福井の一乗谷へは20211年に行っていますが娘が一度も行っていないので行くという
ので車に便乗してゆきました、福井インターまではカーナビで行きましたが福井インターを
過ぎてからカーナビプラス私の案内も含めて賑やかになりました。
2011年に来た時と大分変っていました、見覚えのあるものは唐門だけでした、唐門は、
朝倉やかたの表面の堀に面して立っています、唐破風作りの門です、朝倉氏遺跡の門ではなく
朝倉義景の菩提を弔うための寺の門として江戸時代に建てられた門です。
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朝倉一族を弔う墓地が祀られていました。
一乗谷は東西約500メートル、南北約3キロメートルの谷間に武家屋敷や城下町が
広がっています、入り口には九頭竜川の支流の足羽川が天然の堀で守りを固めています。
1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した朝倉義景(5代)は一乗谷
を放棄して大野に逃れました、翌日、信長の軍勢によって火をかけられ一乗谷は灰燼にきした。
狭い城下でしたので、そのあとに新しい都が作られることが無かったので今日土の中から
昔のままの遺跡が発掘されます。
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朝倉館の発掘は今も続けています、礎石の数の多さからかなり立派な屋敷のようです。
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調理場跡から出土した石製の流し台のような物もあります。
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出土した礎石を基に再現した街並みもあります、武家屋敷や町人館が忠実に再現されて
います。
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再現された武家屋敷です、中庭に面して幾つもの建物があり、使用人も沢山いたことで
しょう。
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染物屋の室内です、藍染めの液がカメの中で発酵しています。
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陶器を扱っている商家です、仕入れた茶碗や飯椀が沢山あります。(2011年撮影)
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2011年に来たときは遺跡に向かう道の左側にありましたが道路を挟んで向かいに新しい
資料館が昨年の秋に新しくできました、展示方法が分かりやすくてよかったです、二階も
あり展示スペースも広くなって立派になりました。
その展示場に城下のジオラマがありました、建物が木造で密集しているので火災が発生し
たら全焼になるでしょう。
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一乗谷が栄えたころ、京の都は応仁の乱により荒廃していました荒廃した都から多くの
公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな
京文化が開花した。
そのため北の京都呼ばれた頃もありました(朝倉4代)一乗谷の全盛期を迎えました。
(本文を書くにあたりウイキペディアを参考にしました)