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登山、渓流釣りを卒業して四季の花を愛でています

鳥越城跡を訪ねて

2013年10月26日 | インポート
稲穂が黄色く色付く9月10日に白山麓の鳥越城跡を訪れてきました。
鳥越城跡はテレビや観光案内等でその存在は知っていました、その気になれば自宅から車で約1時間弱で行けるところですが機会がなくてこれまで一度も行ったことは有りませんでしたが空が高くなった好天に誘われて訪ねる事が出来ました。

鳥越城跡は霊峰白山を源として日本海にそそぐ手取川とその支流の大日川の合流部に、二つの流れに挟まれた丘陵の先端部に築かれた山城です。

主郭部の標高は312mで、頂上の400m×1200mに7ヶ所の平坦部を造成して、本丸、二の丸、三の丸、中の丸、後二の丸、後三の丸を配し、自然の地形をたくみの利用して空掘りや土塁を配置して守りを固めています。

正確な築城の年代は定かでは有りませんが、天正初年(1573)頃に白山麓門徒組織の山内惣庄の旗本の鈴木出羽守(重泰)を初代城主として築かれたと伝えられています。
織田信長の加賀一向一揆討滅に白山麓門徒衆が抵抗した加賀一向一揆の最後の砦となった城です。


大日川方向から見た城山と呼ばれている丘陵です、頂上部の平坦な部分に城が築かれていた。
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城跡へはクネクネと曲がった道をたどる。
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山頂の駐車場からは後二の丸が建っていた法面が目の前に見える。
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本丸と後二の丸の間の空掘り跡、一向一揆が鎮圧された時にここで処刑されてと伝えられている。
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駐車場の案内看板に城址の平面図が表示されている、昭和52年より発掘調査が行われ、掘立建物跡、礎石建物跡、本丸門、桝形門、中の丸門、土塁、空掘、柵列等が復元整備されています。
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本丸に登る坂道、左手に本丸に巡らされた空掘りが有りました。
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本丸へ続く桝形門が復元されている。
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復元された桝形門を正面から見ると、左右に石垣が巡らされて守りを固めている。
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桝形門を抜けると正面を本丸の法面がふさぎ、右手へ本丸へ登る通路が鉤の手にジグザグと続く、本丸は一段高い位置にある。
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本丸門を正面から見る、左右に土塁が築かて本丸を守っている。
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本丸門より桝形門を振り返る、桝形門と本丸との通路は鉤の手にジグザグになっていて攻め入った敵を石垣や左右の土塁の上から攻撃出来るように配置されていて本丸には容易に攻め入れない。
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本丸跡には発掘した掘立建物跡や礎石建物跡が復元されている、左手には守りの為の柵列が復元されている。
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井戸の跡です。
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本丸門の左側には上部が平らな土塁が有り、この上に物見櫓が築かれていた。
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本丸より手取川方面を望む、中段左側の鉄塔の先のあたりで大日川が合流している。
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中の丸より大日川方面を望む、典型的な山城で下から攻めてくる敵が一目瞭然に見えるようになっている。
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中の丸の柵列と中の丸門。
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中の丸門に続く道は傾斜の強い山道になっている。
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廻りを土塁に囲まれた二の丸跡。
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”一揆敗れて 山河あり” モニュメントが有りました、
ここ鳥越城は、天正8年(1580)に織田方の柴田勝家軍に攻められて頑強な対抗も虚しく落城し、主領の鈴木一族は滅ぼされました。
その後も一揆勢の抵抗は続き、一時は城を奪還したものの、天正10年(1582)に織田方の佐久間盛政によって鎮圧され三百余人が磔に処せられた、ここに加賀一向一揆は壊滅したことになっています。
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帰路の手取川流域より見返す城山、頂上付近が平らになっていて城の有った当時を偲ばれる。
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今は平和な田園風景が広がる山里ですが430年間前には壮絶な攻防戦がこの里山で繰り広げていたのです、
一向一揆が鎮圧されて処刑された後の白山麓の里にはしばらくの間は人影も消えたと伝えられています。







ご訪問ありがとうございます、まことに勝手ながらコメント欄を閉じさせていただきます。








紅葉の山路を訪ねて

2013年10月21日 | インポート
13日に登った金剛堂山でも紅葉には少し早いようでした、先週は気温が低い日が続いたので山の様子も気になるところです。
20日(日)には三線の慰問演奏の予定があるので19日(土)に毎年春と秋に登っている石川県と富山県境の大門山の先の赤魔木古山(あかまっこやま)へブナ林の紅葉の写真を写すために行って来ました。

東海北陸自動車道の五箇山インター近くから林道に入って道幅の狭い林道を約30分でブナオ峠の登山口に到着しました、ここは海抜1000m弱で照葉樹の葉も青く紅葉は未だ先のようです。
登山口には太陽電池パネルが付いた登山者の自動計測装置が2~3年前から設置されています。
(クリックして画像を大きくしてご覧ください)
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若木の時から雪の重みで変形したブナの木が登山道に張り出していて通る人は下をくぐって通ります、伐採されずに残っています。
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太いブナの木の幹にコブが出来ていますが私には人の顔に見えました。
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ブナ林の中の大きな木の間を縫うように登山道が続きます、黄色に色付いたブナの葉とモミジの赤が互いの色を引き立てています。
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登山道に敷き詰められた落ち葉をカサカサと踏みしめながら登ります、朝から曇り空でしたがこの辺に来たら明るい曇り空になって、黄色や赤に色付いた林は目の覚めるような鮮やかさでした。
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大門山との分岐点休憩所です、大門山はここから0.4キロメートルです、今日はここから0.9㎞先の赤魔木古山に向かいます。
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この山はナナカマドの多い山です、今年は台風の風で葉が傷められたのでしょうか、葉がほとんど散ってしまって真赤な実が房状にいっぱいついていて綺麗です。
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ヌルデの紅葉、ヌルデは紅葉するのが比較的早い植物です。
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カマズミの葉の紅葉です、カマズミはナナカマドと同じような赤い実をつけます、ナナカマドの実は円形ですが、カマズミの実は少し楕円形をしています、子供の頃に食べた記憶がありますがどんな味がしたかは記憶がありません。
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楢の葉の紅葉です、頂上の楢の葉を撮っていたときにバッタかイナゴがじっと葉の上にいて動きませんでした、こんな高い場所にどうして来たんでしょう。
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モミジの紅葉です、山にはモミジやカエデがあって黄色く色付く物や赤く色付くもの、葉の大きなもの小さなもの、ひと口にモミジと云っても種類が分りません。
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白山は雲の中で新雪のその姿は見せてくれませんでした。
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頂上から下を見渡すと麓のブナ林はまだ紅葉はしていません、その年によって紅葉の時期はまったく違いますね、今年はもう一度登りたいですね。
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去年の10月26日にほぼ同じ場所の映像です、一週間早いので比較にはなりませんが、今年の紅葉は遅れているようです。
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登山の時は自分の映像をあまり写さなかったのですが、最近はなぜか写しています、だんだん足腰に自信がなくなって来ていますから・・・。
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ご訪問ありかとうございます。
















金剛堂山(こんごうどうざん)登山

2013年10月16日 | インポート
三連休の中日の13日(日)に晴れの予報を信じて単独行で金剛堂山(1638m)に登ってきました。
金剛堂山は飛騨と越中に跨る修験道山として歴史が古い山で日本二百名山選ばれています。
古くは加賀藩と富山藩の境界にあり、加賀では金剛堂山と呼び、富山では西白木山と呼ばれていたようですが、現在では富山市と南砺市の境界に位置し、金剛堂山と云う呼び名が一般的です。

スノーバレー利賀のスキー場入り口を過ぎて暫くで折谷登山口につきました、この山には過去に、春に二回、秋に2回登った事があります。

登山口は車が20台ほど停まれるスペースとトイレと水場があります、朝7時過ぎに着いた時には車が6台ほど停まっていましたが、身支度をしている間に次から次に車が4台ほど着きました。
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百瀬川に架かる鉄骨の橋を渡ると登山道の始まりです、午前7時40分に駐車場を出発しました。
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初めの沢道から尾根に登るまでは階段状の傾斜のきつい登山道が続きます。
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登山道は両脇の藪を刈り払って綺麗に整備されていました、また1㎞毎に標識が立っていて分りやすい。
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先週登った雨飾山もそうなんですが新潟県から福井県にかけての日本海側はブナ林が豊で白神山地にも劣らないブナ林になっています、このあたりの登山道の両側はブナの原生林になっていて大きなブナの木がが茂っています。
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大きな朴の木の葉が黄色く色付いて落ちていました、青い葉を乾燥させて飛騨ではほう葉味噌の料理に使う葉です。
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西の方に未だ登ったことがありませんが、遠くに人形山が見えました。
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すぐ横の山にはスノーバレー利賀のスキー場のゲレンデが良く見えます。
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1時間ほど登ると木々が少し色付いてこれから紅葉が始まるようです。
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お天気が良いので少し色付いた尾根道歩きは気持がいいです。
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歩き始めて約3時間で前金剛に着きました、金剛堂山は前金剛、中金剛、奥金剛があります、ここは前金剛です、三角点があり海抜は1638mです、1番海抜の高いのは中金剛の1650mになります。
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前金剛から中金剛を望む、中央の1番高いピークが中金剛です、昼食を済ませてから中金剛に向かう道を辿りました。
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中金剛に向かう途中の丘のようなピークに石碑があります、登山者が集まっているあたりにあります。
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この石碑は前に登った時にも何回か見ていますが、その時はあまり興味がなかったのですが最近になってその訳が分ったらもう一度見たくなりました、今回の登山の二つの目的の一つです。
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石碑の文字は風化のために良く読めませんが、縁に梅鉢の紋どころが刻まれているんのが見えます。
この石碑は嘉永6年(1853)に家来を引き連れてこの地を訪れた第10代富山藩主の前田利保公がこの地で詠ん歌が刻まれています、このとき利保公はすでに藩主の座を利友に譲って本草学(漢方)に力を注いでいました、薬草の採集の為にこの地に来て詠んだ歌を石碑に刻みその翌年(1854)にこの地に建てられました、こんな重い石を当時どのようにして運んだのでしょうか、それから160年近くこの地に立っているのです、その歌は

   飛騨信濃 畿そ能峰々 みな見えて 西ハ残さぬ白木屋万か那
   (飛騨信濃 木曽の峰々 みな見えて 西は残さぬ白木山かな)

何か他に意味のありそうな歌ですが私には真意は分りません。

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帰りは紅葉の写真を撮ったり景色を見たりで時間を掛けてゆっくりと下りました、後から下ってきた何人かの方に追い越されてもマイペースで下ってきました。
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ついに二つ目の目的にめぐり会えました、ブナの古木です山の古木を「山親父」と呼ぶ人がいますが、まさに親父と呼ぶにふさわしい古木です、2009年の秋に来た時に登山道の近くでみつけました、気をつけて見ないと見過ごしてしまうような所にあります、それから2回登山していますが見る事が出来ませんでした、いつかこの木を近くで写してみたいと思っていました。

この写真は2009年10月の写真です。
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今回写した写真です、2009年の時は古木から2本の幹が上に伸びている事が解りますが、今回はその内の1本の幹が枯れて近くで朽ち果てていました、もう1本の幹もすでに枯れそうな様子でした。
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森で何100年も生き続けてきた生命も最後はこのようにして朽ち果て行くのですね、むなしいとは思いません、その近くのブナの若木の林を見ているとこれが自然の摂理でそれでいいんだと思います。
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ブナ林の中に綺麗な赤い実の低木がありました、アオキに似ていますが葉の形がアオキとは違います、何の実でしょうか。?
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午後2時30分ごろ無事に登山口に着きました、お天気に恵まれて二つの目的も達成されて楽しい山遊びが出来ました。
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ご訪問ありがとうございます、これから低い山も紅葉のシーズンに入ります、楽しみな季節になります。






加賀の婚礼展

2013年10月14日 | インポート
金沢くらしの博物館で開催されていた加賀の袱紗展を見てきました(先の記事で紹介)、今回は同時に展示されていた加賀の婚礼展を紹介します。

展示室前に飾られた花嫁のれんと加賀水引
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花嫁のれんは嫁入り道具のひとつで、友禅で仕立てられています、実家の家紋やお目出度い絵柄が染められていて結婚式の当日に婚家の仏間の入り口に掛けられて、それをくぐって仏壇にお参りして先祖に挨拶をしてから結婚式に臨みます。

花嫁のれんと鏡台の鏡掛け
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花嫁のれん
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豪華な花嫁衣装二点
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結納の品々と飾り付け
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結納返しの品々と加賀水引の飾りつけ
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かんざし、筥迫(はこせこ)、扇など
(筥迫は江戸時代の女子が懐中した紙入れの一種、紙、箸さし、懐中鏡等を入れ、二つ折にして、閉じ帯には香り袋が付いている)
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結婚式の花嫁姿、花嫁のれんをくぐって出てきた様子をイメージしています、花嫁の手を引いて案内する子供さんは新郎の親戚の女児が務めます、御待女郎(オマッチョロ)と呼ばれているそうです。
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花嫁道具の目録と新郎の親族や親せきへの土産品目録、土産品目録の五福とは呉服の事
(下の写真の右横にその下の写真が並ぶ)
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花嫁道具を運ぶ車の先頭に飾り付けれれた稲藁で造られた縁起の良い鶴亀の飾り物
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昔は結婚式はもちろん結婚前から格式を重んじたしきたりがあったようですね、家紋入りの花嫁のれんや、袱紗、それに嫁ぎ先の親族や親戚の方々の御土産品を持参するしきたり等、ご本人の結婚と云うより家と家の縁組が主になっているように思いました。
今昔を問わず結婚式にお金を掛ければきりがないものですね、子供さんが多いご家庭は大変ですね。

ご訪問ありがとうございます、まことに勝手ながらコメント欄は閉じさせていただきます。







加賀の袱紗展(かがのふくさてん)

2013年10月12日 | インポート
兼六園にほど近い飛梅町の「金沢くらしの博物館」で9月から開催されている加賀袱紗展を見てきました。
会場のくらしの博物館は明治32年(1899)に石川県立金沢第2中学として建てられました。
昭和23年(1948)の学校改革により金沢市立紫錦台中学校校舎となり、昭和45年(1970)まで使用されていた建て物です。
ここでは主に金沢市民から寄贈していただいた生活資料を始め金沢の職人道具の数々を常設展示していますが、今回は特別展で金沢市内各地より集めた明治から昭和までの袱紗や中包み等を展示していました。

(館内の撮影はフラッシュは禁止です、またガラスケースに入ったものは天井の照明等が映りこんで見苦しいと思いますがお許しください。)
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金沢では、結婚する時に「五色生菓子」や「お赤飯」を配る風習がありますが、その際に使われるのが袱紗です。生菓子や赤飯を入れた重箱にかける事から「ジュウカケ」とも呼ばれています。
袱紗は全国的には御祝儀袋や香典袋を包むものなど様々な用途の袱紗がありますが、今回の特別展は加賀の婚礼の時に花を添えるジュウカケと呼ばれる袱紗や中包みを集めた展示会になっています。
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輪島塗の重箱に詰められた五色生菓子です、重箱でお菓子や赤飯を頂いたら、中身だけ頂いてポチ袋を中にいれてお返しする風習のようです。
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五色生菓子は金沢に古くから伝わり、婚礼などの目出度い時にふるまわれる縁起菓子です。
日、月、海、山、里を表しています、重箱の奥より
  饅頭=白い丸型の饅頭で(月)を表しています。

  えがら饅頭=こし餡が入った丸型の餅に米粒を黄色く着色してまぶしてあ               
           ります(山)を表わしています。

  ささら餅=こし餡が入った丸型の餅、紅色に着色された米粉が付いて太陽               
         の(日)を表しています。

  羊羹=丸型の蒸し羊羹で(里)を表しています。

  うずら=こし餡が入った菱型の餅、(海)を表わしています。
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輪島塗の家紋入り重箱、重台の上に乗せる、重台が傷まないように間に布団を挟みます。
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重箱に袱紗を掛けたところ、結婚式や御祝い事の場合は松竹梅や鶴亀、翁、などの目出度い絵柄の袱紗をかけます。
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こちらの袱紗は加賀紋の華やかな袱紗です、加賀紋は紋の周囲に友禅染めで彩色した草華模様などの装飾を施した加賀独自のものです、中心の紋は小さくなり全体に品位のある華やかさが表現されます。
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ここからは様々な絵柄の袱紗の数々です。
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花婿用の袱紗です、華やかさを抑えて絵柄になっています。
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法事用の袱紗です、蓮の花をあしらった絵柄になっています。
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厄年用の袱紗です、墨書があるんですが読めないので絵柄のいわれが解りません。
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法事用の袱紗ですが、花嫁が嫁ぎ先の家紋を入れた袱紗を嫁入りのときに持参する事もあったようです。
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ここからは中包み(絹の風呂敷)の色々です、袱紗を掛けた重箱を包む絹の風呂敷を中包みと呼びます、さらに汚れないように外包みで包む場合もあったようです。
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左側が厄年用中包み、右側が法事用の中包みです。
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法事用の外包みです。
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様々な絵柄の袱紗や中包み、外包みが展示されていました、年代的には明治時代から昭和初期の物が多かったように思います。
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現在でもこのようなしきたりを継承されている所もあるようですが、ボール紙の折につめて”寿”や鶴亀などの熨斗紙を付けて配ることが多いように思います。
                                

ご訪問頂きましてありがとうございます、くらしの博物館では「加賀の婚礼」も同時開催されていました、次回にアップしたいと思っています。