白山麓の鳥越にある二曲城は1985(昭和60)年に近くの鳥越城の附として国の史跡に指定されています、鳥越城は白山麓の山内一向宗が最後まで戦った拠点として名が知られていますが、二曲城は鳥越城の支城として同時に戦っているのですがあまり知られていません。
私自身が知ったのはブロ友の”つとつとさん”の記事で知りました、一度行ってみたいと思っていましたが実現していませんでしたが5月中旬に行く事ができました。
つとつとさんの記事http://72469241.at.webry.info/201409/article_2.html
道の駅”一向一揆の里”に併設されている一向一揆の歴史館横から山手に少し入ります。
小さな上出合川のほとりに駐車場が有りました、川の流れを利用した親水公園が有ります。
橋を渡った先の広場は”任誓(にんせい)墓地公園”になっていて任誓の石碑が建っていました。
任誓僧侶の説明板が有りましたが、雨風にさらされてほとんど読めない状態でしたが、読める所は
加賀の傑僧「任誓」与三郎、
貞享、元禄のころ(17世紀末~18世紀初)に加賀の国能美郡二曲村に俗名与三郎、法名任誓という一向宗の禅門がおられ、近郷の人々を教化され任誓様と言われて一郷はおろか一郡挙げて慈父の如く尊敬されるにあった。
出生詳細は定かではないが、言い伝えによると母親は十村役の娘、父親は数千石の知行とりで玄藩様....うんぬん
墓地公園のはずれに、この城で戦って散って行った”加賀一向一揆、山ノ内門徒衆の慰霊碑が建っていました。
山にせまった平地に平吉庵の石碑が建っていて小さな建物(茶室?)が有りましたがこの辺が鳥越城と二曲城の城主の鈴木出羽守の屋敷跡だと言われています。
二曲城への登城口です、登城口の左側の大きな岩に上にが”二曲城跡”の石碑と観音様がおられて、岩の間から清水が一筋落ちていました。
ここに掲げれれている説明板には
国指定史跡、二曲城跡
当城跡は、鳥越城とともに織田信長の攻勢に最後まで抵抗した、白山麓の一向一揆の拠点となった城跡です。
二曲の地は、白山麓の門徒の指導者で有った鈴木氏の本拠で、本来、この城跡は、山麓の通称「殿様屋敷」の館に居住した、同氏の砦であった。
城跡は鳥越城跡から大日川の対岸に相対する標高268mの独立峰上に築かれており、山頂は平坦に削平されていて、尾根上に腰郭と空掘の遺構が確認できる。
天正八年(1580)十一月、鳥越城跡とともに落城するが、山内衆の抵抗はこれをもって終わらなかった。
「信長公記」によれば、翌天正九年(1581)二月、加州一揆が蜂起して「ふとうげ」に入置かれた柴田勝家の人数三百人を悉く打ち果たしたとある。
しかしこれも、織田方の佐久間盛政によって鎮圧された。
翌天正十年、一揆衆は再度鳥越、二曲両城を奪還するが、同年三月、生捕者三百余人の磔(はりつけ)により終息する。
二曲城跡は鳥越城跡とともに加賀一向一揆の最後の砦となった歴史の舞台として意義をもつことから、史跡に指定され、保護が図られている。
登城口からうっそうと茂る杉林の中の坂道を5分ほど登ると、広い道路は真っ直ぐに上へ伸びていますが、それとは別に急こう配の坂道が左の方に枝分かれしています、直進は一の郭へ登る道で、左の急こう配の道は二の郭を通って一の郭に通じる道です。
私は左に折れて二の郭への道を登りました、かなりの急こう配の道を足を滑らせたら下まで落ちてしまいそうな道でした、登った先は尾根に出ました。
尾根上を少し先には二の郭の発掘した平坦地が有りました、最近発掘したようで土塁や平らにした地面は雑草もなく山土が露出しています。
敷地の奥には二棟の掘立柱建物跡の柱の様子が復元されていました。
二の郭から一の郭へ登る道は傾斜の山道を階段状の道がジグザグに登っていました。
ササユリの蕾も未だ硬く咲くまでにはしばらく日にちが掛かりそうです。
ジグザグの山道を登った先に一の郭の平坦地が有ります、ここは二の郭の四倍ほどの広さがある様に見えました、石を敷き詰めた路が縦横に通っていて、井戸跡、地下式かまど跡、炉跡、掘立柱建物跡などが発掘した様子を再現されていました、二曲城は未だ発掘中のものも含め五の郭まで有ったようですが、ここ一の郭が本丸のようです。
発掘の様子を写真入りで説明しているパネルも表示されていました。
一の郭から東南方向を望む、二曲城が造られた独立峰の東側は切り立った急傾斜になっていて、すぐ下を大日川が流れています。
北を望むとすぐ下に道の駅一向一揆の里が見えます、正面中心にこんもりとした山が鳥越城跡が有る城山です、城山の麓の田園に緑の帯が見えますが大日川の流れです、見えませんが城山の向こうには手取川が流れていて、城山は二つの流れに囲まれた白山からの張り出し尾根の先端に位置しています。
ここ二曲城は同時に戦った鳥越城とは直線で1kmほどの距離にあります。
鳥越城跡のある城山を望遠で拡大して見ると、鳥越城跡の南にある中ノ門が見えました、直線で1kmの距離であれば、通信手段としての夜の灯りや昼の狼煙の煙、旗信号などが見えたでしょう、また、法螺貝や戦士の歓声、鉄砲の音は聞えたのではないかと思っています。
一の郭から西側の急峻な斜面のジグザグに造られた歩道を谷間に降りてきました。
谷間には倉跡や空掘り跡が発掘調査されてようです。
砕石を敷き詰めた山道を下って杉林の登って来た道に出ました。
登城口の任誓墓地公園に戻ってきました。
時間も早いので帰りに鳥越城跡に寄ってきました、鳥越城から二曲城がどのように見えるか興味が有ったのです、県道から鳥越城跡が有る城山に登る道路が有ります。
頂上の駐車場に車を停めて100m程坂道を登ると桝形門が目に入ってきます、門の両脇は石垣が積まれています。鳥越城跡のブログへhttp://naka-go.at.webry.info/201310/article_8.html
桝形門を抜けると正面は土塁に衝きあたりますが、そこを鉤の手に曲がって一段高いところに本丸門が有ります、鳥越城は城としての規模や備えは二曲城と比べ物にならないほどの大規模な城です。
鳥越城跡から北東方向を望むと、田園地帯の右から左に緑の帯が延びているのが手取川の流れです。
南を望むと下には道の駅一向一揆の里が見えます、その左の尾根の上に樹木がなく山肌が見えている所が五の郭です、分かりにくいのでその部分をトリミングした物は下の段に載せました。
本丸の土塁の上から桝形門の屋根越しに二曲城が見えます、直線距離で1Kmで眼と鼻の先で支城としては地理的に理想的なようです。
二曲城は鳥越城の支城として鈴木出羽守が城主で織田信長の勢力とたたかいましたが、鈴木出羽守が鳥越に来る前は、二曲村の士豪の二曲左京進の屋敷の背後に建てられた城砦だったとも言われています。
この頃の歴史や登場人物の出自には諸説があり、調べて掘り下げれば不明な事が沢山あります、そんな歴史をひもとくのも歴史の面白さが有るのではないかと思います。
この記事を書くのにあたって、二曲城跡には二度訪れています、その上で、つとつとさんの記事や、西国の山城のトミーさんの記事、コトバンクなどの多くの文献を読んで参考にさせていただきました事を報告して、ここに感謝の意を表します。
お終いまでお読みいただいて有難うございます。
私自身が知ったのはブロ友の”つとつとさん”の記事で知りました、一度行ってみたいと思っていましたが実現していませんでしたが5月中旬に行く事ができました。
つとつとさんの記事http://72469241.at.webry.info/201409/article_2.html
道の駅”一向一揆の里”に併設されている一向一揆の歴史館横から山手に少し入ります。
小さな上出合川のほとりに駐車場が有りました、川の流れを利用した親水公園が有ります。
橋を渡った先の広場は”任誓(にんせい)墓地公園”になっていて任誓の石碑が建っていました。
任誓僧侶の説明板が有りましたが、雨風にさらされてほとんど読めない状態でしたが、読める所は
加賀の傑僧「任誓」与三郎、
貞享、元禄のころ(17世紀末~18世紀初)に加賀の国能美郡二曲村に俗名与三郎、法名任誓という一向宗の禅門がおられ、近郷の人々を教化され任誓様と言われて一郷はおろか一郡挙げて慈父の如く尊敬されるにあった。
出生詳細は定かではないが、言い伝えによると母親は十村役の娘、父親は数千石の知行とりで玄藩様....うんぬん
墓地公園のはずれに、この城で戦って散って行った”加賀一向一揆、山ノ内門徒衆の慰霊碑が建っていました。
山にせまった平地に平吉庵の石碑が建っていて小さな建物(茶室?)が有りましたがこの辺が鳥越城と二曲城の城主の鈴木出羽守の屋敷跡だと言われています。
二曲城への登城口です、登城口の左側の大きな岩に上にが”二曲城跡”の石碑と観音様がおられて、岩の間から清水が一筋落ちていました。
ここに掲げれれている説明板には
国指定史跡、二曲城跡
当城跡は、鳥越城とともに織田信長の攻勢に最後まで抵抗した、白山麓の一向一揆の拠点となった城跡です。
二曲の地は、白山麓の門徒の指導者で有った鈴木氏の本拠で、本来、この城跡は、山麓の通称「殿様屋敷」の館に居住した、同氏の砦であった。
城跡は鳥越城跡から大日川の対岸に相対する標高268mの独立峰上に築かれており、山頂は平坦に削平されていて、尾根上に腰郭と空掘の遺構が確認できる。
天正八年(1580)十一月、鳥越城跡とともに落城するが、山内衆の抵抗はこれをもって終わらなかった。
「信長公記」によれば、翌天正九年(1581)二月、加州一揆が蜂起して「ふとうげ」に入置かれた柴田勝家の人数三百人を悉く打ち果たしたとある。
しかしこれも、織田方の佐久間盛政によって鎮圧された。
翌天正十年、一揆衆は再度鳥越、二曲両城を奪還するが、同年三月、生捕者三百余人の磔(はりつけ)により終息する。
二曲城跡は鳥越城跡とともに加賀一向一揆の最後の砦となった歴史の舞台として意義をもつことから、史跡に指定され、保護が図られている。
登城口からうっそうと茂る杉林の中の坂道を5分ほど登ると、広い道路は真っ直ぐに上へ伸びていますが、それとは別に急こう配の坂道が左の方に枝分かれしています、直進は一の郭へ登る道で、左の急こう配の道は二の郭を通って一の郭に通じる道です。
私は左に折れて二の郭への道を登りました、かなりの急こう配の道を足を滑らせたら下まで落ちてしまいそうな道でした、登った先は尾根に出ました。
尾根上を少し先には二の郭の発掘した平坦地が有りました、最近発掘したようで土塁や平らにした地面は雑草もなく山土が露出しています。
敷地の奥には二棟の掘立柱建物跡の柱の様子が復元されていました。
二の郭から一の郭へ登る道は傾斜の山道を階段状の道がジグザグに登っていました。
ササユリの蕾も未だ硬く咲くまでにはしばらく日にちが掛かりそうです。
ジグザグの山道を登った先に一の郭の平坦地が有ります、ここは二の郭の四倍ほどの広さがある様に見えました、石を敷き詰めた路が縦横に通っていて、井戸跡、地下式かまど跡、炉跡、掘立柱建物跡などが発掘した様子を再現されていました、二曲城は未だ発掘中のものも含め五の郭まで有ったようですが、ここ一の郭が本丸のようです。
発掘の様子を写真入りで説明しているパネルも表示されていました。
一の郭から東南方向を望む、二曲城が造られた独立峰の東側は切り立った急傾斜になっていて、すぐ下を大日川が流れています。
北を望むとすぐ下に道の駅一向一揆の里が見えます、正面中心にこんもりとした山が鳥越城跡が有る城山です、城山の麓の田園に緑の帯が見えますが大日川の流れです、見えませんが城山の向こうには手取川が流れていて、城山は二つの流れに囲まれた白山からの張り出し尾根の先端に位置しています。
ここ二曲城は同時に戦った鳥越城とは直線で1kmほどの距離にあります。
鳥越城跡のある城山を望遠で拡大して見ると、鳥越城跡の南にある中ノ門が見えました、直線で1kmの距離であれば、通信手段としての夜の灯りや昼の狼煙の煙、旗信号などが見えたでしょう、また、法螺貝や戦士の歓声、鉄砲の音は聞えたのではないかと思っています。
一の郭から西側の急峻な斜面のジグザグに造られた歩道を谷間に降りてきました。
谷間には倉跡や空掘り跡が発掘調査されてようです。
砕石を敷き詰めた山道を下って杉林の登って来た道に出ました。
登城口の任誓墓地公園に戻ってきました。
時間も早いので帰りに鳥越城跡に寄ってきました、鳥越城から二曲城がどのように見えるか興味が有ったのです、県道から鳥越城跡が有る城山に登る道路が有ります。
頂上の駐車場に車を停めて100m程坂道を登ると桝形門が目に入ってきます、門の両脇は石垣が積まれています。鳥越城跡のブログへhttp://naka-go.at.webry.info/201310/article_8.html
桝形門を抜けると正面は土塁に衝きあたりますが、そこを鉤の手に曲がって一段高いところに本丸門が有ります、鳥越城は城としての規模や備えは二曲城と比べ物にならないほどの大規模な城です。
鳥越城跡から北東方向を望むと、田園地帯の右から左に緑の帯が延びているのが手取川の流れです。
南を望むと下には道の駅一向一揆の里が見えます、その左の尾根の上に樹木がなく山肌が見えている所が五の郭です、分かりにくいのでその部分をトリミングした物は下の段に載せました。
本丸の土塁の上から桝形門の屋根越しに二曲城が見えます、直線距離で1Kmで眼と鼻の先で支城としては地理的に理想的なようです。
二曲城は鳥越城の支城として鈴木出羽守が城主で織田信長の勢力とたたかいましたが、鈴木出羽守が鳥越に来る前は、二曲村の士豪の二曲左京進の屋敷の背後に建てられた城砦だったとも言われています。
この頃の歴史や登場人物の出自には諸説があり、調べて掘り下げれば不明な事が沢山あります、そんな歴史をひもとくのも歴史の面白さが有るのではないかと思います。
この記事を書くのにあたって、二曲城跡には二度訪れています、その上で、つとつとさんの記事や、西国の山城のトミーさんの記事、コトバンクなどの多くの文献を読んで参考にさせていただきました事を報告して、ここに感謝の意を表します。
お終いまでお読みいただいて有難うございます。