本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

村役場の宿直春秋抄(6-2)

2008-03-13 12:00:48 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(6-2)

(戦死者の帰還の項の続き)
 十月三十日に先の両伍長と陸軍一等軍医の三人の村葬が役場の前で執り行われた。この陸軍一等軍医なる人物は唐突に出た。他に記した箇所はない。
 それはともかく、真弓は、村葬の弔詞二十余通はいずれも形どおりの平凡な内容であると述べた後「一通、平凡のことにして平凡ならざるものあり。それは何か。愛国婦人会日田郡部井上女史の弔詞なりとす」と褒め、さらに「本村中、多数有識の女史ありといえども弔詞などのできるもの何人、式場で従容として読みえるもの何人、之を思へば痛歎の至り。されば女史の弔詞朗読は成年子女の向学心を非常に激動せしめたことと信じる。新聞を読み始めるものもあろう。手習いを始めるものもあろう…余が愚妻もたしかにその一人である。これ井上女史の賜なりと断言す」といたく感銘を受けている。そして最後に味のある一筆を加えている。「本項中、失禮のことあらば村内弐千有余の子女之を宥(ゆる)せ」
 なお、郷土資料では婦人会の発足は大正十一年とあるが、この筆録に愛国婦人会の名がみえる。事実に異同がある。
 
 戦死者の記録を先走って抜きだすと、翌年の明治三十八年七月六日にもある。この人物については「静修、鶴城で教鞭を執りおりしか、昨年召集せられて征露の途に就けり…」とやや詳しく記述している。静修と鶴城は共に村の小学校である。さらに「戦闘において不幸敵弾に斃(たお)れる。功をもって功七級金鵄(きんし)勲章及び勲八等白色桐葉章を授与せらる。その勲功抜群なりし」と弔文を読み上げるような文脈で戦死を伝えている。
 金鵄勲章は七等級に分けられ、功七級はその最下級になる。勲八等白色桐葉章は、八段階に等級が区分された旭日章のことだが、これまた最下位にあたる。いずれも兵卒が対象だ。明治時代の陸軍では一等兵と二等兵が兵卒とある。上等兵や兵長の階級はまだない。先の戦死者の伍長は最下級だが下士官扱いになる。軍は階級によって差別する最たる組織である。

 この日録帳には四人の戦死者の記録がある。郷土資料によれば、大鶴村からの出征者は八十人を超えるが戦病死者は五人と記していた。たぶん、日録帳を書き始める以前にも戦死者が一人いたのだろう。日露戦争でおびただしい犠牲者を出したが、思いのほか無事に帰還している。ただし、注視すべき統計がある。戦病死者には一時賜金が出た。明治三十八年七月、大分県が発表した「時局関係経済調査」によると、過去一年間余の郡別の一時賜金の多い順位は大分郡、下毛郡についで日田郡とある。つまり戦病死者はワースト三位になる。日田郡のほかの町村では日露戦争の犠牲者が多数いたことになる。