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登山、渓流釣りを卒業して四季の花を愛でています

万葉の道、倶梨伽羅峠の八重桜ー(2)

2016年04月29日 | インポート
このたびの、熊本県と大分県を震源とする地震で、被害を受けられた皆様やご家族の方々へ、心よりお見舞い申し上げます。


北国街道は古代より近江の国(滋賀県)の米原から越の国(新潟)に通ずる北陸唯一の街道です、古くから北国路、北国通、越路(こしじ)と呼ばれて日本海側の重要なルートになっていました。
越の国は後に越前(福井県)、加賀、能登({石川県)、越中(富山県)、越後(新潟県)に分かれました。

その北国道の加賀{石川県)から越中(富山県)に通じる峠を古代より「砺波山峠」と呼ばれていました、海から続く平野からの山で海抜は263mと高い山ではありませんが、谷が深く切れ込んでいて嶮しい山道が続いています。

倶梨伽羅不動寺は砺波山峠に今からおよそ1300年前の養老2年(718)に、中国から渡来したインドの高僧が倶梨伽羅不動明王の尊像を、天正天皇の勅願により奉安されたことに始まりました。

峠の名称にもなっている倶梨伽羅不動寺です、その後に起こった源氏と平家の合戦で焼失しましたが、源頼朝により再建されるも、再度の火災や神仏分離令のうよ曲折を経て、現在の倶梨伽羅不動寺は昭和24年に再建されました。

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不動寺が建立されてから465年後の寿永2年(1183)に、ここ砺波山で以仁王の平家討伐の命により信濃の国で挙兵した源義仲(木曽義仲)と、これを迎え討つために京より北陸路に差し向けられた平維盛を総大将とする10万騎の平家軍との間で激しい合戦がおこなわれた、この戦いを砺波山の戦いまたは倶梨伽羅峠の戦いと呼ばれています。

峠道には「源平合戦慰霊の地」の石碑は建っています。
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現高岡市、砺波市、能登志雄山一帯で一進一退の戦いが繰り広げられた、義仲は配下の兵を志雄山に向けて牽制させ、義仲本体は砺波山へ向かった。
砺波山の猿が馬場には平家軍の本体が陣取っていた、今も残る平家軍の本陣跡、高札には平家軍が軍議を開いた軍略図が書かれています。
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義仲は昼間はさしたる合戦も仕掛けづ、平家軍の油断を誘い、義仲四天王の一人樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回り込ませた。
平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた、平家軍は退却しょうとするが、、退路は樋口兼光に押さえられて大混乱に陥った、平家軍七万余騎は唯一敵がこない方向へと逃れたがそこは倶梨伽羅峠の断崖だった、平家は十万余騎の大半を失い、総大将の平維盛は命からがら京に逃げ帰った。
「源平盛衰記」には、その夜襲で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向けて放ったという、源平合戦の中でも有名な一場面が記されています、しかしこの戦術が実際に行われたかどうかについては疑問視する意見が多いようです。
峠に牛の角に松明をつけた像が展示されています。
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峠道の林の中にこの戦いで犠牲になった源平の兵を慰霊する為の供養塔が祀られています。
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慰霊塔の後方には平家の武将、平為盛の五輪塔が保存されていました、13世紀鎌倉時代の古い形式の五輪塔で、市の文化財に指定されています。
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平為盛は倶梨伽羅の戦で夜襲を受けて、いったんは加賀の国まで逃れたものの、手兵50騎を率いて再び源氏に逆襲したが義仲の武将樋口兼光に首をはねられました、現在まで語り継がれる勇敢な武将です。
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やじさん、きたさんで有名な東海道中膝栗毛の作者、十辺舎一九もこの峠を通っています、その頃に大変流行っていた不動の茶屋の跡です、十辺舎一九の句が石碑に刻まれています。
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「商いに利生ぞあらん 倶梨伽羅の 不動の前の茶屋の賑わい」
(たいへんおはやりなされています、あらたかな不動様でありますので このように賑わっています)
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当時の峠道も遊歩道として保存されていました、新緑の中を歩いてみましたが当時をしのばれて時間が遡った気がしました。
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峠道の先に芭蕉塚が有りました、長年の風雨にさらされて彫ってある文字も見えなくなっていますが、近くに高札が立っていて分かりました。
松尾芭蕉が奥の細道の道中に弟子の會良と共にこの峠を越えたのは元禄二年匕月でした、
「義仲の 寝ざめの山か 月かなし」
この句は朝日将軍とうたわれた木曽義仲の末路に涙して、越前の熢ヶ城跡で詠んだうたです。
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芭蕉塚の近くに新しい句碑が出来ていました、こちらは「義仲の 寝ざめの山か 月かなし」と、しっかり読めました。
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万葉の歌人、大伴家持もこの峠を越えています、その頃は越中(富山県)の国府は高岡にありました、天平18年(746)に大伴家持は越中の国守として赴任する時にこの峠を越えて国府に向かっています。
大伴家持が国守として赴任した時には、大伴池主は判官として任にあり、新任の家持を良く補佐して親交もあつかった。
家持が赴任してから2年が過ぎた頃に池主は越前(福井県)の判官として転任しました、家持は池主が越中の判官であった時に、ともにほととぎすを愛でた懐古の念を長歌にして越前の判官の大伴池主に送りました。
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万葉集巻19、 砺波山ほととぎす(霍公鳥)の歌

....山の峰には霞がたなびき、谷には椿が咲き、春が過ぎるとホトトギスがしきりに鳴き、独りでそれを聞けばさびしい。ホトトギスさん、あの人と私を隔てている砺波山を飛び越えて、朝には松の枝に、夕暮れには月に向かって、あやめぐさが咲くまで泣き立てて、あの人を悩ませておくれ

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万葉集巻17、 砺波山手向けの神の歌
越前(福井県)の判官大伴池主から、越中守大伴家持が中央政府に旅立ちの時に送った歌

あおによし奈良の家を離れて、あまざかるひなにはあれど...あさぎりの乱れる心を口に出して言うのは不吉なので、砺波山の峠の神に、幣を捧げてこうお祈りします。「いとしいあなたを、何事もなく無事にずっと離れづ守って、月が変わってもまだ夏のうちの、なでしこの花のまっさかりのうちに、お逢いさせてください」と。

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今年の冬の暖かさで、倶梨伽羅峠の八重桜も例年より10日ほど早く開花したようです、GWの雑踏を避けて4月20日に倶梨伽羅不動さんの参拝を兼ねて峠道を歩いてきました。
時まさに新緑の季節に八重桜の花が映えてとても奇麗でした、何度か訪れていますが、この峠道を歩く時に過ぎ去った歴史を重みを感じました、人生50年と云われた時代もありましたが、医学が発達した今日でも人の一生は長くて100年です、歴史の中の人の一生は刹那の如く過ぎ去ってゆきます、古来より歴史に一生を刻む人もおりますが、それは一握りの人です、それ以外の我は自分に悔いのない一生を終えたいものです。

長い記事を最後まで読んで頂いて有難うございました。











万葉の道、倶梨伽羅峠の八重桜ー(1)

2016年04月25日 | インポート
富山県と石川県の県境に位置する、倶梨伽羅不動さんの峠は八重桜の名所として地元では知られています、例年ですと4月末からGWにかけて見頃に咲きま咲きます、その頃には八重桜祭りが催されて賑わいます。
今年は暖冬の影響でしょうか4月20日ごろに麓では満開になって、峠の上の方でも咲き始めていると聞いて不動さんの参拝と八重桜を見に出掛けてきました。
以前にも何回かblogにアップしていますが花も景色も入れて写してきた画像を紹介したいと思います。

不動さんへ登る階段の入り口にも八重桜が咲いていました。
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階段の途中にの水かけ不動さんです、手を清めてから不動明王にお水をかけて手を合わせました。
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平日でしたので本堂の前にも参拝をする方がまばらでした、お焼香してから本堂前で参拝を済ませたら、本堂の中へ入ってお参り下さいと御案内をいただいたので、履物を脱いで本堂の中の御本尊にも参らせて頂きました。
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参拝を済ませて境内の五重塔や観音堂を巡り、階段を登って和光等へ。
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白亜の和光塔;の前には密教の仏具である「五鈷杵(ごこしょう)」が飾られていました、和光塔の中には大日如来が祀られていて、内部の壁には四国四十八か所の御本尊が飾られています。
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和光塔;の後ろから小高い山に通じる遊歩道が延びています、山の斜面には八重桜が植えられて周囲の新緑に映えて今日の様なお天気の良い日にはとても奇麗です。
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高い所から見る和光塔や五重塔、本堂など新緑と八重桜に埋まって、この季節ならではの美しい風景が見られました。
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山の間から遠くにi石川県の津幡から金沢方面の田園や街並みが見えましたが、この季節は黄砂か春霞で遠くははっきりと見えません。
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山道を越えて反対側の道路に出ました、不動さんの方に下ります、道路沿いの八重桜が綺麗に咲いていました。
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以前にも紹介していて二番煎じになりますが、一休禅師の詠んだお言葉を御住職の揮毫により書かれています。

極楽は 西にあれども、東にも 北道さがせ 南にぞある

極楽は西国にあるとの教えが有りますが、東にもあります、北道さがせ(来た道さがせ)、南にぞある(みな身にぞある)
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倶梨伽羅不動尊は今からおよそ1300年前(養老2年)に、時の帝の元正天皇の勅願によりインドの高層(善無畏三蔵法師)がこの地で国土安穏を祈願され、ここに倶梨伽羅不動尊を建立しました、御本尊は黒い龍です、倶梨伽羅とはインドの言葉で黒い龍のことです。

ここは滋賀県の米原~新潟に続く北陸道の一部で、石川県と富山県の環境を越える峠になっています、倶梨伽羅不動尊が有る事から倶梨伽羅峠と呼ばれています、ここで源平が戦ったことやこの峠の歴史のことは次回にアップします。

今回はこれで終わります、ご訪問ありがとうございます。











山中温泉守護寺、国分山医王寺

2016年04月17日 | インポート
石川県の南部に加賀温泉と呼ばれる温泉郷が有ります、山代温泉、山中温泉、片山津温泉は加賀市に、粟津温泉は小松市にあって昔から加賀四湯ともよばれ親しまれています。

3月中旬に山中温泉の真言宗、医王寺に行って来ました、医王寺の創建は天平年間(729~749)に高僧、行基がこの地を訪れた際に、山中温泉を発見して温泉の守護の為に自ずから薬師如来像を彫り、一寺を設けて安置したのが始まりと伝えられています。

医王寺は山中温泉の開湯以前より温泉の守護の寺として長い歴史を刻んでいます。
山中温泉を見下ろす山手にありますが、近年に温泉街を迂回するように山手に国道が開通して、現在は加賀市から福井県に通じる国道364号線が寺の横を通っています、高札には正式名称の「真言宗高野派、別格本山 国分山 医王寺」と書かれています、右側が国道です。

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平安時代の承平年間(931~938)に兵乱により寺の御堂が焼失し、温泉も荒廃しましたが建久年間(1190~1192)に鎌倉幕府より御家人長谷部信連が地頭としてこの地に赴任した際に一羽の白鷺が傷めた足を山陰の小さな流れで癒しているのを見て、その場所より温泉が湧き出しているのを見つけました。
信連はここに12軒の湯宿を開き、それが山中温泉の始まりと語り継がれています。

門をくぐると山中節のメロディーが流れました、
 ♪ハ~ 忘れしやんすな山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師~♪   

全国的に有名な「山中節」の一説ですが、医王寺の御本尊は薬師如来で日本三大薬師の一つに数えられています、地元では「お薬師さん」と呼ばれて親しまれています、うたの一節にも「西ゃ薬師」と歌われています。
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正岡子規が医王寺で詠んだ、春風や 木の間に 赤き寺一つ 
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山中の地場産業の漆器は、漆器の出荷額では日本一です、山中漆器の恩人の会津屋由蔵の碑が経っています。
碑の横の説明の碑文を要約すると
天保9年に会津若松より由蔵なる者が来山し、山中で漆器商を営む越前屋六衛門は由蔵は漆工の技を究めたる者と知り、その技の伝授を望んだが、しかし会津藩の法度で他国へ技術を伝授したものは極刑に処せられる、それ故をもって立ち去る由蔵を六衛門が後を追い連れ戻し、自宅に泊めて、奉行所に在住許可を嘆願しました奉行所は隠密の疑いありと容易にこれを許しませんでしたが、再三の嘆願の末に在住許可を得た、滞在数年がたち、由蔵は故国にのこした老母を思う一念で再び来ることを約束して、会津に引き返したが奉行所に捕らえられた、奉行所で事の次第を正直に自白したところ、奉行は由蔵の孝心にいたく感銘して金一封を授与して放免されました。
再び山中に戻った由蔵は妻をめとり、ここに永住して蒔絵の技を伝授して山中漆器の発展に寄与して、明十五年に石川県知事よりさらに明治三十一年に農商務大臣の賞を授与された。
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山中温泉の調理師組合が祀っている包丁塚です、調理師の命ともいう包丁を祀っています。
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奥に八角の多宝塔(本堂)見えます。
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白寿観音像が参拝者を見つめています。
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本堂の横には岩壁から滝が落ちています、医王寺は、北陸不動霊場27番になっています、不動の滝には不動様が祀られていて、滝の横の岩棚に不動様が鎮座されています。
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元禄のころ、俳聖、松尾芭蕉が弟子の會良を伴って日本各地を旅した奥の細道の途中、元禄2年7月27日に山中温泉を訪れています、芭蕉は山中の湯を有馬、草津、と並ぶ「扶桑の三名泉」と讃え、
   山中や 菊は手折らじ 湯の匂い の句を読みました。
境内には芭蕉の石像と句碑が建っています、温泉嫌いの芭蕉ですが山中の湯を格別に気に入り、八日間も逗留し、那谷寺を参拝した後に、腹を病んでいた會良を先に帰して単独で大聖寺へと別れました。
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この場所は元々は山だった所を切り開いて寺を建てのでしょう、本堂に向かって左手は岩壁になっていますが、岩壁をくりぬいて仏像が多数祀られていましたが、文字や仏さまの輪郭が経年の劣化によって良くわからないものもありました。
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夫婦円満の石仏です、ほほえましいお姿です....いつまでもこうありたいものです(笑)。
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参道の横手の階段の上には、愛宕地蔵を祀った祠が有りました、山中の街は山間部河岸段丘に位置し、水利が悪く古来よりいく度となく大火に見舞われているそうです、ここに安置した愛宕地蔵は大火、小火の火災消除を祈願して明治初頭に火防守護として設立されたようです。

両脇に猪が控えていて、普通の神社ならば狛犬が守護として飾られていることが多いのですが、ちょっと興味を持って碑文を読んでみましたら、愛宕地蔵は和気清麻呂公が設立した愛宕神社に由来するもので、猪は和気清麻呂公が猪に助けられたことに由来するとのことでした。
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訪問日の3月12日には門の横のコブシの花の蕾も固く、開化まではしばらくかかりそうです。
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高台を走る国道から望む山中温泉の街並みです、すぐ足もとから町家の屋根が見えます、昨今の温泉街には珍しく高層ビルのホテルが少なく、和風のホテルが多い様で昔ながらの趣をとどめている様にみえる。
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山中温泉には何度か浴客として訪れたことが有りますが、医王寺に参った事は今回が初めてです、皆さまも山中温泉に来られた節には参られたらいかがでしょうか。
私は車で国道より行ったので門前まで行けましたが、温泉街からだと、下の写真の様な階段を約100段登って行きます、浴衣に下駄では大変です、着いた時か帰りに平服で靴を履いて登った方が良いようです。


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                  (映像はヤフー画像よりお借りしました)



最後までお読みいただきありがとうございます。







白山麓テーマパーク

2016年04月14日 | インポート
白山麓テーマパークに翁草の花を見に行って来ましたが、その時に咲いていた花をアップしました。
この時期には樹木の新芽が活動し出したばかりで園内は花も緑もこれからという時期だったので少しさみしい風景でした。
入口にはチューリップの花が満開に咲いていました、ビオラなどの草花の苗木を植え付ける作業をしていました。
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園地と道路を仕切るようにフジ棚が巡らせていて、全長が150mあるそうです、入り口に立って左右のフジ棚を写してきました、フジの花の時期には見事な光景になると思います。
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園内に入ったらボケの花が綺麗に咲いていました、クリーム色にピンクの絞りの花や真赤な花を2種類が咲いていました。
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足元にはハナニラ(イフェイオン)が一面に咲いていて、スミレの花も一緒に咲いていました。
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管理等の近くにムスカリの花が固まって咲いていた。
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展望台から見た園内はこれから草木が萌えて賑やかになると思いますがこの時期は殺風景です。
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ロックガーデンの岩陰にクリスマスローズの花が咲いていました、盛りを過ぎていて花が開きすぎていたようです。
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園地の下の方で手取川の水を引き入れて水生植物のエリアが有りましたが睡蓮やハスの花は未だ見られませんでした。
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白山麓テーマパークはここ吉岡園地のほかに近くにキャンプエリヤがあってバーベキューやキャンプ、オートキャンプも楽しめるテーマパークになっているようです、GWから夏休みは大いに賑あう事でしょう。

御訪問ありがとうございます、コメント欄は閉じさせていただきます。






















翁草(オキナグサ)

2016年04月13日 | インポート
白山麓のテーマパークの吉岡園地に翁草が咲いているとの情報を得たので、昨日見に行って来ました。
キンポウゲ科の翁草は野生で自生している株は少なくなってきていて、石川県のレットデーターブック(2010)の絶滅危惧Ⅰ類に指定されていて、全国的には環境省のレッドリスト(2012)の絶滅危惧Ⅱ類に指定されて保護されています、植えられている場所にはロープが張られていて区域内に入ることは出来ません、開化には少し時期が速かったのと、花が下向きに咲くので、花に近づけないので写真を写すのに苦労しました。

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長い期間この花を見ていませんが、中学生のころ信州の牧場でワラビ取りをしていた時に牧場の芝生の上にこのように固まって咲いているのを見ていました、それが昨今の山野草ブームで採集されてこのままでは絶滅寸前になっているのは悲しいことです。
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植えられているエリヤには心ない人に盗られないように様に監視カメラが何台か設置されていました。
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翁草は花がおわると白い繊維が残ります、その様が翁の白髪の様なのでそんな名前がついた様です。
御訪問ありがとうございます、吉岡園地で見た他の花は次回に紹介します。