村役場の宿直春秋抄(13)
修学旅行記を読む
四月十三日の項「大山高等小学校の修学旅行記を読みて」に、児童の旅行感想には次の三つが共通するとして「一、夜明道路の粗悪なること。二、大鶴宿泊の時、非常に親切な歓待に預かったこと。三、電気会社、陶器製造、日田高等小学において知識を博めたること」と記している
夜明道路とは、夜明村から大鶴村を通り、福岡県の飯塚に向かう道路(現在の国道二一一号線)を指すのだろう。これが大鶴村の幹線道路なのだが、粗悪であると児童の不評を買った。真弓も児童の感想を気にしたか「道路事情を十分に認識するべし」と書き添えている。郷土資料には、この道路が馬車道として竣成したのは明治四十二年頃とある。後述するが、この馬車道の開通には真弓の強い意思が働いたと思われる。
児童は大鶴村のどこに泊まったか、とんと調べようがない。校舎に寝泊りしたか。そうではなく親切な歓待を受けたとあることから民家に分散して宿泊したのかもしれない。
電気会社の関心も大きい。明治三十二年に日田水電会社が設立している。設立当初からこの社名であれば、日田町となる以前に日田の名を先取りしていたことになる。実際に灯りがついたのは日田町誕生と同じ二年後になる。児童は電力供給源の石井発電所を見学したのだろう。
陶器製造は皿山の小鹿田焼きの窯元を訪ねたことに疑いない。皿山は南北に長い大鶴村の北の隅にある。資料によると皿山から村の中心に近い静修小学校まで二里(約八キロ)とある。実際に車で走ってみた。二里半の道のりになる。山あいのくねくねとした細い道で、今でさえ、車がやっと一台通れる幅だ。ともかく、この道を通って小鹿田焼きを見学するため、大鶴村に泊まったのではないか。
それにしても、日田町より南に十キロの大山村を出発して、日田町のあちこちの見学と大鶴村の北はずれの焼き物見学まで、徒歩の修学旅行を思えば、当時の児童の健脚に舌を巻く。
結びに捨てがたい記述がある。「日田高等小学にてはベースボールについて新知識を得たるの記事あり」
子供たちが野球のまねごとを始めたのは明治の終わり頃といわれている。この時期の日田高等小学校の野球は特筆に価する。ついでに筆がすべると、正岡子規と野球はつとに有名だが、海軍に野球を広めたのは、この五月の日本海海戦でバルチック艦隊に勝利した聯合艦隊の参謀秋山真之という。真之は子規の親友である。うべなるかな。
修学旅行記を読む
四月十三日の項「大山高等小学校の修学旅行記を読みて」に、児童の旅行感想には次の三つが共通するとして「一、夜明道路の粗悪なること。二、大鶴宿泊の時、非常に親切な歓待に預かったこと。三、電気会社、陶器製造、日田高等小学において知識を博めたること」と記している
夜明道路とは、夜明村から大鶴村を通り、福岡県の飯塚に向かう道路(現在の国道二一一号線)を指すのだろう。これが大鶴村の幹線道路なのだが、粗悪であると児童の不評を買った。真弓も児童の感想を気にしたか「道路事情を十分に認識するべし」と書き添えている。郷土資料には、この道路が馬車道として竣成したのは明治四十二年頃とある。後述するが、この馬車道の開通には真弓の強い意思が働いたと思われる。
児童は大鶴村のどこに泊まったか、とんと調べようがない。校舎に寝泊りしたか。そうではなく親切な歓待を受けたとあることから民家に分散して宿泊したのかもしれない。
電気会社の関心も大きい。明治三十二年に日田水電会社が設立している。設立当初からこの社名であれば、日田町となる以前に日田の名を先取りしていたことになる。実際に灯りがついたのは日田町誕生と同じ二年後になる。児童は電力供給源の石井発電所を見学したのだろう。
陶器製造は皿山の小鹿田焼きの窯元を訪ねたことに疑いない。皿山は南北に長い大鶴村の北の隅にある。資料によると皿山から村の中心に近い静修小学校まで二里(約八キロ)とある。実際に車で走ってみた。二里半の道のりになる。山あいのくねくねとした細い道で、今でさえ、車がやっと一台通れる幅だ。ともかく、この道を通って小鹿田焼きを見学するため、大鶴村に泊まったのではないか。
それにしても、日田町より南に十キロの大山村を出発して、日田町のあちこちの見学と大鶴村の北はずれの焼き物見学まで、徒歩の修学旅行を思えば、当時の児童の健脚に舌を巻く。
結びに捨てがたい記述がある。「日田高等小学にてはベースボールについて新知識を得たるの記事あり」
子供たちが野球のまねごとを始めたのは明治の終わり頃といわれている。この時期の日田高等小学校の野球は特筆に価する。ついでに筆がすべると、正岡子規と野球はつとに有名だが、海軍に野球を広めたのは、この五月の日本海海戦でバルチック艦隊に勝利した聯合艦隊の参謀秋山真之という。真之は子規の親友である。うべなるかな。