本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

村役場の宿直春秋抄(4)

2008-03-09 11:55:19 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(4)

中学生の頃
  当時、真弓は何歳だったか。九月二十九日の表題「金十五銭」の項に「明治二十二年旧八月、大分尋常中学を修業し、暑中休暇なるにより家郷にあり、偶々(たまたま)大原神社の祭典に遇(あ)って友人二、三人と参拝す。小遣い銭を父に請うと白銅貨三枚給せられる…歳十五、中学二年生の待遇甚(はなは)だ可なり」と十五歳の思い出を語っている。となれば三十歳前後である。

  ついでに触れておきたい。「尋常中学」とは聞きなれないが、旧制の県立中学校は明治の一時期に「尋常」の名が付けられた。明治十九年の「中学校令」によって、名称が高等中学校(明治二十七年に旧制の高等学校に改称)と尋常中学校に分かれたからだ。大分尋常中学校はこの年に創立している。なお、尋常の文字が消えて元に復したのは明治三十二年の中学校令の改正による。

  脇道の話を続ける。先の「中学校令」では、県立の中学校は一府県一校が原則とされた。真弓は大分県唯一の中学校に在学していたことになる。この原則は明治二十四年に解除された。では、その後の大分県の旧制中学をみよう。
明治二十七年、中津中学校が設立された。当初は大分中学の分校だが二番目に名乗りあげたことになる。さすが、学問をすすめた福沢諭吉のお膝元だ。同三十年には、やはり大分中学の分校として都築、臼杵および竹田に中学校が創設されている。彫刻家朝倉文夫は大分尋常中学校竹田分校に入学したが、三度落第しているうちに竹田中学校になった。
 
  日田に旧制中学校が開校したのは大正十年と遅い。本項の眼目は大鶴村にあるので、日田の旧制中学の立ち遅れに言及するものではないのだが一言加える。
  中津中学は藩校進脩館(逞修館ともある)から発展したのではないかと推測されている。これに対し、日田市の資料に「殊に日田は感宜園といふ漢学塾の伝統があって県下での就学率が後々まで一番低かった」というくだりを見つけた。感宜園が向学の足かせになったとは、なんとも皮肉な話である。中津町との対比を押し広げると、中津町は町として明治二十一年に足場を固めているが、先に述べたとおり豆田町と隈町が合併して日田町になるには明治三十四年まで待たねばならない。この二つの町が角を突き合わせていたというから、教育の足も引っ張っていたかもしれない。ただし、日田の言い分にも触れておく。明治十三年に公立の教英中学が開校している。日銀総裁、蔵相を歴任した井上準之助は一時ここで学んでいる。これが一県一校の原則で廃校になった。
  ただ言い分が弱いのは、五年後の二十四年にその原則が解除され、なお延々三十余年の間に中学校を創建しなかったことだ。(この項続く)