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リタイヤ・・何でもヤリタイヤ
登山、渓流釣りを卒業して四季の花を愛でています

追憶の旅行記ー南アフリカ、エンタベニ動物保護区

2017年01月31日 | インポート
2008年に南部アフリカ3カ国を旅行してきました、旅行から帰ってからデジブックにまとめてbiogの記事にしたのですがプレミアム会員をやめたので消えてしまいました、ここに改めて追憶の旅行記を編集してみました。

ビクトリアの滝を見物する為にジンバブエとザンビアの旅を終えて、ビクトリアフォールズの空港を後にしました、ヨハネスブルグ空港に到着したのですが同じグループで旅行している方が預けた荷物が行方不明になるトラブルが有って、バスの出発時刻が2時間ほど遅れてしまいました。
ヨハネスブルグからサファリツアーをするリンポポ州までは240kmあります、途中の街まではハイウエーでバスも順調に進みましたが、最後の街に着いた頃には陽も落ちて暗くなっていました。

街からは真っ暗な原生林(ジャングル)の中の道を進んで行きましたが、途中でバスが道に迷って運転手が衛星通信で会社と大きな声で話していました、現地の言語なので何を話しているか分かりません、ナビがついていないので暗い道をあちらこちらと移動しているうちにバスの燃料が少なくなり、最後に通過した街まで引き返すことになりました。

街に着いてGSで燃料をチャージする頃には20時を過ぎていました、運転手がGSの人に行く道を聞いて出発しました、バスは暗い道をひたすら走って行きますがなかなか目的地に着きませんでした、正しい道を走っているか心配した矢先にこんどはバスがスコールの後のぬかるみにハマってバックも前進も動けなくなってしまいました。
衛星通信で動物保護区のロッジに連絡して迎えに来ていただくこととなりました、皆さん無言になって静まり返った車内で3~40分待ちましたか、遠くの暗闇に車のヘットライトの光が近付くのを見た時にホッとしました。
ロッジからはサファリツアーに使うトヨタのランドクルーザーが2台で迎えに来ました、ツアー客が2台の車に分乗してロッジに向かいましたが屋根も壁もない無蓋車なので夜の風をうけてとても寒かった記憶が有ります。
結局ロッジに着いたのは深夜の11時30分ごろでした、ロッジでは暖炉を赤々と焚いて温かい夕食の準備が出来ていてホッとしました。

あくる朝、ロッジの周辺が見えてきました、高い岩山が聳えていてかって見た事のない情景でした。
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P1020171 posted by (C)gotyan


次の日の予定は朝5時に集合してしてサファリツアーの予定でした、昨夜はトラブルの為に深夜に到着して食事を済ませて就寝したのは零時過ぎていました、朝五時集合は辛かったです。
サファリツアーをする車はトヨタのランドクルーザーを改造して、横の三列の座席が三段もうけられています、運転席と助手席を除いて九名が乗車できます、ツアー定員が18名ですので2台の車に分乗してサファリツアーに出掛けました。
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IMGP0087 posted by (C)gotyan


赤土の凸凹な道や、時にはブッシュの中をターゲットを探して走ります。
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P1020104 posted by (C)gotyan


最初に見つけたのはシロ犀でした、車から2~30mの距離まで近づきましたが、突進して来ないか不安でした、ガイドの説明ですと犀は近眼で30m先の人間が見えないそうです。
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P1020111 posted by (C)gotyan


こちらに気づく事もなく盛んに草を食んでいますが、岩の様な頑丈な巨体は2tonぐらいあるそうです。
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P1020126 posted by (C)gotyan



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IMGP0082 posted by (C)gotyan




ズームレンズの倍率を上げて撮影しました。
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P1020123 posted by (C)gotyan



山あり谷ありの変化に富んだ地形で、赤い岩の断崖が下の平地との間を仕切っています。
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P1020141 posted by (C)gotyan




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IMGP0092 posted by (C)gotyan



谷間に沿って造られた急傾斜の道を下って行きますが、つんのめりそうな急傾斜をエンジンブレーキをフルに使って下って行きますが帰りにこの坂を登れるのでしょうか?、少し心配になりました。
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P1020140 posted by (C)gotyan



谷伝いに下って来たので気づかなかったのですが、下に降りてから崖を見あげて高低差が有るのに驚きました。
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P1020142 posted by (C)gotyan


ブッシュの中にキリンが首を出してこちらの様子をうかがっています。
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P1020148 posted by (C)gotyan


キリンに近付きました、このキリンは未だ子供のようであまり警戒心がないようです、近付いてもこちらの様子をうかがっていて逃げませんでした。
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P1020151 posted by (C)gotyan


草原にはヌーの群れやインパラが草を食んでいました。
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P1020136 posted by (C)gotyan



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P1020135 posted by (C)gotyan


サファリのドライバーは足跡や植物の食跡や糞を観察して広いブッシュの中にターゲットを追います。
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P1020105 posted by (C)gotyan


向かいの山の林の中から木の枝を折る、バキン バキンという音がしてしばらく音の方向を見ていると巨体のアフリカ象が遠くに見えました、象は木の枝を折ってから葉を食べるようです。
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P1020088 posted by (C)gotyan



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P1020090 posted by (C)gotyan



立派な牙のアフリカ象の群れでした、山の稜線から反対側の斜面を下って行ってしまいました。
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P1020095 posted by (C)gotyan



私の乗った車からもう一台の車を写しました、皆さんがみている先に何かいるのでしょうか。
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P1020131 posted by (C)gotyan



木々が茂るブッシュから草原に出ました、ついにお目当てのライオンの群れに巡り会えました。
ガイドのお話によるとこの群れは狩りに成功して餌にありついて満腹の様子です。
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P1020154 posted by (C)gotyan



距離は50mほど離れていましたが、ズームレンズの倍率を上げて撮影しました、満腹で目を閉じてウトウトしている様子です。
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P1020157 posted by (C)gotyan



雌ライオンも満腹で既に寝ている者もいます。
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P1020156 posted by (C)gotyan


百獣の王も眠気にはかなわない様子です、天敵がいないのでぐっすりと寝込んでいます。
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P1020159 posted by (C)gotyan



奥方さんもお休みの様子です・
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P1020160 posted by (C)gotyan


牧場の様な広い草原にシマウマの群れを見つけました、広い所なので敵が近付くのを早く発見できるので安心して草を食むことが出来るのでしょう。
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P1020183 posted by (C)gotyan



ブッシュの中にもシマウマがいました。
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P1020176 posted by (C)gotyan


ダチョウはオオーストラリアだけと思ったのですがアフリカにもいました。
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P1020181 posted by (C)gotyan


南アフリカの国花のキングプロティアの花が咲いていました。
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P1020178 posted by (C)gotyan



赤土の大地に赤い岩がせり上がっています、このような地形はどうして出来たのでしょう。
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IMGP0096 posted by (C)gotyan



夕方になって雨模様のお天気になってきました、岩山の上の方には雲が掛かっています。
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P1020080 posted by (C)gotyan


ロッジのレストランやカフェのある建て物です、宿泊する場所は、草原から谷間に続く斜面に高床式のバンガローに泊まります、夕食が住むと車でバンガローの近くまで送ってくれます。
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IMGP0086 posted by (C)gotyan



南アフリカの野生生物の代表的な五つの、象、豹、バッファロー、ライオン、犀を BIC FIVE(ビックファイヴ)とよんでいます、BIC FIVEの切手シートです、ヨハネスブルグの郵便局で記念に買いました、今回のサファリツーではバッファローと豹を見ることが出来ませんでした。

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img536 posted by (C)gotyan
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img537 posted by (C)gotyan

二泊二日のサファリツアーも明日でで終わります、明日はヨハネスブルグに戻って、空路ケープタウンに向かいます。
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IMGP0099 posted by (C)gotyan


南アフリカに残された野生生物を見るサファリツアーも終わりました、この後ケープタウンを観光して今回の南部アフリカ3カ国の旅も終わります、次の機会にはケープタウンの観光の様子を紹介します。

長い記事を最後までご覧頂いて有難うございます。

今回はコメント欄を閉じさせていただきます。)










尼御前岬(あまごぜんみさき)

2017年01月24日 | インポート
1月6日に北前船の郷の瀬越町を訪れました、帰りに橋立港を経由して帰りましたが途中の尼御前岬に寄り道しました。

県道148号線が北陸自動車道と交差するあたりに「尼御前SA(下り線)」が有ります、尼御前SA(下り線)に車を停めた場合は徒歩で尼御前岬を観光する事ができますが、私は橋立港より県道を走行してきたので県道より脇道を2~300m入った所の駐車場に車を停めました。

この時期なのでしょうか、訪れている人も少なく駐車場には3台ほどの車が止まっているだけでした、閑散とした松林の中の遊歩道を歩いていると海岸の松林を抜ける風の音と遠くから潮騒の音がきこえるだけでした。
時折アジア系と思われる話し声の人とすれ違いましたが、SAで観光バスを降りて散策している人達と思われます、足早にSAの方に戻って行きました。

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P1190105 posted by (C)gotyan



源義経が、兄頼朝に追われ北陸路を奥州に落ち伸びる際に同行していた尼御前がこれから先の旅路で足手まといになるのを憂えて身を投げたという伝説が残る岬。
現在は岬として突き出している部分は淡緑灰色~灰白色を呈する軽石凝灰岩の台地で、美しい松林と海岸草地に遊歩道が完備されています。
この岬から北に続く千崎、塩浜の海岸は高さ5~10mの海蝕崖が発達し雄大な関係を示しています。
一方、南側の橋立漁港に至る浜辺は海水浴場として賑わっています。
北陸自動車道の尼御前SA(下り)から歩いて行くことができますので、ドライフの際には是非散策してみて下さい。                               ほっと石川 旅ネットより

静かな松林の一角に尼御前の旅姿の銅像が潮風に吹かれて寂しそうに立っていました、
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P1190102 posted by (C)gotyan



冬の日本海に押し寄せる荒波は岩壁にあたって砕け、白い波となって岬の岩を洗っていました。
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P1190117 posted by (C)gotyan




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P1190113 posted by (C)gotyan



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P1190114 posted by (C)gotyan


北側を望めば千崎、塩浜の海岸が続いています、海岸のテトラポットに冬の日本海の荒波が白く砕け、遠くに富山県へと続く雪を被った山並みが見えます。
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P1190118 posted by (C)gotyan



遠く海岸線が延びて霞んで見える先には安宅の関が有ります、この岬を通って奥州に落ちのびる義経一行が通行する為に大変難儀をした安宅の関はこの先です。
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P1190107 posted by (C)gotyan


南側の橋立港の方角は遠浅の海岸が続いていて夏は海水浴場として賑あうビーチになっています。
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P1190115 posted by (C)gotyan










北陸自動車道は現役の頃より良く利用していましたが、尼御前岬には来た事が有りませんでした、北前船の郷を訪れた帰りに寄ってみましたが、この岬だけの観光に来る機会がない所です、今回は良い機会に見る事が出来てよかったと思っています、皆様も北陸自動車道を福井から金沢方面に通行される機会がありましたら、尼御前SA(下り線、福井→金沢方面行き)に寄って岬を散策されたらいかがでしょうか。

ご訪問ありがとうございます。








北前船の郷ー瀬越(せごえ)-Part2

2017年01月22日 | インポート
Part1では当時の繁栄を伝える大家家の様子を記事に書きましたが、Part2では瀬越町の様子や、船主が残した竹の浦館などを紹介します。

加賀市大聖寺瀬越町は、人口は168名、世帯数64戸、(平成27年7月1日現在)、小さな集落ですが藩政期から明治時代にかけて、北前船の船主を多数輩出しました、船主以外にも北前船に携わる人が大勢済んでいてまさに北前船の郷として同じ加賀市の橋立港と並んで日本一の富豪村として知られています。
瀬越町には橋立の船主より大きな財力を持ち、海の百万長者と呼ばれた広海家と大家家の二大船主も住んでいました。

広海家は最盛期の明治三十二年には帆船四隻、汽船三隻を持ち、五世のニ三郎は明治三十七年には貴族院の多額納税議員に選ばれています。

大家家は明治十三年には九隻の船を持ち、藩に対して嘉永四年(1851)に御用金530両、慶応三年(1867)にも4200両を献上し十村役格になっています、明治四年に四代目大家七平氏が北海道小樽市に建てた大家倉庫(木骨石造り)は小樽市指定歴史的建造物第一号として現在でも大切に保存されています、その他にも福島県の硫黄鉱山や栃木県の金銀銅山を経営していました、北前船の郷として栄えた瀬越町に船主の屋敷として残っているのはこの大家家の屋敷のみになりました。

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瀬越町に入るとまず目に入るのは大きな木造建築の 「竹の浦館」 です。
竹の浦館は旧瀬越小学校の建て物を利用しています、旧瀬越小学校は昭和5年に広海家、大家家の船主が資金のほとんどを寄贈して建てられました、その他子供たちの修学旅行の代金を負担したり、地域の為に私財を積極的に出費したそうです。
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その後小学校は生徒数が減少したため廃校になりました、しばらくは「青年の家」として活用していましたところ、老朽化の為に取り壊される運命にありましたが、地元の人々の末ながく建て物を保存したいとする強い熱意により、地域活性化と地域の文化交流の要として、平成14年からNPO法人「竹の浦夢創造塾」が運営しています。

竹の浦館という名前は、この地域は「竹の浦」とよばれ、平安時代から風光明美な所でした、多くの文人や歌人が訪れて和歌や俳句を読んでいます、実際に小学校敷地内には西行法師の句碑が有ります。

木造二階建ての大きな建物の外観は当時のままのようです、正門も昔懐かしい戦前の小学校がそのままタイムスリップしたような佇まいです。
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正門とは別に校舎の横に入口が有ります、入口を入ると売店と食堂が有ります。
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売店には地域の特産品や地元の人は作った工芸品などが販売されていました、売店の反対側は食堂が有りました。
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             竹の浦館HPより



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             竹の浦館HPより




校舎の端から一直線に廊下が延びています。廊下の端には玄米?の袋が置かれていて、ローカル色が出ています、こんな雰囲気が私は好きです。
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研修室です、棚には色々な書物が収蔵されていて静かな環境の中で読書や勉強ができるようです。
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二階へあがる階段ですが、当時としてはモダンな手すりですが、どれも木製で触れる手になじんで温かみが有ります。
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二階も校舎の端から端に廊下が延びています、すべて木造の無垢材を使った室内は長い年月を経ても不変の温かみが有ります。
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校舎も壁には沢山の絵馬が飾られていました、絵馬は船主が自分の船の航海の安全を祈願して製作して神社に奉納した物です、二点紹介しますが、いずれも明治時代に奉納されて絵馬です。
絵馬に描かれている船は弁財船(ペザイ船)で、通称千石船とよばれていた和船で、モミ米1000石(約15t)ぐらいを積んだようですが、明治時代には2000石も積めるような船もあったようです。
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竹の浦館の裏側から見たところです、木造建築の大きさが分かります、昭和5年(1930)に建てられた木造建築が86年を経ての立派に現存しています、えりすぐりの木材を使って建てられたのでしょう。
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瀬越町の裏通りを歩いてみました、住まいの母屋に隣接した蔵が有る屋敷が多かったです、北前船の盛んな頃は繁栄した村だったと思います。
しかし現在では経年の為に蔵の板壁が傷んだままのお宅もありました。
瀬越村の集落に住んでいたほとんどの人達は、北前船に携わる人たちが多かったようです、大船主の広海家の番頭を務めていた人の明治三十一年の所得は温泉旅館の四倍にも及んだそうです。

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集落を歩いていて気がついたのですが、所々に空き地が有って屋敷や蔵の土台に使われていた笏谷石(しゃくだにいし)が空き地の隅に積まれて放置されていました、北前船で繁栄した頃は立派なお屋敷や蔵がならんでいたことでしょう。
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集落のはずれに白山神社が有りました、御影石造りの鳥居など立派な神社ですがこの神社にも広海、大家の富豪船主が私財を注いだといわれています。
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山手に墓地が有ります、一般の墓地とは別に石造りの塀に囲まれた墓所が二区画有りました、北前船主の広海家と大家家の墓地でした、これは広海家の墓地の区画です。
石の塀で囲まれた墓地の中に入れないように鉄の扉で仕切られています、中には石灯篭や一族の墓石が沢山立っていました。
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大家家の墓地の入り口も鎖でふさがれていました、正面の大きな墓石の両側の石柱の文字は大家○と読めました。
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大家家の墓所の前にユリが一株のびていました、一本の茎に先には白い花が2輪咲いていました、綺麗なユリの花でしたんので写してきましたが、後から考えたら今は一月でこのような時期にユリの花が咲いているのは珍しいことです。
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北前船の交易によって巨万の富を築いた船主を多数輩出した日本一の富豪村と言われた瀬越村の郷も、北前船の時代も終わって静かな郷になっていました、一時代活況を極めていたとは想像もできない静かな集落でした。


ご訪問ありがとうございます。




北前船主の郷ー瀬越(せごえ)-Part1

2017年01月12日 | インポート
北前船とは江戸時代後半から明治時代にかけて海運での商売の形態のことで、大阪から瀬戸内海、日本海の各港を結んで蝦夷地(北海道)までを往復する商船のことです。
北前船の商売の特徴は他人の荷物を運んで運賃を取る単なる海運業ではなく、船主が各地で物を売り買いしながら航海する独特な形態にあります。

一度出港すると各港を転々と巡って商いをして、半年以上か一年も母港に戻らない事はざらにあったようです。
うまく行けば大儲けできますが失敗すれば大損、その上に「板子一枚下は地獄」といった状態でまさに命がけの状況の中で商才にたけた船主は巨万の富を得ていました。

日本海に面した北陸には名だたる北前船主を多数輩出した北前船主の郷があります、有名なところでは加賀市の橋立港がありますが、今日訪ねた瀬越も橋立港よりもさらに大きな財力を持っていた北前船主の郷です、大聖寺川の河口・塩谷港の上流側に位置しています、町村合併で現在では加賀市大聖寺に属しています、以前は瀬越村という小さな村でした、この小さな村に橋立港よりも大きな財力を持つ広海(ひろうみ)、大家(おおいえの二大船主のほかに角谷、板谷、高見、四方などの多くの船主を輩出して橋立と共に日本一の富豪村として知られています
瀬越には船主以外にも事務係の「知工」・航路の案内係「表」・水夫「かこ」・炊事係「かしき」などの北前船に携わる大勢の人が暮らしていました。
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昔は北前船主の立派な屋敷が沢山あったのでしょうが、残念ながら現在この集落で現存しているのは大家七平家だけになりました、大聖寺川に面した立派な門構えで周囲を塀を巡らせた広大な屋敷は往時の繁栄が偲ばれます。
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旗本屋敷を思わせる紋どころ入りの瓦や彫刻などの豪華な門構えでした。
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屋敷の通用門から船着きばに降りられる様になっていました、小舟で塩谷港まで行き来したのでしょうか。
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板塀は和釘(替折釘)、和釘は一本一本鍛造された釘です、焼いて鍛造するので表門にスケールがついて錆びにくいといわれています、現在では文化財等の修復に使われるようです。
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三棟の蔵がならんでいます、大家家の母屋は日本建築の立派な建物で文化財指定の声があった矢先の昭和50年代に火災の為に焼失しました、九棟あった蔵もこの三棟と門の横の一棟の四棟を残すのみとなりました。
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蔵の土台は石造りになっていています、寸分の隙間なく綺麗に積まれていました、換気口でしょうか?、紋どころが彫り込まれています。
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屋敷の裏手と門から見て右手の塀は石造りになっていました。
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大家家の屋敷より上流の大聖寺川に架かる橋の上から見た光景です。
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大家家の通用門(松の木のあたり)から階段で大聖寺川降りて小舟で乗り出せるようになっています。
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橋の手すりにも北前船の装飾が施されていました。
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大聖寺川の大家家の上流側に立派な橋が架かっています、橋のたもとに何やら石碑が立っていました、枯れた雑草に隠れて気をつけて見ないと見落としそうな石碑でした、石碑には「吉崎御坊参詣人遭難之碑」と彫られていました。
現場では分からなかったので、帰ってから調べたらどのような事件が有ったかわかりました。
この橋を渡った先に吉崎御坊が有ります、吉崎御坊は本願寺第八世蓮如上人が北陸に浄土真宗を広めるために布教の拠点として吉崎に築いた御坊です、御坊では毎年四月に蓮如上人御忌法要が行われるのに合わせて善男善女が多数参詣します。
その日は昭和22年4月22日でした、蓮如上人御忌法要の期間は大聖寺からの乗り合いバスや船便は満員で船の乗り場にも大勢の参詣者が集まっていました、この時の船は定員が50名の所、三倍近い150名ほどが乗船しました、瀬越村の近くで船が傾いたので右岸に避難しょうと右に旋回したところ、急傾斜転覆しました、この事故で19名の善男善女は帰らぬ人になるという痛ましい事故が有りました、犠牲者の中には6歳や8歳の子供もいたそうです。
事故から50年目の平成9年に慰霊碑が建てらたそうです。
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北前船の郷を訪れたのですが、思いもよらぬ悲劇の歴史に巡り合いました、初めて訪れる先では想像もしていないことを知ることが有ります。
北前船の夢の時代と参詣人遭難の悲劇が無かったかのように、大聖寺川の深い藍色の水面は日本海に向けてゆっくりと流れています。
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Part1は北前船の郷、瀬越の大家家の屋敷を中心に書きました、Part2は竹の浦館と瀬越の風景を記事にします。

ご訪問ありがとうございます。












追憶の旅行記ービクトリアフォールズ偏

2017年01月05日 | インポート
以前に旅行記としてデジブックでまとめて記事にした事があります、デジブックのプレミアム会員になっていないので一定期間(30日)が過ぎたために消えてしまいました、記録を残すために今回再度記事にしました。

旅行日は2008年2月ですのでやがて9年前になります、旅行した国は南アフリカ、ジンバブエ、ザンビアの3ヶ国です、一回で紹介しきれませんので今回はジンバブエ・ビクトリアフォールズ編を公開します。

ビクトリアフォールズへは関西空港からシンガポール、南アフリカのヨハネスブルグ経由で搭乗時間合計でおおよそ19時間、2回の乗り換え時間を含めると約27時間余りかかりました。

ジンバブエの滞在先のビクトリアフォールズ・サファリロッジに着きました、民族的な佇まいのゲートを入ると民族衣装の守衛の方が案内してくれました。
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守衛の方と記念撮影をしました。
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日本の合掌作りを思わせる茅葺風のロッジでした。
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ロッジの正面入り口です、いかにもアフリカ的なデザインと色彩でローカル色を出しています。
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テラスの先にはアフリカの大地が広がっています、大きな木が無くてサバンナの様な草原です、地平線までアフリカの大地が広がっています。
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部屋のテラスから見える平原の池には水を求めて象などの野生動物が見られるそうです。
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ビクトリアの滝の見物も終わり無事にロッジに帰りました、二泊三日のジンバブエ、ザンビアの旅も終わって明日は南アフリカのリンポポ州へ行きます、リンポポ州のエンタベニで野生動物の監察をします。
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アフリカ南部の旅のビクトリアフォールズの記事を終えます、いつになるか分かりませんが今後折を見てエンタベニ動物保護区でのサファリツアーの様子やケープタウンの喜望峰への旅を紹介したいと思っています。


ご訪問ありがとうございます、コメント欄は閉じさせていただきます。