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丸岡城址-福井県坂井市丸岡町霞

2016年08月31日 | インポート
今年の夏は猛暑でどこへも出掛ける気にもなれずに家でじっとしていました、その関係でblogの更新も出来ずに皆様にはご無沙汰してしまいました。

久し振りに重い腰を上げて25日に丸岡城祉に行って来ました、丸岡城祉の近くは現役の時代には数え切れない程通っていて、天守は遠くから眺めていましたが見学に行くのは今回が初めてです。
”歴史民俗資料館”のある天守東側から天守の二階、三階部分が見えます。

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歴史民俗資料館の横の石段を登って天守のある高台に登ります、階段の突き当りの踊り場で石段は180度折れ曲がって上の霞ヶ城公園に登って行きます。
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下の民族歴史資料館と共通券の¥300を払って天守の建つ広場につきました。
石垣の上に立つ天守は想像してた以上にどっしりとして、その上に美しさが有ってしばらくその場で眺めていました。
天守の構造は二重(二層)、三階の望楼形の建物で、大きな入母屋の屋根をもつ一階の建物を土台にして、その梁の上に二階、三階の望楼部の建物を載せた構造で通し柱が無い構造になっています、外見からは一階の屋根と三階の屋根の二重(二層)に見えますが内部は三階建てになっています、一階の入母屋と三階の入母屋の棟の向きは東西の方角になっています、屋根には土を焼いた瓦ではなく、凝灰岩の笏谷石(しゃくだにいし)を加工した石瓦約6.000枚(約100t)で葺かれていて,全国的にも稀であります。
丸岡城の創建は天正4(1576)年と云われていますので、現存する天守の中では最古の天守と云われています。
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丸岡城から大凡4㎞の山間部に、大宝2(702)年に泰澄大師(たいちょうたいし)が創建した霊峰白山信仰の霊場であった豊原寺跡が有ります、天治元年(1124)年には500余坊の坊舎が立ち並び、最盛期には豊原三千坊と呼ばれて繁栄していました、源平合戦の時には木曽義仲に、戦国時代には朝倉氏に従いました、一向一揆の際にはその拠点となった為に、天正3(1575)年に織田信長軍によって焼き払われてしまいました、織田信長はこの時の恩賞として柴田勝家に越前の国を与え、北の庄(現福井市)に築城を命じました、勝家は甥(一節には養子)の勝豊を豊原に派遣し、廃墟となった豊原の整備と砦の再構築を行い、翌天正4(1576)年に城を豊原から丸岡(現在の場所)に移して、平山城を築いたのが丸岡城の始まりとされています。
天守近くに柴田家の紋どころ”まるに二つ雁金”の初代城主の柴田勝豊の陣を模した撮影場所が有りました。
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天守の内部を見学する前に色々な方角から眺めてみることにしました、北東の角から天守を見上げたところです、東側には跳ね上げ式の武者窓が見えます、また北側には出窓のように外に飛び出しているのは”石落とし”で格子の間から弓を射たり、床の板を外して石垣を登ってくる敵に石を落とすためのものです、その他正方形の小さな鉄砲狭間(てっぽうざま)がいくつか見えます。
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南側から見ると堅固な石垣の上に天守の土台となる一層部分が見えます、一層部分の入母屋の横から見ている所になります、二階は一層部分屋根裏を使用していることになりますが、一層の屋根と三階との間に二階の破風部屋の屋根が見えます、石垣は”野面摘み(のづらづみ)”で自然石を加工しないでそのまま積み上げたものです、石と石との隙間には小さな石をかませて強度を上げています、この摘み方は戦国時代より以前に用いられた古い工法です。
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西側駐車場から天守を望みますが、木々の茂みで上層部だけは見えますが全体像が見えません。
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西側駐車場から天守に登る石段横に”国宝 霞ヶ城”の石柱が立っています、丸岡城は霞ヶ城とも呼ばれています、(訳は後ほど)、昭和9年に国宝に指定されていますが、昭和23年の福井大震災により倒壊しました。
昭和25年の重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再現されました、修復に際しては元来使用されていた建材を極力使用して再現しているそうです。
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西側の登城道と石積み。
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天守の出入り口に通じる石段です、この天守は出入り口が一か所のみです。
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天守の最上階の屋根にはかつて木製銅張りの鯱鉾が載せられていました、昭和17年の改修時に当時は戦争中で銅板の入手が困難なため、屋根瓦と同じ笏谷石製に代わりました、ところが昭和23年の福井震災で倒壊した時に屋根の上から落ちて破損してしまいました、その時の笏谷石製の鯱鉾が展示されていました。
現在は昭和30年の修復再現時に以前の木製銅張の物に変えられています。
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一階内部の様子です、鴨居や敷居がなく一つの空間になっています、大きな柱が並んでいて特に創建当時の釿(ちょうな)削りの太い柱で梁を支え、梁は上層部を支えている土台になっています。
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一階に昔の丸岡城のパノラマ模型が展示されていました、中央の城山を堀が囲んで、その外側に城下町が整然と並んでいる様子が分かりました。
丸岡城の沿革説明によりますと、明治維新になって不要になった城や堀を明治5(1872)年に民間に払い下げになって、城郭の石垣、建物そして堀などは競売に付されてなくなりました、天守も廉価で落札され、四名の個人に分けて転売されました。
明治34(1901)年に四名が天守を丸岡町へ寄付したことで、長く保存される糸口になったのです、そして昭和9(1934)年に念願かなって国宝の指定を受けたようです。
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出窓状に外に張り出した”石落とし”です、格子の間から弓矢を放ったり、床の板を外して石を落とす構造になっています。
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一階の柱や梁の木組みです、太い柱は40㎝を超える様な柱や梁の強固な木組みには驚きました、良く見ると梁が木組みで継がれているのが分かります、福井地震で倒壊後に修復再現した時に継いだものでしょうか?。
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一階から二階に登る階段です、急な階段には摑まるためのロープが垂らされていました。
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二階は一階に比べて柱も少なく屋根裏部屋の感じがしました。
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三階へ登る階段は傾斜がきつく(67度と云われています)、一段の間隔も大きく大変登りずらかった、階段と云うよりハシゴのようでした
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三階の部屋の広さは二階と同じくらいですが四方に窓が付いていて二階に比べて明るい空間でした、天井がないために屋根の木組みが良く見えました。
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太い梁が四方に走っていて強固な構造になっていることが分かりました、
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三階には回縁(かいえん)が付いていますが、床の位置より高く造られていて、三階床から回縁には出にくくなっています、回縁の床も人が乗るほど強固ではないようです、この回縁は天守の外観を飾るためのもののようです。
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屋根の石瓦です、創建当時の石瓦は福井市の足羽山(あすわやま)から産出した笏谷石(しゃくだにいし)で葺かれていましたが、笏谷石は火山凝灰岩の一種で加工が割りとし易いので使われていましたが、近年では足羽山から産出さなくなったので、同じ凝灰岩の石川県産を使っているようです、緑色の瓦は後から補修した石川県産の凝灰岩で加工したもののようです。
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三階の窓から東西南北を見た景色です、この天守は海抜17mの自然の丘の上に高さ6mの石垣の上に建てられています、三階の床の高さは下から32mの高さになりますが、城下の様子や展開する敵味方の状況をよく把握でき、作戦を練る上で好都合であったようです。
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三階から二階に下りる時に階段を上から写しました、かなり急角度です、しっかりローップにつかまって降りました、小さなお子さんを連れたご家族が来ていましたが、1人のお子さんが外の景色を見ないで、怖がって早く下りようって鳴き叫んでいました、高所恐怖症でしょうかね?。
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天守を出て周りを散策してきました、日本一短い手紙で有名な
一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ の石碑が立っていました、この手紙を書いた本多作左衛門重次は三河の人で、家康に仕えた譜代の武将です、陣中から妻にあてた手紙ですが、文中の”お仙”は後の六代目丸岡城主になった本多成重(幼名を仙千代)のことです。
この手紙をヒントに丸岡では、平成5年から”日本一短い手紙、一筆啓上賞”
の手紙のコンクールが始まり、たいへんなブームになっています。
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天守の建つ敷地の一角に”お静慰霊碑”立っています、丸岡城築城の際の伝説として伝わっていますが、石垣が何度も崩れて城が建てられなかった、そこで人柱を入れることになり、片目の女お静が息子を武士に取り立てるという約束で人柱に成りました、初代城主の勝豊は長浜城へ移り、お静の願いは叶えられなかった、その後堀の藻刈りをする卯月の頃になると、長雨が降り人々を困らせたといわれ、この雨を「お静の霊、お静の涙雨」と呼び、お静の霊を慰めるために祠を建てたと云われています、現在はその横にお静供養塔も建てられています。
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牛ヶ島石棺(うしがしま せっかん)
霞ヶ城公園の一角に保存展示されています、丸岡町の牛ヶ島地区の東側にある御野山古墳から出土したと伝えられています、福井県内では最古の(4世紀代)の舟形石棺(割竹形石棺)です、材質は凝灰岩で前後左右には縄掛け突起が有ります。
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雲の井井戸
場内で一か所の井戸です、天正3(1575)年、織田信長軍によって越前の一向一揆の最後の拠点となった豊原の寺院や砦が焼き払われて一向一揆が平定されました、その翌年に柴田勝家の甥の勝豊が丸岡城を築城しましたが、一向一揆の残党が丸岡城に攻撃を仕掛けてくることが度々ありました、そのたびにこの井戸から大蛇が現れて口から霞を吹き出して城をすっぽり隠してしまいました、そのために幾度か危機を脱することができました、そんな言い伝えから丸岡城を ”霞ヶ城” と呼ぶようになったと伝えられています、今でも春先に霞ですっぽりと隠れる丸岡城を見ることが出来るそうです。
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城の周りを散策してから、再び天守を見あげて城を後にしました、天守は権力の象徴として建てたと思われますが、その容姿は実に美しいと感じました。
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丸岡城は天正三年に柴田勝豊によって築かれて初代城主になりましたが、天正10(1582)年に長浜城に移りました、そのあとに安井家清、青山宗勝、青山忠元、今村盛次を経て慶長17(1612)年に本多成重(四万石)に変わりました。
成重は大阪夏の陣で松平忠直の先陣として真田軍を打ち破る功績を上げました。
そして、寛永元(1624)年に初代丸岡藩主となりました、その後本多家は四代続き、元禄8(1695)年に越後糸魚川から有馬清純が5万石で入城し、幕末まで有馬家は八代(約176年)続きました。

初代柴田勝豊から17代続いた丸岡城も明治維新を迎えて時代の移り変わりで城郭や建物、堀などが失われ、天守閣と丘陵を残すのみとなりました、城下町、丸岡の歴史を知る上には貴重な天守閣を国の宝として長く保存してほしいと思います。

長い記事を最後まで読んで頂いて有難うございます。



この記事を書くにあたり、「丸岡城とその周辺ガイドブック」や「丸岡城のパンフレット」などを参考にさせていただきました。











残暑お見舞い

2016年08月20日 | インポート
残暑お見舞い申し上げます。  


立秋も過ぎて暦の上では秋ですが、秋とは名ばかりの
暑い日が続いています。
皆様方にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
夏の疲れが出やすい時節柄、お変わりなくお健やかに
お過ごしになられます様にお祈り申し上げます。

                   平成二十八年  晩夏                                 


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安田城跡ー(富山市婦中町安田字殿町割)

2016年08月10日 | インポート
私は安田城跡については知らなかったのですが、この夏に富山の友人に誘われて釣りに行ったことがきっかけで知りました。
この城は、呉羽山丘陵東南麓、井田川左岸の扇状地に立地する戦国時代の平城で、堀を含めた規模は東西約150m、南北約240mで、約34、000㎡の広さです。
天正13年(1585)年、全国統一を目指す豊臣秀吉が越中の佐々成正を征討するために出陣した富山の役の際に、秀吉の本陣になったとされる白鳥城の支城として前田利家によって築かれ、前田家武将の岡嶋一吉が居城後、代官の平野三郎左衛門が居城しましたが、慶長年間に廃城となりました。
本丸、二の丸、右郭(みぎくるわ)の周りには、近くを流れる井田川の水を引き入れた堀を巡らされています。
江戸時代後期にはある程度姿をとどめていましたが、近代に入ると堀は埋められて一帯は田畑として使用されいていましたが、昭和40年代末に圃場整備計画が持ち上がった事により一時焼失の危機に立たされたが、昭和52(1977)年に二回の発掘調査が行われ、国の史跡に指定された。
平成2年(1990)年から整備事業が行われ、現在は土塁、水濠が復元され、資料館が併設されています。
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                安田城 パンフレットより


城址に隣接する資料館には出土品や安田城に関する資料が展示されていました、出土品の約9割がかわらけで占められ、油を燃やして灯りをとる燈明皿として用いられた物が多くあります、その他陶磁器のかけら、銅銭や鉄製の道具や砥石が出土したようです。
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                    安田城 パンフレットより


白鳥城の出土品も展示されていました。
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資料館2Fより城跡を望む、水濠には一面の水草が茂って、水面は見えません、平地にある平城は開発によって後世に姿をとどめるものは少ないのですが、この城のように保存状態が良く全体像が分かる平城は全国的にも少なく貴重な事例です。(本丸北東角が井田川の堤防工事によって少し失われている)
本丸は高さ2.4m、二の丸は高さ1.5mの土塁がめぐらされていますが、右郭は土塁が盛られておらず、水濠に囲まれた平地の郭であります。
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タイルで造られている安田城跡の屋外模型に、写真の撮影場所をアルファベットで記してあります、クリックして拡大してご覧ください。
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Ⓐより右郭の方向を撮影、右郭への入り口。
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Ⓑ地点、右郭への土橋上より右手の水濠を望む。
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Ⓒ地点、右郭より二の丸を望む。
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Ⓓ地点、右郭と二の丸を結ぶ土橋の上から水濠越に本丸方向を望む。
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Ⓔ地点より二の丸の内部を写す、二の丸は高さ約1.5mの土塁で囲まれている。
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Ⓕ地点、二の丸より本丸を望む、本丸の入り口は土塁が切れている、本丸の虎口にあたる所ですが、ここに門があったのでは?。
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Ⓖ地点、二の丸と本丸をつなぐ土橋(上に木製の橋が掛かっている)上より本丸の入り口を望む。
本丸を囲む土塁は高さ2.4mで巾が上部では約10m、基底部で約14mもある堅固が土塁である事がこの写真でわかります。
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Ⓗ地点、本丸の土塁上より本丸の対角を望む、背景の呉羽山の高台には白鳥城址の位置が分かります。
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Ⓘ地点、本丸土塁上より外堀を望む。
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Ⓙ地点、本丸土塁上より入口方向を望む、本丸の広さは東西約90m、南北約80mの面積です。
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Ⓚ地点、本丸土塁上より入口方向を望む。、
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Ⓛ;地点、本丸土塁上より対辺の土塁展示館の入り口を望む。
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土塁展示館内部、土塁の断面を見ることが出来ました、粘土層や礫まじりの砂や粘土で築かれた土塁の断面が監察出来ました。
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Ⓜ地点、本丸土塁上より水濠越に右郭方向を望む、
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Ⓝ地点、本丸土塁上より二の丸を望む。
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資料館で入手したパンフレットの「安田城址をはじめとする新たな戦国史研究」と題する研究成果が載っていました、それによりますと従来は天正13年に前田利家によって築かれた事になっていますが、安田城の縄張り図を見ると、四角い本丸と曲線基調の二の丸、右郭によって構成されていますが、軸線のずれや、本丸を囲む水濠によって一部が削られた右郭の形状から、当初は二の丸、右郭の二郭から成っていたものに本丸が追加造成されたものと考えられる。
この地方には文献上には見えるものの、いまだに所在が確認されていない安城がその前身とする説もありす。
このことから、天正13年より前に2郭構造の在地武将の城が存在し、それを前田利家が四角の本丸を付け加えて改造したことが考えられます。
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            安田城址歴史の広場 パンフレットより


安田城は古い2郭構造の城に、ほぼ正方形の堅固な本丸部分を追加したことが有力な説です、改造前は長方形の2郭構造の城でした、方形郭を用いた構造の城は、当時秀吉が最新の城郭として建設中であった京都の聚楽第(じゅらくだい)が典型的な物でした、本丸の虎口の前に方形の馬出郭(うまだしくるわ)を置き、虎口を守る役目としました、このような形態の城を「聚楽第型城郭」と呼び、富山では富山城、高岡城に採用、発展しました。
安田城は最新の築城の知識を持った前田利家のよって築城、改修された城であり、そこには聚楽第型の構造が反映されていることが見てとれます。
富山では最も早く採用された聚楽第型城郭といえます。



地上部分の建物などの構造物はありませんが、中世の平城の城郭がほぼ完全に復元されており、実際に足を運んだ価値が有りました、このような歴史に興味がある方には一見の価値が有ります。

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                      安田城跡パンフレットより

安田城址は積雪期を除き、各種イベントにも利用されているようです、最も盛大に行われる「月見の宴」が8月27日に開催されるので資料館にパンフレットが有りました。
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長い記事を最後までお読みいただいて有難うございます。
                          


記事を書くにあたり、安田城跡資料館のパンフレットやウィキぺディア等の文献を参照させて頂きました。





千代女 あさがおまつりー(白山市運動公園)

2016年08月04日 | インポート
松任は平成17年の市町村合併で白山市になりましたが、松任は江戸時代の最も有名な女性俳人の加賀千代女(かがのちよじょ)の生まれた所です。

加賀千代女と云えば広く知られているあさがおに つるべとられて もらいみずの句が有名です、それにちなんで白山市では朝顔を市の花と定めています、市内では朝顔作りが盛んで毎年この時期には愛好家により綺麗に咲いた色とりどりの朝顔を展示する会が催されています。
今年も市内の個人や愛好家の団体から、約5000鉢の朝顔が出品されて「千代女 あさがおまつり」が開催されました、会場の白山市運動公園に行って来ました。

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会場は朝6時から開催されていますが、私が行ったのは11時頃でした、やはり綺麗な朝顔を見るためには早起きして行かないとだめでした、それでも大輪(13~15㎝)のカラフルな朝顔を観賞することができました、時間的にベストな花の状態ではありません、せっかくきれいに咲いた朝顔に申し訳なく思いました。
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鉢植えで色とりどりの朝顔が展示棚に整然と並んで展示されていました、期間中は出展している方が、朝、夕に会場を訪れて水やりや咲き終わった花を摘み取るなどのお世話をされているようです。
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屋外展示はテントで直射日光を遮って展示されていました。
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ひと口に朝顔といっても、子供の頃に夏休みの自由研究で育てた朝顔をイメージしていますが、展示会で見る朝顔は大輪で色や咲き方も変わったものが多くておどろきます、こうした種類の朝顔を綺麗に花を咲かせるには毎日の手入れの事を思うと育てた人に頭が下がります。

ご訪問ありがとうございます。






ひまわり村ー河北潟干拓地

2016年08月02日 | インポート
8月1日に河北潟干拓地の”ひまわり村”にヒマワリを見に行って来ました、近くの園児達が5月に種をまいたヒマワリが35万本一斉に花が咲いて、毎年見ていますが圧倒されます。

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ひまわり写生会も行われていて、会場前に設営されたテントの中で子供たちがヒマワリの花の絵を書いていました。
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高さ2mほどに育ったヒマワリの中で全長が1㎞ほどの迷路を楽しむことができます、その他にも上からヒマワリを見渡せる展望台が設けられていました。
迷路は時間が掛かるので、私は展望台への近道を進みました。
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通路は右を見ても左を見てもヒマワリだけです。
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展望倍に着きました、すでに何人か登られていてヒマワリをバックに記念写真を写していました。
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35万本のヒマワリに圧倒されます、背中から陽の光が射すのでヒマワリの花が全てこちらを向いていて見事でした。
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展望台から反対側にまわって写した写真です、陽の光に向かって写しているのでヒマワリの花が全部向こうを向いていて”総スカン(好かん)”をくわされたようです。
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この日も31℃の炎天下に、ヒマワリを見学に来ていた園児たちもわずかな日陰で休憩と水分補給です。
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あまりの暑さに私も早々に退散しました、帰りの農道わきのレンコン畑の蓮のを写してきました、レンコン栽培用の蓮の花は白色の花のみでした。
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ここ数年前からひまわり村には毎年来ているのですが、広い干拓地の中は道が碁盤の目のようになっていて目印になるような物がないの分かりにくいです。
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このヒマワリは花を楽しんだ後に、種から絞った油を地元の特産物として道の駅などで販売するそうです、ヒマワリの種から絞った油にはビタミンEが多く含まれていて、コレステロールがないのでヘルシーな油として人気が有るそうです。

ご訪問ありがとうござくぃます。