本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

村役場の宿直春秋抄(6)

2008-03-12 11:48:55 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(6)

戦死者の帰還
 大鶴村でも日露戦争の影響は免れない。十月十日に「迎勇士之遺髪」の表題がある。村長の尽力で二人の伍長の遺髪が着村したと筆を起こし「之を迎えるもの遺族、村吏員、村会議員、区長、有志、教職員、生徒、総数壱千有餘名。余もまた之を迎えて福井神社の前にあり。二氏の霊柩、面前を過ぎる際、一種の感慨,断腸の思いあり。その一部を描出せんとするも我筆、紙に写し得るべきにあらざるなり」と筆を措く。哀悼の意を表するため、村の有力者をはじめ村民の三分の一が出迎えたことになる。揚げ足取りをすれば、遺髪しか戻らないのに霊柩とあるのがわからない。当時、骨箱(実際は遺髪だけでお骨もないのだが)も霊柩というのだろうか。

 福井神社は県境を越えた宝珠山村(現東峰村)にある。そこに立つ高札の史跡案内によれば「宝珠山村大字福井(旧筑前国上座郡福井村)の南側の境は日田市(旧豊後国日田郡大肥村)に接している」と説明している。つまり福井神社は、古くは大肥村であった大鶴村のとば口にある。真弓は丁重に村の入口で出迎えたということだろう。

 余談を挿むと、福井神社の前を川が流れている。つづみ川という。この川が大鶴村に入ると大肥川に変わる。この川の少し上流に宝珠山炭鉱があった。このため洗炭により汚濁した大肥川の流れは、昭和三十八年の閉山まで半世紀余りも続いた。今はハヤの魚影がかすめる。早春の川辺にオランダ芥子が茂り、梅雨が明けるとホタルが明滅する。秋日和にすっぽんが石の上で甲羅干しをしていたが、最近見当たらない。鍋にされたようだ。
 余談のついでになるが、県境に大正八年の石碑があって「凡(およ)そ豆田町三里」とある。試しに、筆者は県境から夜明を経由し、光岡の旧道を通り、豆田町まで車で走ってみた。約四里(十六キロ)あった。当時の道標は当てにならないというのではない。むしろ、その時代の人々の歩く能力の高さに感心したほうがよさそうだ。しかも、舗装のかけらもない難路をひたすら歩いていた。おそらく、当時の彼らの脚力で今の整備された道を歩けば、さらに道のりを短く表示するのではないか。

 村の戦死者に戻る。その二ヵ月ほど前の八月十九日から乃木将軍率いる第三軍が第一回目の旅順総攻撃を開始した。二十四日の攻撃中止までに一万五千八百人の死傷者を出す凄惨な失敗に終わる。この時の戦死者ではないかと推察される。(この項続く)