本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

村役場の宿直春秋抄(14)

2008-03-26 10:40:39 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(14)

英彦山の登山立ち消え
 六月四日と五日、唐突にある人物が登場していくつかの項を立てた。表題はすべて「所感」である。筆名は真月生、酔月生、砕月生とあるが、いずれも同一人物のようだ。
 ある項では「豊栄考は有益であり、真弓君は卓見に富む」と持ち上げている。また、別の項では「英彦山に入りて修養を究めんと考案中…真弓は僕がひっかついで行くことにしよう」という誘いがある。次のような意見も語る。「今の世の中、お役人が第一番に百姓好きにならなくてはならぬ。単に害虫駆除をせよ、注油せよといってばかりじゃいかん。役人が第一着手に尻をからげ、鍬を担がねば農事これ改良できん」
 この人物、以後に筆を執っていない。明らかに宿直者とは違う。その言い回しから役職上位にある者と思える。もっと言えば村長かもしれない。

 六月十日の項に移る。「六月の月に入り、始めて宿直をなせり」と書き出す。その間、なぜ宿直しなかったか触れずじまいだ。さらに加えると、筆を執ったのは約ひと月振りになる。
 続けて「これを繙(ひもと)けば酔月生の友を得たり。その誰なるかは知らぬといえどもその友を得たる欣喜に堪えざるなり」と述べている。「その誰なるかは知らぬ」とは白々しい。文の論調から察しがついているだろう。
 また独立した項を起こし「余の放題を目して卓見と称せり。赧顔(たんがん)するところなり。請う益々督励鞭撻して以って指導せられんことを」と短くまとめている。酔月が真弓を持ち上げた前述の文を読んで気を良くしたに違いない。
 さらに別項で、酔月から英彦山の登山を勧められたくだりに触れている。登山はよんどころない事情で行けないと述べ、さらに「秋季の末か冬季降雪の際に延期しては如何。その偉観なること夏季の登山に優るところあらん。記して以って答辞とす」と抜かりなく追記している。

 冬山に登るところをみれば、真弓は存外山好きかもしれない。高い山ではないが、大鶴村には畦倉山というシンボリックな山がある。朝霧が地を這うように流れ、やがて稜線にせり上がる。時にはふた瘤の頂から霧の衣をすっぽりと包み下ろす。当直の翌朝にはその情景に接することが多いはずだが、見飽きているのか一切筆にしない。

村役場の宿直春秋抄(13)

2008-03-25 12:50:05 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(13)

修学旅行記を読む
 四月十三日の項「大山高等小学校の修学旅行記を読みて」に、児童の旅行感想には次の三つが共通するとして「一、夜明道路の粗悪なること。二、大鶴宿泊の時、非常に親切な歓待に預かったこと。三、電気会社、陶器製造、日田高等小学において知識を博めたること」と記している
 夜明道路とは、夜明村から大鶴村を通り、福岡県の飯塚に向かう道路(現在の国道二一一号線)を指すのだろう。これが大鶴村の幹線道路なのだが、粗悪であると児童の不評を買った。真弓も児童の感想を気にしたか「道路事情を十分に認識するべし」と書き添えている。郷土資料には、この道路が馬車道として竣成したのは明治四十二年頃とある。後述するが、この馬車道の開通には真弓の強い意思が働いたと思われる。

 児童は大鶴村のどこに泊まったか、とんと調べようがない。校舎に寝泊りしたか。そうではなく親切な歓待を受けたとあることから民家に分散して宿泊したのかもしれない。
 電気会社の関心も大きい。明治三十二年に日田水電会社が設立している。設立当初からこの社名であれば、日田町となる以前に日田の名を先取りしていたことになる。実際に灯りがついたのは日田町誕生と同じ二年後になる。児童は電力供給源の石井発電所を見学したのだろう。
 
 陶器製造は皿山の小鹿田焼きの窯元を訪ねたことに疑いない。皿山は南北に長い大鶴村の北の隅にある。資料によると皿山から村の中心に近い静修小学校まで二里(約八キロ)とある。実際に車で走ってみた。二里半の道のりになる。山あいのくねくねとした細い道で、今でさえ、車がやっと一台通れる幅だ。ともかく、この道を通って小鹿田焼きを見学するため、大鶴村に泊まったのではないか。
 それにしても、日田町より南に十キロの大山村を出発して、日田町のあちこちの見学と大鶴村の北はずれの焼き物見学まで、徒歩の修学旅行を思えば、当時の児童の健脚に舌を巻く。

 結びに捨てがたい記述がある。「日田高等小学にてはベースボールについて新知識を得たるの記事あり」
 子供たちが野球のまねごとを始めたのは明治の終わり頃といわれている。この時期の日田高等小学校の野球は特筆に価する。ついでに筆がすべると、正岡子規と野球はつとに有名だが、海軍に野球を広めたのは、この五月の日本海海戦でバルチック艦隊に勝利した聯合艦隊の参謀秋山真之という。真之は子規の親友である。うべなるかな。


2008-03-24 13:01:09 | Weblog
「村役場の宿直春秋抄」を筆休みして、埒もない雑記

 タマネギの苗がぐんぐんと成長している。つい十日ほど前にホーレン草の種を蒔いたが早くも芽が出ている。
ジャガイモは男爵、キタアカリ、アンデスレッドの3種類の種イモも植えた。この苗が土から顔を出すのは、まだまだ先だろう。

 散歩の途中、菜の花を摘み、土筆を採った。川の土手や畦の至るところに群生している。この辺りでは菜の花は買うものではない、と言うのだから推して知るべしだろう。今年、フキノトウは思いのほか少ない。
 菜の花はおひたし、油炒め、パスタの具に使う。土筆はハカマを取るのが手間だが、佃煮や天ぷらにする。
 春たけなわである。

村役場の宿直春秋抄(12)

2008-03-23 11:26:35 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(12)

漢詩を賦する
 三月二十二日の筆録は「奉天付近の戦勝を祝して」とあり、七言絶句の二編を賦している。この月の十日、ロシア軍は奉天から総退却し、大山元帥は戦闘終結を宣言した。世にいう奉天会戦である。漢詩は奉天と目睫の間にある沙河の攻防戦を題材としている。
「征露戦役第二年 対沙河約百萬兵
 一朝激戦殲露兵 戦勝効果絶古今」

「日兵矮小又矮小 露助長大又長大
 柔制剛小能制大 日勝露敗理當然」

 さすがに真弓自身、稚拙な漢詩と思ったか「宿直の諸氏これを読みて噴飯したまえ、かつ大笑したまえ」と記している。
 なお、本稿で採り上げない筆録の中に「野口寧斉」の名が出ている。野口寧斉は諫早出身の漢詩人で、漢詩中興の祖といわれている。乃木将軍の「金州城下の作」を添削した人でも知られている。漢詩の巧拙はともかく真弓は漢詩を作ることが好きだったとみえる。
 
 ついでに、前年八月十七日に作った歌もここに転記する。「お月様 御前は知るや 知らざるや やがて屍(しかばね)を てらすべしとは」
 日露の戦場を思い起こしての一首だろう。短歌というより俗歌や狂歌のつもりか。これも上手とはいえない。ただ「役場楼上において月を見る」という序詞がある。役場に望楼があったわけだ。


村役場の宿直春秋抄(11)

2008-03-22 16:02:40 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(11)

新聞の購読
 三月二十日に新聞を購読する筆録がある。「両三日前、相議して新聞の共同購読を約せり。購読すべき種類は、福岡日々新聞、萬(よろず)朝報、大分新聞なりとする。而して他に東京日々新聞の寄贈あり。腹一杯に読むべし、見るべし。しかもまた之をよく消化すべし」
 共同購読とあるから村役場の経費ではないようだ。事実、「読まねば読まん損と入費の出した損」になると触れた一文があった。時は日露戦争の真っ最中、戦局の情報は特に知りたいはずで、複数紙の購読を協議したのだろう。しかし辺地のため郵送だったようだ。足の便の悪い地域では、情報の遅れはやむを得ないはずだが、後になって驚くべき事実を知る。

 道草を食う話になる。萬朝報は「よろず重宝」のシャレのようだ。この新聞は第三面に世間の出来事を載せていて、そこから三面記事の言葉ができたという。
 とにかく、新聞は時代を映す鏡だが、率先して時代の風潮を扇動することもある。本稿で割愛した筆録に萬朝報の記事に触れた箇所があった。新聞の号数は第四二九二号とある。そこに「韓国人民論」が掲載されているようだ。真弓はその中の一節「(韓人は)衣冠を着たアイヌ、直立歩行の猿猴(えんこう)なり」を引いている。「余も韓人と擇(えら)ぶところあらん」と自分の実力を卑下する喩えの引用である。卑下も嫌味だが、韓国人はもとよりアイヌ民族も蔑視する記事に同調していることのほうが気になる。
 
 後付けで非難しても仕方ないが、今の視座に立つと、新聞は偏向のナショナリズムを煽り、民衆も民族差別に気をとめていないことがわかる。歴史を振り返ってそれに気がつくことが歴史から学ぶということではないか。この号紙、国立図書館かどこかの大学で保存されていないだろうか。

 東京日々新聞は言うまでもないが今の毎日新聞の前身である。どちらも東京の発行紙である。下関から鉄道連絡船で九州に渡っていた時代の郵送にどれだけ日数がかかったことか。だからこそ、その時代は地方紙が幅をきかせていた。