go の let's goシニア

リタイヤ・・何でもヤリタイヤ
登山、渓流釣りを卒業して四季の花を愛でています

金澤神社ーウエルカム・国立工芸館

2020年03月27日 | インポート
年が明けた一月に孫の高校受験の祈願に金澤神社に行って絵馬を書いてお願いしてきました、
金澤神社は兼六園の隣にありまして、学問の神様の菅原道真公を祀った神社です。
孫が高校に無事に合格したのでお礼のお参りに行きました、お礼参りということで絵馬は
書きませんでしたが神前でお礼の祈りをしました。




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P1250791 posted by (C)gotyan

兼六園の横にある金澤神社のそばに「金城霊澤(きんじょうれいたく)」という泉があります。その昔、芋掘藤五郎という男がこの湧き水で
イモを洗ったところ、たくさんの砂金が出てきたという伝説が残っています。そこから「金洗いの沢」と呼ばれるようになり、「金沢」という地名の
由来になったと伝えられています。

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P1250794 posted by (C)gotyan



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P1250796 posted by (C)gotyan


三月二十六日は北陸のこの時期には珍しい晴天の日でした、兼六園は私たちシニアの入場料は無料です、
久しぶりに園内を散策して来ました、梅が終わって桜には早かったけれど枝ぶりの良い松は雪つりも外されて
冬の景色から春の装いをしていました。
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P1250798 posted by (C)gotyan



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P1250801 posted by (C)gotyan

兼六園の近くにこの夏にオープンする国立の工芸館の建設工事が進み完成まじかになっているので
すこし足を延ばしてその外観を観てきました。
二棟の建物は中心の渡り廊下で結ばれています、左側の建物は旧第九師団司令本部、右側の建物は
旧陸軍偕行社の建物です、いずれも1898(明治31)年に建てられた建物で以前は向かいの能楽堂の
横にありましたが今回移築しました。
ブロ友の yasuhikoさんの『街が好き』のブログのなか 「さらば、国立近代美術館工芸館」 で最後の所蔵品の
展示会の様子が詳しく書かれています、工芸館は東京の旧近衛師団司令部の庁舎の赤レンガ造りのモダンな建物を
利用していましたが、今年金澤に移転することになりました。
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P1250814 (2) posted by (C)gotyan

まだ建設途中なので柵で囲まれて立ち入り禁止になっているので近くで撮影ができません、
この夏に開館したらもっと詳しい記事を書くことができると思います。
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P1250816 (2) posted by (C)gotyan


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P1250818 posted by (C)gotyan

国立工芸館の右隣は石川県立美術館で左隣はこの写真の石川県立歴史博物館です、歴史博物館の
赤レンガ造りの三棟はかつては陸軍兵器庫でした、戦後は金澤美術工芸大学になっていました。
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10CIMG1006 posted by (C)gotyan

兼六園の近くに美術館、工芸館、歴史博物館がそろう今年の夏が楽しみです。
歴史博物館は昨年の11月に一部の所蔵品が無料で見学できる日がありました、
その時に行ってきましたので折を見てブログにアップしたいと思います。
最後まで読んで頂きましてありがとうございます。







古いお話

2020年03月10日 | インポート
1945(昭和20)年の今日3月10日は東京大空襲のあった日です、木造住居に焼夷弾が雨あられのように落され、一面焼野原になった日です。
犠牲者や負傷者も多数出たようです、毎年この日に合わせて追悼慰霊祭を行っていますが、今年は新型コロナウイルスの蔓延により東京都が行う
追悼慰霊祭の式典はは中止になるようですが、改めて犠牲所のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

私は戦前に生まれて物心ついたころに終戦になりました、生まれたところが信州ですので1945年3月の時点では自分の住んでいるところに空襲は
来ませんでした、戦局が悪化して8月ごろになると地方の都市にも空襲がされるようになりました。
私の住んでいた信州の上田の千曲川河川敷にあった軍の飛行場も8月13日に空襲されたり、養蚕の研究施設「小県蚕業学校」が空襲で
焼かれたりで地方にも空襲の手が伸びてきていました。
そんな戦争の様子を孫に伝えるために覚えのあることを略図にして説明しました。
覚えていることは終戦の一日前のことです、信州の私が住んでいた町は近くに山があり山すそには神社がいくつかありました、空襲はいつ来るか
わからないので山手に疎開しました、8月14日の晩は山で野宿をしました、夏のことでやぶ蚊がいるので蚊帳をつって寝ました、


蚊帳の中に根子と言って稲や麦を脱穀するときに使うムシロを厚くして大きくしたものを敷きそのうえで食事をしてしたりごろ寝をしました。
子供心にはキャンプをしているようで面白かったですが、大人の父や母はどうだったのでしょうか。

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P1250785 (2) posted by (C)

その晩は雨が降りませんでしたが、雨が降ったら蚊帳を吊っただけではしのげませんので、大人たちが相談して自宅の庭にあった
自転車小屋を移築することになりました。
8月15日の午前中に小屋を分解して何人かの大人の人が坂道を一生懸命に運んできたことを覚えています。
屋根の部分を運び終えてみんなが神社の階段横の石垣に腰かけて休んでいるとき、この日8月15日は正午から天皇陛下のお言葉が放送
されることになっていましたので大人の一人が放送を聞きに麓の集落に行っていた人が登ってきました、皆さんは天皇陛下のお言葉は
「最後の一兵までがんばれ」との内容と予想をしていましたが、登ってきた人が聞いてきた内容に愕然としていました、あの時の大人たちの
ことは今も忘れません、どこを見ているか焦点の定まらない視線が今もはっきり覚えています。


この時の天皇の玉音放送は、要約すると堪え難きを堪え、忍び難きをしのび、ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏をする、
これで戦争は終わったのです、その晩は家に帰り灯火管制することもなく明かりの下で家族が団らんしましたが、大人たちはこの後の
日本がどう変わっていくか心配の様子でした。
(灯火管制=照明の傘に布などをかけて家の外に光が漏れないようにする)

この日の父はアルバムを出して戦争で大陸に行った時の写真をことごとく手あぶり火鉢で燃やしました。
ある意味日本も大陸で一般市民の平和を生活を脅かしていたのではないか?、国策という名の下で平和な市民を不幸におとしいれて
いたのでしょうか?。
現在、中東で戦争(紛争)で逃げ惑う避難民を見ると戦争のために犠牲になる市民の姿がいたわしい、いつの時代も犠牲に
なるのは罪のない人たちです。
戦争のない世界が訪れることを望みます、私の経験から世界で民族同士が争うような戦争が起こらないことを望みます。
戦後に生まれた人には山で野宿をした戦争経験はわかりません、私の兄弟でその時家族だった兄弟、姉妹はなくなっていますので
この経験を子供や孫に伝えるのは私だけになったので下手な略図を書いて説明しました。
今では信じがたい私の経験をブログにしてみました、つたないブログを最後まで読んでいただいてありがとうございます。



黒四発電所

2020年03月05日 | インポート
3月1日は富山県の渓流釣りの解禁日です、富山の釣り友達の情報で毎年黒部川に釣りに行っています。

今年はいつもの年と比べて放流が少なく、何人か竿を並べて釣っていますがどなたも釣れる様子がありませんでした、

解禁の様子をブログでアップしようと思っていましたがそんな事で記事になりませんでした、

そこで以前に関西電力公募の見学会で行った黒四発電所の様子を記事にしてみました。


宇奈月温泉より黒部峡谷鉄道のトロッコ電車に乗って終点の欅平(けやきだいら)につきます、一般の乗客はここで下車しますが

関西電力さんの公募で工事用に作った黒部ルートの見学をさせていただきました、一般のトロッコ電車の終点の奥に竪坑があります、

この竪坑をエレベーターに乗って海抜600mから800mまで200m上がります。




200m上がったところが上部軌道の出発点です、この上部軌道は岩盤をくり抜いて作られた工事用の軌道です。



上部軌道の阿曽原(あそはら)~仙人ダムの間は吉村昭の長編ノンフイクション小説の「高熱隧道」で紹介されて有名になった高熱のトンネルを
通ります、エンジン気動車では燃料が発火する危険があるので途中からバッテリー電気機関車がアルミナ製の耐熱車両を牽引します。
この高熱隧道は建設当時、最高温度が166℃に達してダイナマイトが自然発火して犠牲者が出たということです。



耐熱車両(アルミナ製)は高熱隧道を通過する際に窓が曇るので車内から手動でワイッパーを動かすハンドルがついていました、車内より写した
高熱隧道の側面の壁ですがいたるところに高熱の蒸気が噴射しています、この場所にトンネルを掘った先人の努力に関心します。
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P1130172 posted by (C)gotyan

黒四発電所に到着しましした、この場所は以前のNHKの紅白歌合戦の時に歌手の中島みゆきさんが「プロジェクトXー挑戦者たち」の
主題歌の「地上の星」を生バンドで歌った場所です。





発電所に入って入り口の航空写真でこの場所の解説を聞きましたが黒部の山中の岩盤の奥深くにあることがわかりました。


黒部の山のジオラマを取り囲む円形のテーブルに座って黒四発電所の説明を聞きました。


黒四発電所の心臓部の発電機が並んでいるフロアです、手前が4号機で奥から1号機~4号機の順で並んでいます、
発電機の上のランプは稼働して発電している表示灯です、現在3号機は休止しています、全出力は33万5000kWです。
発電機の縦軸の下には水車があって黒部ダムより地下導水管で引いてきた(落差545m)の水力でベルトン水車を回しています。


発電機の下の軸と水車が結合する軸です、実際は360rpmで回っているのですが静止しているように見えます。


予備のベルトン水車です、直径が3.3m、重量は12トン、バケット数が22個の大きな水車です、この水車が360rpm(1秒間に6回転)で回転します。





水車に6つのノズルより落差545mの水を勢いよく吹き付けて水車を回します。


中央制御室です、無人ですが現在は遠隔で富山市内よりの指令で運転しています。




黒四発電所は地下200mの岩盤の中にあります、発電した電力を外に引き出して高圧鉄塔で関西地区に引いてゆくのですが
地下の発電所から外に出る場所です、以前に下の廊下を歩いていたころにS字狭の対岸に見えたので写真に収めて来ました。

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img047 (2) posted by (C)gotyan
黒四発電所を見学してからインクラインに乗ってさらに上に行きました、黒四発電所の海抜は869mです、ここから
インクラインに乗って海抜1325mmまで移動します、2台の台車が直径56mmのワイヤーで結ばれています、
勾配が34度の軌道上を2台の車両がツルベのように上下します、軌道は単線ですが勾配長の815mの真ん中で上昇台車と
下降台車がすれ違う場所だけが複線になっています。
インクラインを上がったところから黒四ダムまではバスで10km、約40分で着きました。
欅平を10時ころに出発して途中で黒四発電所を見学して黒部ダムに12時50分につきました、私は下の廊下を4回歩いていますが
早朝の5時に黒部ダムを出発して途中の阿曽原小屋に一泊して欅平に翌日の12時ころにつきました、所要時間は15時間ぐらい
かかりました、それに比較して今回の見学ルートは早かったと思いました。


最後まで読んでいただいてありがとうございます。