go の let's goシニア

リタイヤ・・何でもヤリタイヤ
登山、渓流釣りを卒業して四季の花を愛でています

おにゆりの里

2016年07月26日 | インポート
金沢市西部の専光寺町から海岸線を白山市倉部町まで走る「しおさいロード」と呼ばれている片側一車線の道路が有ります、信号がほとんどないことからバイパス道路として地元の人に良く利用されています。
しおさいロードの沿線の白山市八田町地内に「おにゆりの里」が有ります、砂丘の松林の中に一万本以上のおにゆりが群生しています、24日にネットを見ていたら7月下旬から8月上旬に花が開花すると知りましたので早速その日に行って来ました、思い立ったが吉日です。
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しおさいロードの沿線の脇道を入った所に「おにゆりの里」の旗が立っていたのですぐにわかりました、トイレもあって車が10台ぐらい駐車出来る駐車場が有りました。
駐車場から小高い松林の丘の上に登ります、遠くからでもオレンジ色のオニユリが群生しているのが分かりました。
このおにゆりの里は地元の方々が管理や保護をしていますが、広い範囲に群生しているオニユリを管理育成するのは大変な労力でしょう。
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丘の頂上に東屋が有りました、その辺に行くと斜面にオニユリが一面に咲いていて遊歩道以外はオニユリで埋め尽くされています。
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オニユリは原産地が日本、中国、朝鮮半島、シベリヤ沿岸の広い範囲です、日本でも北海道から九州の平地から低山で普通に見られます、また、別名を天蓋百合(てんがいゆり)とも呼ばれるそうです。
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この辺一帯の砂丘は白山市の「ジオパーク」になっていて遊歩道を巡る様に整備されていました。
遊歩道を巡って砂丘地の植物を観察できるようになっています、見晴らし台から白山が遠望出来るようですが、あいにく白山は雲の中でした
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陸橋を渡るとしおさいロードを跨いで海側の砂丘に行けるようになっていました。
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陸橋の向こう側に海と展望の東屋が見えました。
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砂丘の砂地にはまごうの花が群生していました、帰ってから調べたらはまごうは「浜香」や「浜栲」ともかくそうです。
浜香はこの植物が良い香りがするのでお香にした事からついた名のようです、また実は漢方薬になるそうです。
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海に向かって見晴らしの良い砂丘の上の東屋に登ってきました、砂浜から水平線まで良く見えました。
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海に面した斜面にもオニユリが群生して咲いていました。
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砂丘のすぐ下にはサイクリングロードが延びていて、その先は砂浜になっています。
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一回りして駐車場に戻ります。
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駐車場のお隣の畑のケイトウの花が咲いて一面に赤く染まっていました。
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オニユリに限らず、ユリの花は花粉が付きやすいので、群生している傍を通る時は気を付けていたのですが、腕やシャツに花粉が付きました、着ていったTシャツは紺系の色で幸いでしたが、白いものを着て行けないと思いました。
いきなり行ったのですが、開化具合が丁度良くて綺麗でした、8月上旬まで見頃が続きそうです。

ご訪問ありがとうございます。




炎と太鼓の祭典=横江の虫送り

2016年07月22日 | インポート
加賀平野のほぼ中心に位置する白山市横江地区は、水田が広がって昔から米作りの盛んな地域です、ここ横江で毎年行われる「横江の虫送り」は300年以上の歴史を持っており、白山市の無形民俗文化財に指定されています。
虫送りの行事は全国的に行われている伝統的な行事ですが、内容は地方によって様々ですが、多くは害虫を駆除して豊作を祈願する目的になっているようです。
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横江地区の虫送りの行事は毎年7月第三日曜日に行われます、今年は18日に行われました。
日没と同時に子供連れの周辺の人達が集まって、手にカンテラを持って農道を歩きます、周辺の町会では子供たちが伝統行事に参加することによって地域の歴史に触れて、地域に愛着を持ってもらおうと子供会単位で参加させています。
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カンテラを持った子供たちに青年団の太鼓も加わって、暗闇の農道は松明の灯りが揺らめく中に太鼓の音が響いて賑やかな行列が長く続いていました。
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太鼓を打ち鳴らす若衆が、地域の鎮守の宇佐八幡神社の前に造られた「虫送」の火縄の下に集まり、太鼓の競演が繰り広げられると、「虫送」の火縄に火がつけられて太鼓を打つ若衆が熱狂して太鼓を打ち鳴らしクライマックスを迎える。
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火縄に火がついて「虫送」の文字が照らし出されると、太鼓を打ち鳴らしていた若衆が太鼓を担いで宇佐八幡神社の境内に雪崩打ったように駆けこみます、神社の前の焚き火を囲んで再び太鼓の競演が始まります。
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焚き火を囲んで十数張りの太鼓が若衆によって熱狂的に打ち鳴らされて、神社前は太鼓の音がクライマックスを迎える、合図の笛の音が「ピー」と鳴り響いて太鼓の音が止み、虫送りの行事は終盤を迎えました。
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例年通り神社の境内では子供相撲の土俵の準備がされていました、虫送りの最後は子供相撲がもようされます。
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恒例によって毎年行われる虫送りですが、現在では害虫駆除の農薬の復旧によってほとんどの害虫が駆除されています、農薬がなかった昔は稲の成長にとって一番大切なこの時期に、闇夜に松明をともして虫を集めて火で駆除したことが虫送りの起源になったようです。

御訪問ありがとうございます。




立野ヶ原の監的壕(たてのがはらのかんてきごう)

2016年07月18日 | インポート
金沢から富山県の南部に行くときは国道304号線か、最近整備されて通りやすくなった県道27号(金沢ー井波線)を利用することになります、どちらの道路で行っても県境を越えて最初に入る所は南砺市になります。
今日お話しをする福光町も2004(平成16)年に市町村合併で南砺市に編入しています、福光町の南の丘陵地帯は立野ヶ原と呼ばれていて、現在はのどかな田園地帯になっていて、特産の柿を栽培する果樹園や畑作、水田などが広がっています。

この丘陵地帯の歴史をひもとくと、1898(明治31)年ごろからこの地は日本陸軍の演習場であった時代が有ります。

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日清戦争が1895(明治28)年で終わった後の1898(明治31)年に砲兵装備を有する金沢第9師団が設立されました、設立と同時期に陸軍省はこの立野ヶ原を射撃演習地として着目して、四回にわたって147万坪(一節では180万坪とも言われている)を買収して「立野ヶ原陸軍演習場」を設置され、砲兵のみならず諸兵科の訓練場として全国でも富士山麓に次ぐといわれる大演習場となった。
現在の立野ヶ原の一角にある桜が池では、湖畔の杜の中に遊園地や宿泊施設があってのどかな光景が見られます、湖畔の後方にこんもりとした丸い山が見えますが「丸山」です、演習場時代には砲撃の着弾地の目標になった山です。
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丸山監的壕(まるやまかんてきごう)

桜が池から丸山を越えるジグザグ道を登って行くと道路の脇に大きなコンクリート構造物が有ります。
演習場だった頃の遺物「丸山監的壕」(まるやまかんてきごう)です、この監的壕は砲弾の的中率や機能、効果を観察するための壕です、私が初めて桜が池に来た当初は藪や蔦で覆われていて現在のように全容は見られませんでした。
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表示看板の文字が小さくて読みにくいと思いますので原文をそのまま書きます、

監的壕

眼下の桜が池から北へ3キロメートル、東西2キロメートルに亘って広がる丘陵が立野ヶ原で、先土器時代から縄文時代を中心とする遺跡が点在する県下有数の埋蔵文化財包蔵地帯である。
日清戦争が終わり、翌年の1896(明治29)年に砲兵装備を有する金沢第9師団が設置され、陸軍省はその射撃演習場としてこの立野ヶ原に着目した。
同年5月から四回に亘り147万坪、当時の南山田、太美山、東太美山村にまたがる一帯を買収して、「立野ヶ原陸軍演習場」が設置され、砲兵のみならず諸兵科の演習地とした。
特に砲兵の実弾射撃は、飛野(現在の自動車学校のあたり)を拠点として実施され、この地丸山周辺を被団地としていたので着弾効果を観測する為に「監的壕」がいくつか建造された。
この監的壕はその最後の建築物で、昭和10年代の遺構であり、現在演習場としての当時を偲ぶ唯一の遺産である。

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この監的壕の中で飛んでくる砲弾の着地点や破壊力を細いのぞき窓から監察していたのでしょう。
ドーム屋根の建物で外径6m、内径4m、高さ3.9mの構造物です、この丘陵地帯にはいくつかの監的壕が造られた様ですが現在残っているのは、ここともう一か所のみです、この丸山監的壕は昭和10年代(一節によると昭和12年)に造られた監的壕で、最後に造られたものです。
建造されてから80年近く経てコンクリートには多少のひび割れが見られるものの保存状態は良好です。
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のぞき窓の奥行きを見るとコンクリート壁の厚さが分かります、大凡1mの厚さのようですが、いくら味方が発射した砲弾とはいえ砲弾がそれて直撃されたら怖いですね。
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後ろに回ると内部に入る鉄の扉が有りました、厚さ大凡15㎝で最近まで南京錠が掛かっていた様ですが外されていました、取っ手を持って開かないか引っ張って見ましたが、扉が重い上に蝶番が錆びていてビクともしません。
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少し開いている扉の隙間から中を覗いたのですが、中は真っ暗です。
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扉の隙間からコンデジカメラを差し込んで、フラッシュモードで撮影してみました、内部はガランとした殺風景の空間で、ドームの内径に沿ってコンクリート製のベンチが有り、のぞき窓の下には棚状の肘掛けが有ります、ここに肘をかけて双眼鏡で監察していたのでしょう、冬季も演習していたかどうかはわかりませんが、内部は寒かったでしょう。
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目玉監的壕(めだまかんてきごう)

二か所目の監的壕はその場所が分からづに、広い丘陵地の農道をウロウロ探しても分からづ農作業をしていた二人の地元の方に聞いたのですが、記憶があいまいだったり、場所を教えて下さるものの広い田園地帯にはさしたる目印もなくわかりませんでしたので、その日は諦めて帰りました。
後日、ネットで色々と調べてから出直しました、二度目の時にはすんなりと現地に着くことができました。
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この監的壕は半地下式になっていて、見る方角によっては遠くから見つけることが出来ません、形状から「目玉監的壕」の名前で地元から呼ばれて来ました。
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表示看板が読みにくいと思いますので原文のまま書きます。

立野原監的壕(目玉監的壕)
日清戦争後の明治31(1898)年、金沢に砲兵装備を有する陸軍省第9師団が設置され、その演習場として立野原一帯が買収され、450ヘクタールを超える大型演習場となりました。
砲兵の実弾射撃は飛野(現 南砺自動車学校付近)を拠点として実施され、約4㎞先の立野原周辺を着弾地としており、砲弾の的中率、性能効果を監察する為に監的壕がいくつか設けられました。
当初は土坑であったものが、昭和3年頃に近代的で強固なコンクリート製に改修されました。
構造は半地下式、監的室は円形型、ドーム屋根で導入路が付いています。

この監的壕は、その形状から地元では「目玉監的壕」と呼ばれ、保護されてきました、かって立野原が軍事演習場として利用された歴史を今に物語る貴重な存在です。
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後部の導入路から内部に入って見ました、草が茂りじめじめしていて長いものがいないか気味が悪かった、あらかじめゴム長を用意してきて正解でした。
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監的室はドーム型でこちらにはベンチも肘掛のありませんでした。
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ドーム型天井です、コンクリートが剥離しないように最近防水塗料が塗られた様ですが、数年前までは制作時に型枠の剥離を良くするために新聞紙が使われていたそうです、その新聞紙が天上のコンクリートに張り付いていて、一部分の文字も読めたようです、調査の結果、朝日新聞の昭和3年11月7日付けの紙面と判明したそうです、防水塗料が塗られた後でも新聞らしい影が見えます。
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監的室の窓からは立野ヶ原の田園の向こうに福光の市街地が見えます、4㎞先の福光の市街地から砲弾が発射されてこちらに飛んで来る様子をこの窓から監察していたのでしょう。
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窓には扉が付いていて開閉できるようになっていた様です、扉はありませんでしたが、蝶番の取り付け金具などが残っていました。
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正面から見るとタコ焼きかロボットの頭のように見えます。
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外部からのぞき窓を見るとコンクリートの厚さが分かります。
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昭和3年に製作されて、すでに90年近くの年月が経っています、コンクリートも劣化して剥離した部分もあります、中には骨材として石が並べられています、最近石がはがれないようにコンクリートを塗って応急処理されていました、現在のRC構造のような鉄筋は見当たりません。
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高い盛り土の上に登ってみました、砲弾発射地点の福光の市街地が小さく見えます。
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後ろを見ると立野ヶ原の田園が広がっています。
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望遠で見ると射撃目標の丸山が杉木立の上にこんもりとした姿が見えます、
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現在ですと演習場にするために、147万坪の農地や山林を国が買収するとなると、反対者も出る中で大勢の地権者と交渉するのは大変なことです、当時は地元の町村がこぞって演習場を誘致したそうです。
それは某国の先軍政治のような「富国強兵」の政策を当時から進められ、軍備最優先の国策なればこそなし得たことでしょう。
その後、1904(明治37)年に日露戦争が勃発すると、金沢第9師団は乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将率いる第3軍隷下(れいか)で旅順攻囲戦に参戦しています、そのときに砲撃訓練が実戦でどの程度役に立ったかは知る由もありません。

監的壕はこの平和な山里の過去の歴史を物語る遺物として長く保存されることを望みます。

長い記事を最後までお目を通していただいて有難うございます。



☆この記事を書くにあたり、”ウィキペディア”や”いこまいけ南砺”等の文献を参考にさせていただきました。





今年も黒部の秘湯へ=祖母谷温泉(ばばだにおんせん)

2016年07月12日 | インポート
先週の平日に友人と二人で黒部の祖母谷温泉に行って来ました、黒部のトロッコ電車は5月の新緑の時期と、10月の紅葉の時期には混み合います、その時期を避けて数年前から7月の初めに行くことが恒例になっています。
遅い時間に家を出て、宇奈月のトロッコ電車の乗り場についたのは11時をまわっていました、トロッコ電車はすいているので乗車券を買ったらすぐ次に出発する電車に乗れました。
行った日が偶然に”シニア感謝デーの期間で60歳以上の人は運賃が半額になりました、ラッキー!でした。
この時期には渓谷鉄道の駅舎に毎年七夕飾りがしてあります。

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すいていて一両の客車に私たち2人だけでした、いつも屋根だけの普通客車に乗ります、爽やかな渓谷を渡る風を切ってトロッコに揺られながら渓谷の景色を見るのは爽快です。

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トロッコに揺られること大凡1時間30分で終点の欅平に到着しました、駅から黒部川の本流にかかる奥鐘橋を渡って支流の祖母谷川(ばばだにがわ)を遡ります。
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道路は以前に工事用車両が通行した広い道ですが下の谷川までの高さがどんどん高くなります。
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欅平から大凡50分歩いて最後の長いトンネルを抜けると目指していた祖母谷温泉の建物が原生林をバックにして見えてきました。
祖母谷温泉は唐松岳、白馬岳への登山道に山小屋として造られたのが始まりです、唐松岳や白馬岳に登山するのにこのルートを利用する人が少なくなってマイナーな登山道になっています。
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私たちはここの露天風呂に入るのを楽しみに毎年訪れています、この小屋の少し上流の河原から温泉が自噴していて、そこから引いた源泉が24時間かけ流しになっている露天風呂は最高です。
露天風呂はこの他にも女性用のものと、室内にも浴場が有ります。
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小屋の前は祖母谷川(ばばたにがわ)と祖父谷川(じじたにがわ)が合流する場所になります、祖母谷川は温泉が流れ込むので魚は釣れません、私たちは到着してから一休みして祖父谷川で釣りをしました。
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夕方になると黒部の谷を囲む峰には霧が降りてきて墨絵のような幻想的な景色になりました、釣りから帰って夕刻の移り行く周りの景色を見ながら温泉に浸かりました。
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露天風呂の上には見晴らしの良い休憩所が有ります、入浴だけの客はここで休憩する事ができます。
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釣った岩魚は夕食の時に塩焼きと骨酒にして頂きました。
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この日の宿泊客は私たち二人だけでした、早朝に冷たいビールをもって露天風呂に行きました、朝から源生の温泉に浸かって冷たいビールは最高でした、少し寿命が延びたと思います。
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2014年に来た時に写した小屋の上流100mほどのところにある泉源の祖母谷地獄の写真を紹介します。


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自噴する温泉が多いので川に流れています、勿体ないけれどこんな山奥ではどうしょうもありません。
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毎年恒例になっている祖母谷温泉に行って、黒部の山奥の温泉にゆっくりと入って満足しました、温泉好きにはたまらない所です、帰りに見送って下さった小屋のお母さんに「来年も生きていて元気だったら又来ますよ」と云って小屋を後にしました。

御訪問ありがとうございます。


(カメラのバッテリーが切れて友人の撮影した画像と混同していてお見苦しいと思いますがお許しください)





鮎釣りー解禁日の宮川

2016年07月09日 | インポート
夏の到来と共に全国の河川で鮎釣りの解禁が報じられていますが、先日は神通川の支流で初めての鮎釣りに挑戦しましたが、今度は7月1日に解禁になりました宮川下流の共同漁場に行って来ました。
解禁は7月1日ですが、富山の釣り仲間のお誘いで前の日に釣り場近くでキャンプしました、そのために解禁日には朝早くに渓相の良い場所をキープする事が出来ました。
(カメラをゲート前に停めた車に忘れてしまい、今回の記事の画像は友人が写したものをお借りしました)
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道路でキャンプしていますが、以前は国道360号線で車の通りも激しかったのですが、国道がトンネルになった為に廃道となってゲートが閉まっていて通行ができない道路です。
宮川下流の共同漁場は崖や大きな石が連なっている渓谷になっています、この道路から川に降りるには急な崖の道を下ることになります、時にはロープを伝って下りて行きますが鮎釣りの好漁場の河川になっています。

私たちはゲートの前に車を停めて、この場所まで約1.3kmの道程をバイクや手押し車でキャンプ資材をピストン輸送してのキャンプです。
キャンプした近くにはJR高山線の踏切が有って夜間は街灯が有ってキャンプしていても明るくて良かったです。
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夜の酒盛りの準備が進んでいます、夜の帳が下りる頃にはビールにワイン、日本酒のお酒も入って大声でしゃべってもあたりに迷惑になる事もなく楽しい時を過ごしました。
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翌朝の夜明けに皆さんが揃って記念撮影をしました、これから宮川下流の共同漁場の鮎釣りの口あけです、おとり鮎を泳がせる前にビールで乾杯している人もいます。
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流石ベテランの技、流れの中での取り込み、おとりの付け替え、長い竿を担いで見事です、goにはとても真似が出来ません。
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goの釣りは竿や仕掛けは鮎釣りになっているのですが、渓流釣りの竿さばきやポイントの探り方が抜けていません、鮎の習性やおとり鮎の泳がせ方などまだまだ勉強が必要です。
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ベテランが川からあがってきました、沢山釣ってきましたよ。
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この日はベテランは一人40匹以上の釣果です、goは一番良いポイントをまかされながら7~8匹ぐらいしか釣れませんでした、残念!。
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この日は、少し前の天気予報では曇りか雨の予報でしたが、日中は強い日差しが照りつけて水の中に入っていても大変熱い一日でした、釣り終えて午後3時半ごろに上の道路に戻りましたが、帰りの登り坂では顔面をダラダラと汗が流れて一気に疲れが出ました。
goは昔から渓流釣りのみををしてきました、渓流釣りのことならほどほどの知識が有りましたが鮎の友釣りは経験が全く有りません、なかなか奥の深い釣りのようです。
富山の釣り仲間のご厚意に甘えて何年ぶりかの楽しいキャンプ、それに鮎釣りのご指導をしていただいて楽しく過ごすことができました。


御訪問ありがとうございます。