本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

村役場の宿直春秋抄(10-3)

2008-03-21 10:28:38 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(10-3)

 この項の最後に費用の明細がある。乗り物でみれば、吉井・久留米間の馬車鉄道乗車賃三十六銭、久留米・吉塚間の汽車賃三十七銭、武徳殿より東公園までの人力車代三十銭などとある。当然ながら人力で動かす車は馬車や汽車よりも割高だ。だが、高いわりに俥の乗り心地はよくないはずだ。というのも当時は木製の車輪だった。ゴムタイヤ付き人力車の登場は明治四十一年という。

 現在の価格に置き換えても的外れになるだろうからやめる。言えることは、乗る距離の比較から汽車賃は思いのほか安い。その当時は民営の鉄道で、筑豊炭田の石炭輸送の貨物収入が多く、経営状態は安定していたようだ。このため明治三十九年に鉄道国有法が公布されたが、国有化を渋ったそうだ。
 
 二日市で買い求めた草鞋一足代は二銭とある。草鞋は途中で履きつぶしたときの予備だろうか。いや、武徳殿落成式に草鞋を履いて列席したとは考えにくい。紋付羽織袴の正装ではないか。そうなれば礼装の履物は白鼻緒の雪駄になる。靴もありそうだが、洋服文化は大正期に花が咲く。長い道のりを思えば、歩きよい草鞋に履き替えたとみるのが正解と思う。
 
 甘木では提灯、蝋燭二本、マッチ一個の一式を五銭で入手している。夜行の仕度である。明治時代の旅は江戸の道中に近いとしみじみ思う。
福岡日々新聞代二銭、緑餅一包三銭も漏れ落とさない。こと細かく記録していることから矢立てを持ち歩いたのだろう。緑餅とはよもぎ餅のことだろうか。インターネットで出くわした緑餅に次のような一文があった。「博多川端町の小原伝右衛門が豊臣秀吉の茶会に献じたものに川端菓子がある。これは、明治末で姿を消したそうですが、麦粉で作った餅菓子の上に黄な粉を花粉のように振りかけていて「松の緑のように幾久しく」の祝詞を表して緑餅の名もあった」明治末に消えたこの川端菓子を指すのか今となってはわからない。
 
 あれこれ総計して二円五十六銭の旅行経費とある。ついでに六十二銭の節減が可能だったと分析し、一円九十四銭あれば博多三日間の旅行ができると言い添えている。俥を利用したのは、たまたま雨に降られたからだ。旅の雨は思わぬ出費を伴う。これはいつの世も変わらない。
 
 この節約可能な旅行経費を「紳士旅行者及び平民旅行家の参考に供す」と結んでいる。維新後、華族、士族、平民の族称はあった。この結びの文から紳士と平民という呼称もあったことになる。紳士は華族と士族を包含した通称なのだろう。この日の筆録の表題は「平民旅行記」とあるから、真弓自身は平民ということだ。

 費用はともかく、提灯をかざして夜駆けする旅が参考になったかどうかあやしい。