録画しておいた市川昆監督の「東京オリンピック」(BS2)を早回しで見ていたら、懐かしい人が出てきたのでキャプチャーしました。
走り幅跳びの山田宏臣選手、日本人初の8メートルジャンパーで39歳の若さで亡くなりました。
実は中学校の同級生の兄貴で、世田谷・上馬の実家には私が芸大を受験する時と、その前年の芸大夏期講習の時には東京での宿のお世話になりました。
私がお世話になった時にはオリンピックからは数年経ていましたが、まだお兄さんは現役のバリバリの選手で、当時の陸上の一流選手が何人も遊びに来ていました。それはお母さんの料理がとても美味しかったからです。それからしばらくして8m01cmの日本記録を作ったときは喜んだものです。
とても気さくな方で名古屋からでてきた田舎者の私にも声をかけていただきました。
山田宏臣選手、39歳の若さで亡くなられたのですね・・・
TVを御覧になられて懐かしい方を発見され、驚かれたことと思います。故人のご冥福をお祈り申し上げます。
もうすぐ北京五輪ですね。日本の選手達の活躍に期待しています。
連日の猛暑、ごんべ絵さんもご自愛くださいませ。
市川昆監督が好きでもう一度ざっと「東京オリンピック」の録画を流したところ、思わぬ人が画面に出てきて感激しました。そういえば私が訪ねたとき『オリンピックは散々だった・・・・』とか言っていました。
でも映画のナレーションには走り幅跳び決勝と言っていましたので決勝に残ったのですね。オリンピックのファイナリストは立派だったと思います。
放送陸上での入賞者たちが日本全国から東京に集まってきて、各種目に分かれ指導していただいたのです。まぐれで入賞してしまった私は、ドキドキしながら参加させていただきましたが、そのときの幅跳びの指導者が山田宏臣さんでした。
たった3日の出会いでしたが、強烈に覚えております。とっても素敵な方だったんです。昭和40年代のことでしたから、根性、根性、ど根性で練習させられると思っていたのに、全く違いました。
すごい人なのに傲慢でなく、何より、ちょっと寂しそうだと感じました。そんな印象が心惹かれる人格者として今も心に残っています。
「今度本出すんだけど、買ってくれる?」
に、みんな
「ハイ。」
と答えると、
「コレで10冊はうれるなあ。」
と真っ黒に日焼けした顔でほほえみながら、やっぱり少し寂しそうだと私は感じました。
あのときは、
「本の題名は決まっているんだ。地獄へのジャンプ8メートル01 っていうんだよ。」
とおっしゃっていました。
その後山田さんの記録を破ったのは、走り高跳びで全国1位になり、この合宿にも高跳び選手で参加していた、臼井さんだったと思うのですが・・・。山田さんも元は高跳び選手だったと知って驚きました。
萩原さんが山田宏臣さんとお会いになったころとほぼ同じころ私も会いました。
42年の大学受験の時と、その2年前に夏期講習の時にお世話になりました。
超一流の人はどこか人をひきつけるものを持っていますね。
ご家族が名古屋に転勤になった時、宏臣さんの弟さんと中学で友達になりました。
その頃は順天堂大学で走り高跳びをされていると聞きました。
『星の数ほど選手がいるので・・・』というような話を聞きました。その後走り幅跳びに変わってあれよあれよというまにオリンピックに出られました。
100mも速かったようですよ10秒6とか言っていました。
弟さんも結構速かったようですよ。