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■国際公募AIRプログラム s(k)now [snow + know] 滞在成果報告トーク─アーティストとアーティスト「北海道・台湾・上海での公共彫刻リサーチ」黒田大祐(2019年2月14日、札幌)

2019年02月19日 23時39分19秒 | 展覧会の紹介-現代美術
(訂正あります)

 正式名称は

2018年度国際公募AIRプログラム s(k)now [snow + know] 滞在成果報告トーク─アーティストとアーティスト「北海道・台湾・上海での公共彫刻リサーチ」黒田大祐(アーティスト、広島) 

です。
 2月14日の夜、黒田大祐さんによる滞在成果報告のトークが、本郷新記念札幌彫刻美術館の寺嶋弘道館長をゲストに行われ、さらに1日限りの黒田さんの簡易的な個展(というと変な表現かもしれませんが、テーブルを横倒しにして映像を投影するなど、ブリコラージュ的な発表形式で、おもしろかった)も開かれ、たいへんに興味深い話が展開されていました。ときどき発言していたアーティストの磯崎道佳さん以外は、あまり関係者の出席がなかったのが、ほんとうに惜しまれます。

 黒田大祐さんが取り組んでいるプロジェクトは「不在の彫刻史2 ”The Absent History of Sculpture”」といい、この日スライドやビデオを用いて、彼が東アジアで進めているリサーチについて、わかりやすい説明がありました。
 1930年代の東京美術学校(現東京藝大)彫刻科の建畠大夢教室には、東アジアから留学生が集っていました。卒業生たちは台湾や中国、朝鮮半島などに戻り、それぞれの母国で彫刻を作っています。
 たとえば、金景承は韓国の仁川にあるマッカーサー像をつくり、文錫五は巨大な金日成像を制作しました。
 北朝鮮は、現在のような貿易制裁が始まる前はアフリカなどに銅像制作のノウハウを輸出して外貨を稼いでいたこともあったそうです。
 また、戸張幸男という人は戦中に仁川で伊藤博文像をつくっています。

 作風は似通っているのに、手がけたモデルの権力者がぜんぜん違うのは、当たり前といえば当たり前なんですが、彫刻家ってそのあたりは芸術家としての葛藤とか、無いのかな~、という素朴な疑問がわいてきます。

 リサーチの写真などでおもしろかったのは、台湾にある、蒋介石の銅像ばかりを集めた公園。
 国民党独裁時代には蒋の銅像は全国の学校にあったそうですが、その後、それは望ましくないということになり、不要になった銅像を捨てるにも忍びなく、1カ所に集めているようです。
 同じ人の胸像や立像がやたらと並んでいる図は、ちょっと迫力であり、笑いももれてきます。
 なるほど、劇的な革命ならばレーニン像のように倒されるのでしょうが、台湾の変化はそれに比べるとソフトですね。
 日本のご真影は戦後どうなったんだろうと思いました。

 あと、釜山の街中には、建畠大夢の弟子で、日本でいえば「すいどーばた美術学院」に該当するような予備校の先生をしている彫刻家の大作があるそうですが、筆者の見たところ、とくに飛ぶ鳥の描写などにおなじ弟子(しかも黒田さんにとっては師匠筋にあたる)の淀井敏夫を彷彿とさせます。

 黒田さんは東京藝大で彫刻を学んだそうですが、やはり「マッスがどう、ボリュームがどうと教えられてきたけど、それでいいのか」という問題意識が根底にあるようにお見受けしました。

(※訂正。黒田さんは広島市立大の卒業です。たいへん失礼しました)


 その、時代と彫刻の関係をあらためて考え直す姿勢は、たとえば小田原のどかさんなどとも共通するものがあるのではないでしょうか(と思ったら、17日まで東京で開いていた個展のトークのゲストに彼女を招いているのだった。さすが)。

(余談。団体公募展系の油絵画家たちは表面の細かいつくりにこだわったような絵について「工芸的だね」「デザイン的だね」と悪口を言うので、若いころの筆者はずいぶんびっくりしたけれど、彫刻業界では、表面にこだわった作品を「絵画的だ」と悪口を言うらしい。絵画的が悪口なんだ。へ~)



 後半の話で盛り上がったのは、本郷新がどうやって各地に野外彫刻を実現させていったのかという話題。
 筆者は、釧路の幣舞橋にある本郷ら4人の有名な彫刻は、てっきり税金で建ったものだとばかり思っていましたが、なんと市民が寄付を集めて実現したものなんですね。
 それは釧路だけではなくて、どうやら石狩の「無辜の民」や函館の「石川啄木像」もそうらしい。

 寺嶋さんによると、函館の文学館には、啄木像を建てたときのいきさつを詳しく書いた説明板があり、いかに熱っぽい口調で彫刻を建てるべきだと説いたか―がわかるとのこと。
 生前の本郷を知る人に聞くと
「語り口が魅力的だった」
と回想する人が多いんだそうです。
 また「無辜の民」設立当時、市民有志と本郷のあいだを奔走していた若手職員が、いまの石狩市長なのだそうです。

 かつて東京藝大で建畠大夢の息子の建畠覚造に学んだ磯崎さんによると、それは
「新制作のビジネスモデル」
ということらしい。
 戦前までは、文展―帝展―日展の彫刻家たちは軍人ら権力者たちの銅像を作っていましたが、戦後になってその仕事が減り、彼らが作る裸婦は展覧会に出してそれでおしまい―という事態が続いています。それに代わり、新制作展の彫刻家たちは、市民から浄財を募る形式を編み出して全国で展開していった、というのです。
(さらに、磯崎さんによれば、とくに釧路には全国的にも有名なコレクターがおり、東京の画商が北海道に出張するときは、札幌を素通りして釧路に直行したとのこと。まあ、おそらく北洋漁業や石炭の景気の良かった時代だと推察されますが)

 いうまでもなく、その新制作展のビジネスモデルも今となっては通用しなくなっているわけですが…。

(というか、新制作協会の人からすると「ビジネスモデル」という言い方はあまりおもしろくないでしょうね)
 

 非常に雑駁なまとめになってしまいました。
 もちろんこの文責は筆者にあります。
 とにかく、これほど刺戟的なトークはめったにないと思いました。


https://sites.google.com/view/daisuke-kuroda/home

この話に関連する記事へのリンク
淀井敏夫「飛翔」 釧路の野外彫刻(35)
本郷新「無辜の民」―石狩・厚田アートの旅(2)
本郷新「道東の四季 冬」 釧路の野外彫刻(6)
建畠覚造さん死去
2018年に読んだ本(1) 『彫刻 SCULPTURE 1 彫刻とは何か』(小田原のどか編著、トポフィル)


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