%2fpin_misc%2epng|36.36655179896196,136.60169820005763)
ご訪問ありがとうございます、まことに勝手ながらコメント欄を閉じさせていただきます。
鳥越城跡はテレビや観光案内等でその存在は知っていました、その気になれば自宅から車で約1時間弱で行けるところですが機会がなくてこれまで一度も行ったことは有りませんでしたが空が高くなった好天に誘われて訪ねる事が出来ました。
鳥越城跡は霊峰白山を源として日本海にそそぐ手取川とその支流の大日川の合流部に、二つの流れに挟まれた丘陵の先端部に築かれた山城です。
主郭部の標高は312mで、頂上の400m×1200mに7ヶ所の平坦部を造成して、本丸、二の丸、三の丸、中の丸、後二の丸、後三の丸を配し、自然の地形をたくみの利用して空掘りや土塁を配置して守りを固めています。
正確な築城の年代は定かでは有りませんが、天正初年(1573)頃に白山麓門徒組織の山内惣庄の旗本の鈴木出羽守(重泰)を初代城主として築かれたと伝えられています。
織田信長の加賀一向一揆討滅に白山麓門徒衆が抵抗した加賀一向一揆の最後の砦となった城です。
大日川方向から見た城山と呼ばれている丘陵です、頂上部の平坦な部分に城が築かれていた。
城跡へはクネクネと曲がった道をたどる。
山頂の駐車場からは後二の丸が建っていた法面が目の前に見える。
本丸と後二の丸の間の空掘り跡、一向一揆が鎮圧された時にここで処刑されてと伝えられている。
駐車場の案内看板に城址の平面図が表示されている、昭和52年より発掘調査が行われ、掘立建物跡、礎石建物跡、本丸門、桝形門、中の丸門、土塁、空掘、柵列等が復元整備されています。
本丸に登る坂道、左手に本丸に巡らされた空掘りが有りました。
本丸へ続く桝形門が復元されている。
復元された桝形門を正面から見ると、左右に石垣が巡らされて守りを固めている。
桝形門を抜けると正面を本丸の法面がふさぎ、右手へ本丸へ登る通路が鉤の手にジグザグと続く、本丸は一段高い位置にある。
本丸門を正面から見る、左右に土塁が築かて本丸を守っている。
本丸門より桝形門を振り返る、桝形門と本丸との通路は鉤の手にジグザグになっていて攻め入った敵を石垣や左右の土塁の上から攻撃出来るように配置されていて本丸には容易に攻め入れない。
本丸跡には発掘した掘立建物跡や礎石建物跡が復元されている、左手には守りの為の柵列が復元されている。
井戸の跡です。
本丸門の左側には上部が平らな土塁が有り、この上に物見櫓が築かれていた。
本丸より手取川方面を望む、中段左側の鉄塔の先のあたりで大日川が合流している。
中の丸より大日川方面を望む、典型的な山城で下から攻めてくる敵が一目瞭然に見えるようになっている。
中の丸の柵列と中の丸門。
中の丸門に続く道は傾斜の強い山道になっている。
廻りを土塁に囲まれた二の丸跡。
”一揆敗れて 山河あり” モニュメントが有りました、
ここ鳥越城は、天正8年(1580)に織田方の柴田勝家軍に攻められて頑強な対抗も虚しく落城し、主領の鈴木一族は滅ぼされました。
その後も一揆勢の抵抗は続き、一時は城を奪還したものの、天正10年(1582)に織田方の佐久間盛政によって鎮圧され三百余人が磔に処せられた、ここに加賀一向一揆は壊滅したことになっています。
帰路の手取川流域より見返す城山、頂上付近が平らになっていて城の有った当時を偲ばれる。
今は平和な田園風景が広がる山里ですが430年間前には壮絶な攻防戦がこの里山で繰り広げていたのです、
一向一揆が鎮圧されて処刑された後の白山麓の里にはしばらくの間は人影も消えたと伝えられています。
ご訪問ありがとうございます、まことに勝手ながらコメント欄を閉じさせていただきます。