go の let's goシニア

リタイヤ・・何でもヤリタイヤ
登山、渓流釣りを卒業して四季の花を愛でています

ブナオ山観察舎ー石川県白山市

2015年02月24日 | インポート
20日の金曜日に白山市尾添(おぞ)のブナオ山観察舎に行って来ました、午前中ウォーキングをしてから11時過ぎに出かけました。
出掛けて2~30分走ると、それまで明るかった空模様があやしくなりポツポツと雨が降ってきました、雨がひどくなったら引き返すつもりで進むと、道の駅瀬女(セナ)に着く頃には雨はやんで空が明るくなってきました。

道の駅瀬女より山手を望む、今では営業していない白山セナスキー場のリフトが見えます。
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一里野スキー場に向かう道路はだんだんと雪が多くなってきました。
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一里野温泉の道路の雪はきれいに片づけられていますがホテルや旅館の前には雪が沢山ありました。
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一里野温泉の浴場の「天領」は屋根から落ちた雪で埋もれています。
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一里野温泉の先の中宮温泉や岩間温泉は冬は営業していませんし、白山スーパー林道も冬は通行止めです、冬はこの先の観察舎だけのために除雪されていますが、乗用車がやっとすれ違いできるだけの細い道です。
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雪に隠れた案内看板も掘り出して見えるようにしてあります。
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目的地に近付くと雪が深くなって道路にも雪が積もっています。
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この道路は中宮温泉や白山スーパー林道に続く道ですが、これから先の道路は除雪されていません。
駐車スペースのために道路が広く除雪されていて車がUターン出来るようになっています、ここに車を停めてこれから上の観察舎まで歩きます。
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雪道を歩いて100m程ですが、雪が2m以上あるのでゆっくりと歩きます、カンジキを持って来なかったので人の歩いた踏み跡を辿って足が沈まないように慎重に歩きました。
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はるか下には渓谷が流れています、滑り落ちたら下まで行ってしまいそうです。
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先の杉木立の間に観察舎が見えてきました。
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谷を挟んで聳えている山がブナオ山です、急斜面に沢山雪が積もっていて少し気温が上がったら上から一気に雪崩となって崩落しそうです。
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観察舎(605m)に着きました、二階建ての建物の一階部分は雪に埋まっていました、三月末の渓流釣りの帰りに寄った事がありますので、今度で二回目になりますが、三月末に来た時はこんなに雪がなかったように思います。
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入り口は雪の下になっています、雪をよけて入れる様になっていました。
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別棟のトイレもご覧のように雪に埋まっています。
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階段を下って玄関に入りました。
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一階は展示室になっていて、この山に住む動物のはく製や骨格が展示されていました。
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階段を登って二階の観察室に行きます、階段の壁には沢山のカンジキが掛かっていました、時々、カンジキウォークを開催して雪の上の動物の足跡などを観察する催しが開かれているようです。
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二階に上がると広いスペースにストーブが焚かれていて、窓際のテーブルには観察用の望遠鏡が幾つも並んでいます、大型の双眼鏡や小形の単眼鏡など幾つもありました。
今日は平日ということもあって、先に来た観察者と係りの人の二人だけでした。
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ここから谷を挟んで正面にブナオ山(海抜1365m)が見えます、この季節は広葉樹の葉が落ちて動物を観察するのには最適の季節です、カモシカは毎日見られるようです、以前は猪がよく見られたようですがこの冬は雪が多いので見かけなくなったようです、春になって運がよけらば熊も見られるようです。
ブナオ山のカモシカがNHK総合放送「ダーウインが来た!生き物新伝説」で取り上げられたこともあります。
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私の持って行った400ミリの望遠では届きません、係りの人が望遠鏡の照準を合わせて下さった先にはカモシカが近くに見えました、雪をかき分けて歩いていましたが急斜面で雪崩の危険を冒して餌を探していました、この季節は木の皮や細い木の芽を食べているようです、その他に猿の群れも見る事が出来ました。
一台の望遠鏡の画像がディスプレーにつながっていて、カモシカの映像が映っていました、この観察舎の映像が環境省インターネット自然研究所(外部リンク)につながっています。
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以前に写したクマタカの写真が飾られていました。
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一時間以上も望遠鏡で観察してから帰りました、玄関を出て雪の階段を上って外に出ました。
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下りの雪道の踏み跡に沿ってゆっくり下ってきました、少し油断すると長靴がすっぽりとはまってしまう雪道です。
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駐車場に戻ってきました。
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今日は途中で雨に降られましたがお天気も良い方に向かって、歩く時には雨にも雪にも遭うことなく行って来られました、短い時間でしたが冬の山の景色や、カモシカ、猿などの自然の姿を見る事が出来ました。

いつもご訪問してくださってありがとうございます。







雛人形ー金沢くらしの博物館

2015年02月20日 | インポート
昨日19日は二十四節季の「雨水」です、雪や氷が解け、雨となって降り注ぐ、季節の区切りとなる日です。
実際には未だ冬が明けやらず、地方によっては雪が降って厳しい冬型のお天気が続いています。
しかし、2月のこの季節になると、春の訪れの先が見えてきた様な気がします、もう2週間で桃の節句の3月4日になります、雨水に雛人形を飾ることは昔から縁起が良いとされています。

自宅ではガラスケースの人形を飾るだけですが、今週の月曜日に金沢くらしの博物館の企画展「雛飾り」を見に行って来ました。
くらしの博物館は前にも何回か記事で紹介したいますが、明治32年(1899)に石川県立金沢第二中学校の校舎として建てられました。
明治の洋風木造学校建築の様式を色濃く残している貴重な文化遺産として、平成11年(1999)に石川県有形文化財の指定を受けています。

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白亜の建物、アーチ型の門、さりげなく配した彫刻がレトロな雰囲気を感じます。
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玄関を入った正面に、七段飾りの雛人形が2式飾られていました。
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企画展の雛人形が飾られている部屋に入ったら、正面に沢山の雛人形が飾られていました。
この雛人形は市民から託された人形です、新しいものや年数がたった古いものもあります、ここに飾られた雛人形を見る私たちには可愛い人形としか感じませんが、ひとつ一つの人形には歴史があると思います。
可愛い女の我が子を授かって、親として健やかに育ってほしい願いを雛人形に込めて飾ったのでしょう、その女の子が成人して、嫁ぐ時に持参した雛人形は、年老いた主人公からここに託されたものもあるでしょう。
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古い内裏雛です、大正末期(1926)頃の人形です、この時代は左(向かって右)に内裏雛が飾られています、江戸時代より以前は礼法で左が上座となっていましたので、左に内裏様、、右に女雛をを飾っていましたが、現在でも京都やその周辺と、昔の習わしを大事にする地方では左(向かって右)に内裏様を飾ります。
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古い雛飾りの一部を屏風の前に飾ったものです、大正時代のものです、内裏雛は左(向かって右)に飾られています。
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御殿飾りのひな人形です、御殿の中の御簾(みす)の奥に内裏雛が飾られています、御殿の前には三人官女、左近の桜、右近の橘、には御所をお守りする随身(ずいしん)の左大臣、右大臣、向かって右が仕丁(しちょう、出掛ける時に荷物を持ったり雑用をする)、向かって左が五人囃子(雅楽を演奏する人)です。
手前には日常に使うお道具やお琴などが並んでいます。
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これも御殿飾りですが、時代が新しいもののようです、御殿がきらびやかになっています。
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こちらの御殿飾りは、三人官女、や随身は上も段に飾られていますが、五人囃子や仕丁は下の段に飾られています。(下は写真が切れていてごめんなさい)
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これも御殿飾りです、内裏雛、三人官女、随身、仕丁、五人囃子、の飾り付けは違います、前に並んだお道具の中にお籠や、牛車があります、変わっていて面白いと思います。
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くらしの博物館の中で最も豪華な御殿飾りです、大正期のもので、人形の数が多いです、全体を写しても細部が分からないので、分割して以下に表示します。
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分割左側。
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分割右側。
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雛菓子の金華糖が飾られていました、にらみ鯛や果物をかたどって、きれいに色付けされて、華やかな雛飾りをいっそう華やかにします。
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鳥取の流し雛が飾られていました、金沢でも折り紙の雛人形をを犀川に流して、厄払いをする行事が古くから伝わっています。
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くらしの博物館の地名は「飛び梅町」になります、地名の由緒は、ここは加賀八家のひとりである前田対馬守を祖とする一万八千石の下屋敷がありました、前田対馬守家家紋の「角の内梅輪」(かくのうちばいりん)に関連する故事によるとのことです。
前田家の先祖とされる、菅原道真公が無実の罪で太宰府に流される時に、「こちふかば においおこせようめのはな あるじなしとて はるをわするな」と詠んで別れを惜しんだ梅の木が、空を飛んで太宰府に降り立ったという故事にちなみ明治二年に町の名前が付けられたということです。
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もう一週間で二月も終わり、桃の節句もまじかに迫ってきました、皆様のご自宅ではすでにお雛様の飾り付けが終わったご家庭もあると思います、お子さまの成長を願って日本の伝統の雛人形を飾ってお祝いしてください。


お終いまで詠んで頂いて感謝します、ご訪問ありがとうございます。

    (勝手ながら今回はコメント欄は閉じさせて頂きます。)





渓流ー雪の造形

2015年02月17日 | インポート
15日(日)に、いつも使っている飲料水が残り少なくなってきました、荒れ模様の天候の合間を縫って白山麓の打尾に泉水を汲みに行って来ました。

打尾の「おぼこ水」が湧いているお寺の横はセイモアスキー場になっています、荒れ模様のお天気も小康状態の日曜日でスキー場の駐車場は満車でした。
水汲み場の横は渓流になっていますが、先日から降った雪が流れ落ちる水に流された雪と残っている雪がきれいな造形美を造っていました。
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同じ場所の写真です、昨年の7月に写した写真です。
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渓流の流れが造った作品です、白と黒のコントラストがきれいです。
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集落の中の道路は清水を流して雪を溶かしているので除雪をしなくても積もりません。
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寺の本堂より屋根雪が滑り落ちて入り口をふさいでいます。
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今年のスキー場は積雪に恵まれて、リフトで上に登って行く人が大勢います、下では子供連れの人達が、ソリ遊びを楽しそうにしていました。
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話が変わりますが、3月14日より北陸新幹線の金沢までの営業運転が始まります、先日、1か月前に一番列車の切符を買う人が前日より並んだようですが、一分以内に売れ切れた様です。
自宅近くの高架線には車両基地から出入りするW7系の車両が見えます、ダイヤ通りに試験運転をしているようです。
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ご訪問ありがとうございます。
                ( 以前の水汲みの記事です、http://naka-go.at.webry.info/201111/article_5.html)








大乗寺丘陵公園と前田家墓地

2015年02月08日 | インポート
この季節は雨風の合間をぬって自宅近くのウォーキングコースを歩いていますが、いつも同じコースを歩くのがマンネリ化して歩く意欲が無くなってきます。

そんな日が続いていたのですが、2月3日(火)は先日まで続いていた冬の北陸の天気から変わって、曇り空ながら時々雲の切れ間から薄日がさすお天気でした、そこで久し振りに大乗寺丘陵公園に行って来ました。

この季節は例年ならば通路以外には積雪が10~20㎝積もっているんですが、北陸の平野部は今年は雪が少なくて芝生の上が薄っすらと白くなる程度の雪が残っていました。
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いつものコースを廻った後に、もう少し歩こうと丘陵公園の反対斜面の野田山墓地の方まで足を伸ばしました、
墓地の上の方は木々がうっそうと茂っています、その中に上の方に続く道が伸びています、この方角に前田家の墓地がある事を聞いていましたが、昨年はこの近くでクマに襲われた人のことが新聞に載っていましたので、普段はあまり近付かない所ですが、このシーズンはクマも出没しないだろうと思いました。
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少し登った所に車が10台ほど停められる駐車場がありました、これから先は車が入れない所のようです、駐車場には前田家墓所であることを示す看板がありました。
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藩祖前田利家公の墓に続く道は現在工事中で足元が悪い上に雪融けで泥道が続いています、今日は雪がある事を想定して防水ブーツをはいてきたので正解でした。
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前田家墓地の中は柵で仕切られていて葬られた人の名前を刻んだ石柱が建てられています。
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墓地内の案内表示がありました、前田家の墓地は、初代前田利家公の兄の利久公が天正十五年(1587)に埋葬されて事に始まり、利家公もまた、遺命により慶長四年(1599)にこの場所に埋葬されました。
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正面左側が藩祖前田利家公の墓です、手前右側が藩祖利家公の夫人の芳春院の墓です。
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利家公の墓です、神式で鳥居の奥に土を盛り上げた陵墓の形になっています。
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利家の墓前の高札の説明文
藩祖 前田利家公の墓
高徳院 名は犬千代 後に孫四朗,、永禄五年(1562)には又左衛門と改める、天文七年(1538)尾張国荒子城主前田利春公の第四男として生まれた。
利家公は十四歳の時に織田信長に仕え生涯四十数回戦いに参加、数々の武勲をあげていた、なかでも初陣の海津の戦い(1551)、桶狭間、長篠、賤ヶ岳の戦いや末森城(元石川県押水町)の激戦(1584)は有名である、また、槍の又左と異名をとるほど槍の名手であったという。
天正十三年(1585)九月、豊臣秀吉から羽柴筑前守の号を譲られている。
秀吉の天下統一の大業は利家公に負うところが多大であったといわれている。

大名としては、元亀元年(1570)近江国長浜で一万石を領したのにはじまり、越前府中(福井県武生市)で三万三千石余り、ついで能登一国を領有し、加賀国石川河北南部を秀吉から増封され天正十一年(1583)四月二十五日(新暦六月十四日)に金沢入城と共に加賀藩の時代が始まったのである。
慶長四年(1599)大阪城で逝去、享年六十二歳。

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芳春院墓前の高札の説明文
藩祖 前田利家夫人の墓
芳春院、名は松、または昌、天文十六年(1547)尾張国海東郡沖の島に生まれる、同十九年利家公の邸に入り、後にその正室となる、当時利家公は尾張国荒子城主であった。
利家公が戦国時代を生き抜いて百万石の大守に出世したが、その夫人としての芳春院の内助の功は高く評価されている。
関ヶ原合戦の後(利家公の没した翌年)徳川方と加賀藩との融和の為に進んで人質となって江戸へ送られたのである。
慶長十九年(1614)までの十五年間の長い間、加賀藩の為に忍従の月日を過ごされたのであります。
元和三年(1617)金沢で没した、享年七十一歳。
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二代藩主前田利長公の墓です。
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利長公の夫人の墓に続く道を登ります。
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利長公の夫人の玉泉院の墓、玉泉院は利長公没後は高岡より金沢に移り金沢城内の玉泉院丸で過ごされました、豊臣秀吉の側室、淀君や徳川二代将軍秀忠の夫人、崇源院とは従姉妹です。
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前田家墓地の案内には記載がありませんが、隣接地に豪姫の墓がありました、豪姫は利家と芳春院の四女として生まれ、秀吉の養女となった後に宇喜多秀家に嫁ぎましたが、後に金沢に戻っています、前田家から離れた豪姫は表向きは前田家の墓地として加えられていません。
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豪姫の墓前の立て札です、クリックしてご覧ください。
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野田山山中には、前田一族の墓石が約70基あります、隣接地には加賀八家の墓石が多数あります

※加賀八家とは、加賀藩政の最高役職「年寄」を務める、本多家、長家、横山家、前田土佐守家、前田家(長種系)、奥村宗家、奥村支家、村井家の八つの家の総称です、加賀藩前田利家に仕えて功績のあった家臣や前田利家の一族から構成されています。いずれも一万石以上という大名格の家禄を有し、明治時代になってからは各家当主とも男爵に叙された名家です。

丘陵公園から野田山墓地を巡ってきましたが、この時期に咲いている花は山茶花だけでした。
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丘陵公園はこの時期に訪れる人が少なく、駐車場は下の駐車場は鎖が張ってあって入れませんでしたが、上の駐車場は10台ほどの車が止まっていました。
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いつも平坦な街中の道を歩いていますが、今日は久しぶりに一時間半ほど坂道を登ったり下ったりで、足には良い運動になりました。

ご訪問ありがとうございます。